過去編:壊れた彼女1
マリアは、幼い頃から「消えてしまいたい」という感情と共に生きてきた。
朝目が覚めるたびに、胸の奥に重たい石が置かれたような感覚があった。
学校に行けば笑うこともあったし、友達と話すこともできた。
それでも、ふとした瞬間に世界から自分だけが切り離されているような孤独に襲われた。
やがて、その苦しさには名前がついた。
うつ病。
不眠症。
人間不信。
高校を卒業したマリアは、「普通になれたのかもしれない」というささやかな希望を抱いて企業に就職した。
しかし、その希望は長くは続かなかった。
入社して間もなく、男性社員たちはやたらと親切だった。
仕事を教えてくれる。
荷物を持ってくれる。
休憩時間になると飲み物を買ってきて、隣に座る。
マリアはいつも遠慮した。
それでも男性社員たちは放っておかなかった。
最初のうちは、それでもうまくいっていた。
だがそれは同時に、別の何かを引き寄せていたのだ。
女性社員や派遣社員の女性たちの視線が、少しずつ変わっていく。
最初は小さな違和感だった。
挨拶を無視される、会話が止まる、微妙な沈黙。
お菓子を配られる時だけ、自分の席を飛ばされる。
話しかけても返事が返らない。
やがてそれは露骨なものへと変わっていった。
「どうせ顔で得してるんでしょ」
「高卒のくせに調子乗ってるよね」
「なんで正社員採用ってだけで私たちより給料いいわけ」
陰口は日に日に増え、やがて直接的な攻撃へと変わった。
「ちょっと、また間違ってるんだけど!あんたのせいで私まで残業とか、最悪」
「泣くのやめてくれる?私が悪いみたいじゃない」
「この程度の量の仕事すらできないなんて頭おかしいよね〜」
仕事は過剰に押し付けられ、ミスは大げさに責められ、存在そのものを否定されるような言葉を浴びせられる。
誰も助けてはくれなかった。
……いや、正確には違う。
何人かは助けようとしてくれた。
しかし女性に睨まれた途端、見て見ぬふりをするようになった。
男性社員たちは社会人として先輩は敬うものだと誤魔化すように言い、上司は「気にしすぎだ」と笑った。
マリアは、毎日少しずつ削られていった。
帰宅しても眠れない。
ようやく眠れても、また同じ朝が来る。
会社に向かう電車の中で、何度も途中下車したくなった。
どこか遠くへ行ってしまいたかった。
それでも、行かなければならなかった。
「普通」でいるために。
ある日、ついに限界が来た。
朝なのに、体が動かなかった。
頭は起きているのに、指一本動かせない。
呼吸だけが浅く繰り返され、涙が止まらなかった。
そのまま、マリアは会社に行かなかった。
そして、二度と行けなかった。
退社した日、マリアは布団の中で静かに呟いた。
「もう、行かなくていいんだ」
その瞬間、胸を締め付けていた何かが、ふっと軽くなった。
地獄から解放されたような安心感だった。
だが、それは同時に、何もない世界への入り口でもあった。
マリアは外に出なくなった。
カーテンは閉め切られ、時間の感覚も曖昧になっていく。
昼なのか夜なのかもわからない日が増えた。
家族は、そんな彼女を理解しなかった。
「いつまでそんな生活してるつもりだ」
「甘えてるだけでしょ」
「恥ずかしいと思わないの?」
怒鳴り声や冷たい視線が、家の中にも満ちていた。
家族が部屋の前を通るたびに、ため息が聞こえる。
けれど、マリアにはもう、何かに反応する力すら残っていなかった。
外の世界も、人も、言葉も、すべてが遠い。
ただ静かな部屋の中で、息をしているだけ。
ある夜、ふと目が覚めた。
いつものように暗闇が広がっている。
「……まだ、生きてる」
それは、特別な意味を持つ言葉ではなかった。
ただの事実だった。
苦しさも、孤独も、消えてはいない。
これからも続くものだ。
それでも、今この瞬間、自分はここにいる。
それだけが、かすかな輪郭を持って、マリアの中に残っていた。
部屋は静かだった。




