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「代わりはいくらでもいる」とおっしゃいましたね? では、どうぞその「代わり」とお幸せに  作者: 古沢樹


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第3話 どうぞ「代わり」とお幸せに

 差し込む、柔らかな陽光。

 白磁の机の上できらめく、琥珀色の紅茶。


「ヴァレリア様、お疲れ様です。焼き立てのクッキーも置いておきますね。あまり根を詰めすぎないでください」


 そう言って微笑み、丁寧に一礼したのは、私付きの女官であるリネット。

 私の体調をいつも気遣ってくれる、誠実で、とても気の利く女の子だ。


「ありがとう、リネット。ちょうど一区切りついたところだから、少しいただくわ」


 サリス領を去ってから、一ヶ月。

 私は今、隣領であるオルデン公爵邸の執務室にいた。


「素晴らしい。完璧な仕事だよ、ヴァレリア」


 執務室の扉が開き、そう言って入ってきたのは、この広大な領地を統べる若き統治者、ディートリヒ・フォン・オルデン公爵。

 無駄を嫌い、周囲からは冷酷と恐れられる「氷の公爵」。

 だが、私を見るその灰色の瞳には、確かな信頼の色があった。


「現場の職人たちの声が、これほど緻密に反映された予算案は見たことがない。君が来てから、我が領の財務は驚くほどの健全化を遂げた。君の聡明さは、我が領の最高の財産だ」


「もったいないお言葉です、閣下。私はただ、自分の仕事を誠実に行っているだけにすぎません」


 私は静かに頭を下げた。


 実はディートリヒ閣下は、私が以前にサリス領の名前で提出した書類を見て、その実務能力に気づいていたらしい。

 「ファビアンにはもったいない逸材だ」と。


 だからこそ、私がサリス領を出たと知った瞬間、閣下はすぐに動いてくださった。

 サリス領時代の三倍の年俸。

 私を支えてくれる、リネットのような有能で優しい部下たち。


 過労で倒れそうになっていた日々が、まるで嘘のようだった。



 その平穏が破られたのは、午後のことだった。


「ヴァレリア! ヴァレリアはどこだ!」


 公爵邸の美しいエントランスに、相応しくない怒号が響き渡る。

 私がロビーへ降りると、そこにいたのは、信じられないほど変わり果てた元婚約者の姿だった。


 ファビアン・ド・サリス。

 かつての華やかな面影は、どこにもない。

 服はシワだらけで、髪は乱れ、目は血走っている。


 彼の後ろには、ガタガタと震えるミモザの姿もあった。

 桃色の髪は艶を失い、泥でもついたかのように汚れている。

 何があったのか、その顔は恐怖に支配されていた。


 ファビアンは私を見るなり、周囲の騎士たちの制止を振り切って、掴みかからんばかりに叫んだ。


「ヴァレリア! お前、あの引き継ぎ書に嘘を書いたな! 罠を仕掛けただろう!」


「……嘘、でございますか?」


 私は一歩も引かず、彼を真っ直ぐに見つめた。


「そうだ! お前の書いた通りにやったのに、職人どもはボイコットし、商会には契約を打ち切られた! お前が裏で細工をしたに決まっている!」


 ファビアンの怒りは、自身の無能さを隠すための哀れな叫びだった。

 隣で、ミモザも泣きじゃくりながら声をあげる。


「そうですわ……! あんなノート、ただの嫌がらせです! ヴァレリア様、お願いですから戻って帳尻を合わせてください! 私、もうあの執務室に戻りたくありませんわ!」


 あまりの馬鹿馬鹿しさに、私は静かに息を吐いた。

 相手を蔑むためではなく、ただ、厳然たる「事実」を伝えるために、唇を開く。


「お言葉ですがファビアン様。引き継ぎ書に嘘や細工は一切ございません。数値も、手順も、すべて正確です」


「じゃあ、なぜ誰も俺の言うことを聞かないんだ!」


「理由は簡単です」


 私は、自分の胸に手を当てた。


「『信頼』という無形の資産は、書類に書いて引き継げるものではないからです。それは、毎日泥に塗れ、相手を人間として尊重してきた私自身の財産ですから」


 ファビアンが息を呑む。


「マニュアルさえあれば、誰にでもできる。お前の代わりなどいくらでもいる。……そうおっしゃったのは、あなた様です」


 書類の上にある言葉をなぞるだけでは、人の心は動かせない。

 私が数年かけて築き上げた職人や商人との「絆」という名の巨大なインフラ。

 それを、彼らは自らの不誠実さで、わずか一ヶ月で叩き壊したのだ。


「そんな……、そんな理屈があるか! 戻れ! これは命令だ!」


 ファビアンが私の腕を掴もうと手を伸ばしたその時。


「――我が領の筆頭財務官に、それ以上の無礼は許さん」


 背後から響いた、地を幾重にも這うような低い声。


 ディートリヒ公爵。

 その圧倒的な威圧感の前に、ファビアンの手がピタリと止まる。


「オ、オルデン公爵……! なぜ、この女がここに……」


「私がスカウトしたのだ。サリス男爵」


 ディートリヒ閣下は私を背中に隠すように前に出ると、冷徹な眼差しでファビアンを見下ろした。


「君たちの度重なる領政の不手際、および管理不届きの疑い、すでに王宮の査察官に報告済みだ。来週にでも、緊急の現地監査を行われるだろう」


「現地、監査……?」


 ファビアンの口から、乾いた声が漏れた。


「事実であれば君の爵位は国に返上され、領地は没収となるだろうな」


 それは逃れられぬ破滅の宣告だった。


「そんな……嘘だ……俺は伯爵家の跡継ぎだぞ……!」


 崩れ落ちる男。

 腰を抜かし、涙を流す女。


 もはや彼らは、迫り来る破滅の足音に怯えることしかできない。

 すべては、実務を軽視し、誠実さを捨てた彼らが自ら招いた結末だった。


 私は、騎士たちに引きずられていく二人を、静かに見つめた。

 そして、これが最後となる一礼をする。


「『代わりはいくらでもいる』とおっしゃいましたね? ファビアン様」


 私の声は、静かに、しかし重く、ロビーに響いた。


「では、どうぞその『代わり』の方と、これから何年もかけて信頼を築き直してくださいませ。……お幸せに」


 私の言葉に、ファビアンは絶望の表情を浮かべ、ミモザは顔を覆った。

 二人の姿が、完全に扉の向こうへと消えていく。



 静寂を取り戻した、広いロビー。


「――すまないね、不快な思いをさせた」


 ディートリヒ閣下が、私を振り返って柔らかく微笑んだ。

 その表情に、先ほどの氷のような冷徹さは微塵もない。

 リネットも後ろでほっと胸を撫で下ろしている。


「いえ。これで完全に、過去と決別ができました」


 むしろスッキリとした気分だった。

 しかし、いつまでも浸っている場合ではない。


「……さて、閣下。今回のサリス領の件で少し数字の変動が予想されます。すぐに執務室に戻って、明日の会議用の資料を修正してきますね」


 時間を無駄にしたくない。

 私はすぐに仕事へ戻ろうとした。


「待ちなさい、ヴァレリア」


 しかし、私の前にディートリヒ閣下がそっと手を差し伸べ、それを遮った。


「今日と明日の君のスケジュールは、すべて白紙に戻そう。……いや、私の命令で休日に変更する」


「え……?」


 驚いて閣下を見上げる。

 ディートリヒ閣下は、私の目を見つめ、これまでになく真剣な、そして温かい声で言った。


「君はいつも、誰よりも誠実に、完璧にやろうとする。だが、無理をして君に倒れられては困るんだ。……我がオルデン公爵領において」


 一歩、彼が近づく。


「君の代わりは、どこにもいないのだから」


 ――君の代わりはいない。


 かつて言われた最も残酷な言葉の反対語。

 それが今、絶対的な肯定となって、私の胸を満たしていく。


「……はい。ありがとうございます、閣下」


 私の口元から、自然と笑みがこぼれた。


 それは、誰かのために無理をして作る、愛想笑いではない。

 自分の価値を認められ、愛された者だけが浮かべられる、心からの眩しい笑顔だった。


 しかし、急に休みになるというのも困りものだ。


(さて、これからどうしましょう。……久しぶりに街にでも出かけようかしら)


 私はそんな少し贅沢な悩みを抱えながら、軽い足取りで歩み出していた――。

ご覧くださりありがとうございました!


少しでも面白いと思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると励みになります。


これからも、新作や好評をいただいたタイトルの続編など更新していく予定ですのでよろしくお願いします。

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