プロローグ:重すぎる愛11
音のない午後だった。
マリアは天井を見つめる。
何も考えたくないのに、思い出だけが浮かんできた。
紙でできた、いびつな指輪。
「……」
情報を遮断するように、目を閉じる。
(あの頃は)
ただ、一緒にいるだけでよかった。
意味なんて必要なかった。
好きとか、愛とか、そんな言葉を持ち込む前の時間。
「……もう、戻れない」
今のユリカは、もう子どもじゃない。
同じように笑っても、同じように名前を呼んでも、そこにある意味が違う。
近づかれるたびに苦しくなる。
それなのに――
「……拒めない」
現実をはっきりと認める。
完全には、突き放せない。
思い出が多すぎるから、曖昧になる。
「……だめ」
ゆっくりと起き上がる。
身体は重くて、息も苦しい。
それでも、一生懸命考える。
(このままじゃ、だめ)
ユリカは優しい顔で近づいて、当然のようにそばにいて、そのまま止まらない。
それを許しているのは、自分だ。
「……私が、終わらせないと」
そのとき、玄関にいつもの気配があることにマリアは気づく。
チャイムもなく、扉を開く音がする。
「……ユリカ」
いつもなら部屋のドアは開けっ放しにしているが、今日は少し寒くてドアを閉めたままだ。
部屋の前に立つユリカが、ためらいがちにノックをした。
「マリア、入っていい?」
その言葉に、少しだけ迷う。
いつもなら、黙っていればユリカはドアを開けて入ってくる。
「……だめ」
弱い声で、それでもはっきり言う。
「は?」
「……え、急になんで?」
潰れたようにかすかな声がした。
「もう、この家に入らないで」
マリアは決心が鈍らないように、あえて言葉を選ばず話す。
「世話もいらない」
間を置かず、精一杯に続ける。
「……私、一人でいい」
扉の向こうで息を呑む音がした。
次の瞬間、何か重い物が床に落ちる。
「ちょっと、待ってよ」
「いやいや、ほんと……無理でしょ」
明らかに動揺した声音を聞いても、構わない。
「無理じゃない」
「むしろ……」
そこで少しだけ、言葉が詰まる。
「……負担だった」
自分でも、はっきりと理解する。
ああ、これが本音だと。
「……ユリカが来ると」
言い聞かせるように、一つずつ言葉にする。
「休めない」
「もう無理」
「……怖い」
最後の一言は、本当に小さく落ちた。
「……怖い?」
繰り返される。
「え、じゃあ私もういらないの?」
「……うん」
息苦しい沈黙が長く続く。
「……待って」
扉の向こうで、ユリカが言う。
「明日さ、燃えるゴミの日じゃない」
「関係ない」
「ゴミ袋重いよ!私じゃないと無理だって」
ユリカはいつもの日常の話を続ける。
それは引き止めるための言葉だった。
「……勝手に、依存しないで」
ユリカの言葉を、マリアの強い声が遮る。
「私に、必要以上の意味をつけないで」
ユリカの呼吸が止まる気配。
「……家族でいい」
少し間を置いて続ける。
「私は、それ以上はいらない」
それがマリアの限界だと告げる。
「……」
呼吸を忘れたような時間だった。
やがて、ユリカが床に落ちた物を拾う音がする。
「……この家に来るのもダメなんて、厳しすぎない?」
「急にいらないなんて、冷たいっていうか」
マリアがあえて黙っていると、ユリカはようやく諦めたように大きなため息をつく。
「嫌だけど、ほんと嫌だけど!……わかった」
「……わかった」
「今は」
足音が、ゆっくりと遠ざかる。
ドアは開かれないまま、静けさが戻る。
マリアは布団に座り込む。
力が抜けて、もう立ち上がる気力もない。
「……しんどい」
胸の奥が、じんわりと痛む。
曖昧にした分だけ、余計に傷つけてしまった。
「……ごめん」
誰に向けたものか、わからない。
これで終わったはずだった。
そう思いたかった。




