第2話 信頼の不在
ヴァレリアが去ってから、二週間。
サリス領主邸の執務室は、不穏な空気に包まれていた。
「どうしてだ……! なぜ、引き継ぎ書通りにやっているのに、何一つ上手くいかない!?」
机の上に、うずたかく積まれた書類の山。
未処理の請求書。
領民からの悲鳴のような陳情書。
そのすべてが、領政の完全な機能停止を物語っていた。
「ファ、ファビアン様ぁ……。この計算書、何度やっても数字が合わなくて……頭が痛いですぅ……」
かつて可憐だったミモザは、今や見る影もない。
桃色の髪はボサボサに乱れ、目の下にはどす黒いクマ。
徹夜続きの疲労で、声を震わせている。
「黙れ! お前が『私にもできる』と言ったんだろう!」
ファビアンが怒声をあげる。
ミモザはビクリと肩をすくめ、涙を浮かべた。
優しかった恋人は、今や些細なことで怒り狂う暴君へと変わっていた。
ファビアンは、ヴァレリアが残した引き継ぎ書を乱暴にめくる。
文字は美しい。
手順も完璧。
なのに、現実が、全く噛み合ってくれない。
◆
最初の躓きは、数日前。
東部堤防の補強工事を、ドワーフの石工ギルドへ発注した時だった。
引き継ぎ書には、こうあった。
『雨季の前に、東部堤防の補強を石工ギルドに発注。予算は金貨50枚。期日は〇月〇日』
ファビアンは記載通り、金貨50枚と命令書をギルドへ送った。
手順に間違いはなかった。
しかし、戻ってきたのは、無惨に破り捨てられた命令書。
そして、ドワーフの親方からの絶縁宣言だった。
『二度とサリス家の仕事など受けるか!』
ファビアンは知らない。
なぜ、へんくつで頑固なドワーフたちが、金貨50枚という破格の安値で動いていたのか。
ヴァレリアは、毎月必ず現場に足を運んでいた。
埃まみれの泥に塗れながら。
持病の腰痛を抱える親方の体調を、本気で気遣っていた。
職人たち全員の名前を呼び、冷たい麦茶や、塩漬けの果物を手渡していた。
『皆さんの技術が、この領民の命を守る砦です。いつもありがとうございます』
一人一人に頭を下げるヴァレリア。
その誠実さを、職人たちは意気に感じていた。
信頼と誇り。
それがあったからこそ、彼らは薄利でも喜んで無理な納期を呑んでいたのだ。
それをファビアンは「下々の職人風情に、金を出してやるのだから有り難く働け」と、高圧的な書類を突きつけた。
視察に同行したミモザは「まぁ、泥臭くて不潔なおじ様たち」と、露骨に鼻を摘まみ早々に逃げ帰った。
踏みにじられた、職人のプライド。
結果は火を見るよりも明らかだった。
ノートに書かれた完璧な手順の裏にある、ヴァレリアの泥臭い誠実さが、マニュアルをなぞるだけのファビアンたちには見えていなかったのだ。
◆
崩壊は、それだけに留まらない。
サリス領の最大の財源である、特産品の羊毛。
その大口の取引先である、王都の「マルセル商会」の商会長が訪れたのは、その日の午後だった。
初老の商会長は、ファビアンから差し出された契約書を一瞥もしなかった。
「サリス男爵。誠に残念ですが、今期限りで我が商会は、お宅の羊毛の買い付けを全て停止させていただきます」
「な、何故ですか、マルセル会長!」
ファビアンの顔から血の気が引く。
「価格も据え置きの金貨三百枚で提示している! 我が領の羊毛を買わなければ、貴殿の商会だって困るはずだ!」
取り乱すファビアンの横で、ミモザが浅はかにも口を挟む。
「そうですわ! 嫌なら、もっと安い別の商会に乗り換えるだけですもの!」
その瞬間、商会長の目が、氷のように冷え切った。
「……別の商会、ですか。どうぞご自由に。こちらも他領から買い付けるだけですので。元々、サリス領の羊毛は質に対して、少々価格が高めでしたからな」
「だったら、なおさら何故……!」
「ヴァレリア様が、いらっしゃったからです」
「……は?」
商会長は、静かに立ち上がった。
「……三年前、私が最愛の妻を亡くし、絶望していた時。ヴァレリア様だけが、私の心の痛みに寄り添ってくださいましてね……」
ヴァレリアは、自身の小さな手帳に、その妻の命日を記していた。
そして、毎年その日が来ると、生前、最も愛していた花を、個人的にそっと届けていたのだった。
『奥様の愛したこの花は、今年も綺麗に咲きましたよ』
ただ、それだけの、不器用な誠実さ。
しかし、商会長にとって、彼女は世界で最も信頼できるビジネスパートナーとなった。
「この人が守る領地のためなら、いくらでも協力しよう」と、利益を度外視して支えていたのだ。
それを、ファビアンは「金を運んでくる便利な財布」として扱ってしまった。
ミモザは「別の商会に乗り換える」と吐き捨てた。
「我々は人を数字としか見ないお若い方々と、これ以上お付き合いするつもりはありません。それでは」
商会長は一礼し、流れるように退室する。
それは、サリス領の財政の柱が、完全に折れた瞬間だった。
◆
「嘘だ……こんなはずはない……!」
ファビアンは頭を抱え、ガタガタと震えだした。
マニュアルは完璧だった。
書いてある通りにやった。
なのに、なぜ。
未だファビアンはこうなった原因を理解できないでいた。
領主の隣に座るだけの、華やかな仕事。
そう信じていたミモザは、押し寄せる現実の重圧に、ただ涙を流すことしかできない。
「ヴァレリアがいれば、こんなことには……」
その言葉にミモザの顔が引き攣った。
「そんな、酷いですファビアン様!」
「その通りだろう! お前が無能なせいで俺はこんなことに……っ」
足元から、すべてが崩れ去っていく恐怖。
二人の間にあった甘い空気は、完全に消え失せていた。
引き継ぎ書は、ただの紙。
彼らが切り捨てたのは、文字にできない、一人の女性の「信頼」という名の、巨大なインフラだった。
次回は明日の18時頃に更新予定です。




