プロローグ:重すぎる愛12
チャイムは鳴らなかった。
その代わりに、鍵が回る金属音だけがした。
扉が、ゆっくりと開く。
「……マリア」
部屋の中はいつもと同じだった。
閉じたカーテン、薄暗い空気。
散乱する空のペットボトル。
けれど、一昨日とはどこか違う。
マリアの気配が、遠い気がする。
「……入るよ」
もう許されていないとわかっていながら、靴を脱いで一歩踏み込む。
その瞬間、部屋の奥から声がした。
「……帰って」
布団から、マリアの頭だけが見えた。
ユリカは踏み出そうとした足を止める。
「……鍵、閉めたはず」
責めるでもなく、ただ事実を確認するような言葉が投げられる。
「鍵、あったから」
「……合鍵で、勝手に開けた」
動揺しながら、正直に答える。
「……帰って」
もう一度、同じ言葉が繰り返される。
今度は、少しだけはっきりとした声で。
「やっ、やだ!」
反射的に出た言葉。
「だってマリア――」
「帰って」
反論しようとして、遮られる。
それ以上、何も言わせない強さが込められていた。
「……入らないでって言ったでしょ」
冷たいように聞こえる、淡々とした声だった。
「……世話、本当に、もういらないから」
その一言が、深く刺さる。
正直、一昨日はあまりにも突然で、マリアの言葉を受け止めることができなかった。
衝撃が大きすぎて、理解したくなかった。
どうせ不器用に笑って、「そんなわけないでしょ」と言ってくれると思っていた。
ユリカの手が、緊張でわずかに震える。
「無理。……無理だよ」
「無理じゃない」
すぐに返事が返ってくる。
「……私は、一人でいい」
「よくないよ!」
思わず一歩踏み出す。
「そんな状態で、一人なんて――」
「来ないで」
ユリカの足が、ぴたりと止まる。
「負担だって、依存しないでって言ったでしょう」
「でも、ゴミ出しとか、食事とか、困るでしょ!?」
「困るよね!ねえ!!」
「……それ以上、来たら無理」
“無理”
その言葉の意味を、ユリカは知っている。
知っていたはずだった。
思い知らされた、はずだった。
それでも、またここに来てしまった。
「……勝手に入って、ごめんなさい」
口からこぼれ出た謝罪。
「でも、やっぱり放っておけない」
「マリアは私がいないと、ダメなんだから」
その言葉に、マリアは顔を歪める。
「……だから、いらないって言ってる」
かすかに震える声。
「それが……一番、しんどいから」
震えた声が、ユリカの胸にゆっくりと染み込んでいく。
(また、つらい思いをさせた)
結局自分は、この人を助けているつもりで。
ずっとずっと、追い詰めていた。
「……ほんとは、わかってた」
「でも、認めたくなかった」
マリアは何も言わずに、ユリカへと視線を向ける。
「触れたら嫌がるのも」
「近づいたらしんどいのも」
「私がいると、休めないのも」
全部、知っていた。
それでも。
「……やめなかった」
理由は簡単だった。
(私が、離れたくなかったから)
「……最低、だね」
自嘲するように言う。
「全部わかってて、やってた」
自分が、必要とされている気がしたかっただけ。
「……恥ずかしい」
「私も、ちゃんと言わなかったから」
「お互い様、かも」
マリアの不器用な慰めが、今は痛い。
「……私、帰る」
小さく言うと、マリアが「待って」と言う。
ユリカは一瞬だけ、泣きそうな笑みを浮かべた。
「そこの、リビングのソファ」
そう言われて、古びたソファに視線を移す。
「ユリカの荷物、まとめてある」
そこには、ユリカがこの家に持ち込んだ物が置かれていた。
歯ブラシ、充電器、着替えの洋服。
幼い頃からお気に入りの、黄色い皿まであった。
荷物の一番上には、おしゃれな模様が描かれた、古いお菓子の空き箱が置いてある。
マリアは、それを見て少しだけ目を伏せた。
(ああ)
(本当に、私はもう必要ないんだ)
荷物をバッグに入れながら、その現実を受け入れていく。
「……もう、来ない」
「ちゃんと、人の気持ちを考えられるようになるまで」
その言葉は、自分自身への誓いだった。
涙混じりの、震える声で喋り続ける。
「マリアに、会わない」
それがどれだけ難しいか、わかっている。
会いたくなることも、きっと何度もある。
それでも、ここまで壊した責任がある。
「せめて……それくらい、しないと」
ユリカはゆっくりと立ち上がる。
長い黒髪が涙のように背を流れて、さらりと揺れる。
「……今まで、ごめん」
最後に、それだけを残して扉へ向かう。
鍵を開けて、外に出る。
今度は、ちゃんと鍵を閉める。
ガチャリと鳴る、その音を確認してから、マリアはやっと肩のこわばりをほどいた。
布団の中で、マリアはしばらく動けなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……つかれた」
それだけだった。
安心でも、悲しみでもない。
今度こそ、消耗だけが残る。
一方でユリカは、アパートの外で立ち尽くしていた。
(全部、自分のせい)
それだけが、はっきりしている。
(でも、愛していた)
「……ほんとに」
泣きながら鼻水をすする。
「自業自得」
誰のせいでもない、選び続けた結果。
ようやく、それを受け入れる。
ユリカはやっと歩き出す。
もうすぐ、高校生活が終わる。
マリアのいないほうへ。
そう何度も自分に言い聞かせる。
言い聞かせなければ、今すぐ戻ってしまいそうだった。
だから前を見る。
ちゃんとした大人になるために。




