第3話 どうぞ「代わり」とお幸せに
差し込む、柔らかな陽光。
白磁の机の上できらめく、琥珀色の紅茶。
「ヴァレリア様、お疲れ様です。焼き立てのクッキーも置いておきますね。あまり根を詰めすぎないでください」
そう言って微笑み、丁寧に一礼したのは、私付きの女官であるリネット。
私の体調をいつも気遣ってくれる、誠実で、とても気の利く女の子だ。
「ありがとう、リネット。ちょうど一区切りついたところだから、少しいただくわ」
サリス領を去ってから、一ヶ月。
私は今、隣領であるオルデン公爵邸の執務室にいた。
「素晴らしい。完璧な仕事だよ、ヴァレリア」
執務室の扉が開き、そう言って入ってきたのは、この広大な領地を統べる若き統治者、ディートリヒ・フォン・オルデン公爵。
無駄を嫌い、周囲からは冷酷と恐れられる「氷の公爵」。
だが、私を見るその灰色の瞳には、確かな信頼の色があった。
「現場の職人たちの声が、これほど緻密に反映された予算案は見たことがない。君が来てから、我が領の財務は驚くほどの健全化を遂げた。君の聡明さは、我が領の最高の財産だ」
「もったいないお言葉です、閣下。私はただ、自分の仕事を誠実に行っているだけにすぎません」
私は静かに頭を下げた。
実はディートリヒ閣下は、私が以前にサリス領の名前で提出した書類を見て、その実務能力に気づいていたらしい。
「ファビアンにはもったいない逸材だ」と。
だからこそ、私がサリス領を出たと知った瞬間、閣下はすぐに動いてくださった。
サリス領時代の三倍の年俸。
私を支えてくれる、リネットのような有能で優しい部下たち。
過労で倒れそうになっていた日々が、まるで嘘のようだった。
◆
その平穏が破られたのは、午後のことだった。
「ヴァレリア! ヴァレリアはどこだ!」
公爵邸の美しいエントランスに、相応しくない怒号が響き渡る。
私がロビーへ降りると、そこにいたのは、信じられないほど変わり果てた元婚約者の姿だった。
ファビアン・ド・サリス。
かつての華やかな面影は、どこにもない。
服はシワだらけで、髪は乱れ、目は血走っている。
彼の後ろには、ガタガタと震えるミモザの姿もあった。
桃色の髪は艶を失い、泥でもついたかのように汚れている。
何があったのか、その顔は恐怖に支配されていた。
ファビアンは私を見るなり、周囲の騎士たちの制止を振り切って、掴みかからんばかりに叫んだ。
「ヴァレリア! お前、あの引き継ぎ書に嘘を書いたな! 罠を仕掛けただろう!」
「……嘘、でございますか?」
私は一歩も引かず、彼を真っ直ぐに見つめた。
「そうだ! お前の書いた通りにやったのに、職人どもはボイコットし、商会には契約を打ち切られた! お前が裏で細工をしたに決まっている!」
ファビアンの怒りは、自身の無能さを隠すための哀れな叫びだった。
隣で、ミモザも泣きじゃくりながら声をあげる。
「そうですわ……! あんなノート、ただの嫌がらせです! ヴァレリア様、お願いですから戻って帳尻を合わせてください! 私、もうあの執務室に戻りたくありませんわ!」
あまりの馬鹿馬鹿しさに、私は静かに息を吐いた。
相手を蔑むためではなく、ただ、厳然たる「事実」を伝えるために、唇を開く。
「お言葉ですがファビアン様。引き継ぎ書に嘘や細工は一切ございません。数値も、手順も、すべて正確です」
「じゃあ、なぜ誰も俺の言うことを聞かないんだ!」
「理由は簡単です」
私は、自分の胸に手を当てた。
「『信頼』という無形の資産は、書類に書いて引き継げるものではないからです。それは、毎日泥に塗れ、相手を人間として尊重してきた私自身の財産ですから」
ファビアンが息を呑む。
「マニュアルさえあれば、誰にでもできる。お前の代わりなどいくらでもいる。……そうおっしゃったのは、あなた様です」
書類の上にある言葉をなぞるだけでは、人の心は動かせない。
私が数年かけて築き上げた職人や商人との「絆」という名の巨大なインフラ。
それを、彼らは自らの不誠実さで、わずか一ヶ月で叩き壊したのだ。
「そんな……、そんな理屈があるか! 戻れ! これは命令だ!」
ファビアンが私の腕を掴もうと手を伸ばしたその時。
「――我が領の筆頭財務官に、それ以上の無礼は許さん」
背後から響いた、地を幾重にも這うような低い声。
ディートリヒ公爵。
その圧倒的な威圧感の前に、ファビアンの手がピタリと止まる。
「オ、オルデン公爵……! なぜ、この女がここに……」
「私がスカウトしたのだ。サリス男爵」
ディートリヒ閣下は私を背中に隠すように前に出ると、冷徹な眼差しでファビアンを見下ろした。
「君たちの度重なる領政の不手際、および管理不届きの疑い、すでに王宮の査察官に報告済みだ。来週にでも、緊急の現地監査を行われるだろう」
「現地、監査……?」
ファビアンの口から、乾いた声が漏れた。
「事実であれば君の爵位は国に返上され、領地は没収となるだろうな」
それは逃れられぬ破滅の宣告だった。
「そんな……嘘だ……俺は伯爵家の跡継ぎだぞ……!」
崩れ落ちる男。
腰を抜かし、涙を流す女。
もはや彼らは、迫り来る破滅の足音に怯えることしかできない。
すべては、実務を軽視し、誠実さを捨てた彼らが自ら招いた結末だった。
私は、騎士たちに引きずられていく二人を、静かに見つめた。
そして、これが最後となる一礼をする。
「『代わりはいくらでもいる』とおっしゃいましたね? ファビアン様」
私の声は、静かに、しかし重く、ロビーに響いた。
「では、どうぞその『代わり』の方と、これから何年もかけて信頼を築き直してくださいませ。……お幸せに」
私の言葉に、ファビアンは絶望の表情を浮かべ、ミモザは顔を覆った。
二人の姿が、完全に扉の向こうへと消えていく。
◆
静寂を取り戻した、広いロビー。
「――すまないね、不快な思いをさせた」
ディートリヒ閣下が、私を振り返って柔らかく微笑んだ。
その表情に、先ほどの氷のような冷徹さは微塵もない。
リネットも後ろでほっと胸を撫で下ろしている。
「いえ。これで完全に、過去と決別ができました」
むしろスッキリとした気分だった。
しかし、いつまでも浸っている場合ではない。
「……さて、閣下。今回のサリス領の件で少し数字の変動が予想されます。すぐに執務室に戻って、明日の会議用の資料を修正してきますね」
時間を無駄にしたくない。
私はすぐに仕事へ戻ろうとした。
「待ちなさい、ヴァレリア」
しかし、私の前にディートリヒ閣下がそっと手を差し伸べ、それを遮った。
「今日と明日の君のスケジュールは、すべて白紙に戻そう。……いや、私の命令で休日に変更する」
「え……?」
驚いて閣下を見上げる。
ディートリヒ閣下は、私の目を見つめ、これまでになく真剣な、そして温かい声で言った。
「君はいつも、誰よりも誠実に、完璧にやろうとする。だが、無理をして君に倒れられては困るんだ。……我がオルデン公爵領において」
一歩、彼が近づく。
「君の代わりは、どこにもいないのだから」
――君の代わりはいない。
かつて言われた最も残酷な言葉の反対語。
それが今、絶対的な肯定となって、私の胸を満たしていく。
「……はい。ありがとうございます、閣下」
私の口元から、自然と笑みがこぼれた。
それは、誰かのために無理をして作る、愛想笑いではない。
自分の価値を認められ、愛された者だけが浮かべられる、心からの眩しい笑顔だった。
しかし、急に休みになるというのも困りものだ。
(さて、これからどうしましょう。……久しぶりに街にでも出かけようかしら)
私はそんな少し贅沢な悩みを抱えながら、軽い足取りで歩み出していた――。
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