第1話 完璧な引き継ぎ
「……よし。これで、今年の冬の備えは万全ね」
深夜の執務室。
静寂の中、一本の万年筆が微かな音を立てる。
私の名前はヴァレリア・ラングレ。
このサリス領の財務官であり、領主ファビアンの婚約者。
手元にあるのは、使い古した小さな革の手帳。
そこには、数字ではない言葉が並んでいる。
『石工ギルドの親方さん、右膝の持病が悪化。次の資材搬入はスロープ側を指定すること』
『売店のお婆さん、冬用の薪の確保が遅れている。領主の手形を早めに回す』
どれも、帳簿には載らない小さな事柄。
けれど、領地という巨大な生き物を動かすために、決して欠かしてはならない生きた情報。
一つ一つの文字に、私のまごころを込めて書き留める。
机の上には、たった今完成した完璧な当期決算書。
これで明日からも、民が飢えることなく暮らせるはず。
心地よい疲労感と共に、私はそっと息を吐いた。
◆
カチャリ、と静かに扉が開いた。
流れ込んできたのは、ひどく甘い香水の匂い。
王都の夜会から戻ったばかりの、華やかな余韻。
入ってきたのは、私の婚約者であるファビアン。
そしてその腕にしがみつく、桃色の髪の令嬢ミモザ。
「おや、まだ起きていたのかい、ヴァレリア。君のその……寝食を忘れるほどの勤勉さには、いつも頭が下がるよ」
ファビアンは端正な顔に笑みを浮かべた。
けれど、その瞳には温かさなど一欠片もない。
ただの、形式的な称賛だった。
「本当に、素晴らしい熱意ですわ」
ミモザが、鈴を転がすような声で言葉を重ねる。
「私、ヴァレリア様のような書類ばかりを見つめる生活なんて、とても真似できませんわ。殿方をハラハラさせてしまうほど、あまりに完璧すぎて……。少し、可愛げが足りないのかしら、なんて思ってしまいますけれど」
捻りもない嫌味と、向けられる値踏みするような視線。
「ヴァレリア、僕もずっと心を痛めていたんだよ」
ファビアンが芝居がかったため息をつく。
「サリス領の領主夫人というのは、単に計算が得意なだけでは務まらない。社交の場で僕の隣に立ち、周囲を和ませる潤滑油のような存在でなくてはならないんだ。君が一人で夜遅くまで机に向かっている姿を見るたびに、僕は自分が無能な男のように思えて……胸が痛むんだよ」
「まぁ、ファビアン様はお優しいですこと。でも、ヴァレリア様はお仕事が恋人のようですから、華やかな社交場に出るお時間なんてありませんわよね?」
二人の言葉の裏に隠された意図。
要約すれば――お前はもう、この領地にも、僕の隣にも必要ない。
と言うことだった。
私は、そっと万年筆を置いた。
悲しみは、驚くほど湧いてこない。
ただ、心の奥底で、冷徹な計算が完了した音がした。
――ああ、この男はついに、経営と労働の区別がつかなくなったのだな、と。
隣領の貧乏男爵家の娘である私が、このサリス伯爵家に嫁ぐはずだった理由。
それは、傾きかけていたこの領地の財政を立て直すためだった。
ファビアンは外面が良い。
夜会での立ち回りや、中央の貴族たちとの人脈作りには天才的な才能を発揮する。
しかし、内政は違った。
彼は地味で泥臭い書類仕事が、大嫌いだった。
彼が夜会で「サリス領は健在なり」と笑っている裏で、私は寝る間も惜しんで帳簿を叩き、税収を管理し、領内のインフラを整えてきた。
ファビアンが国王陛下に提出して褒められた国家予算案も、すべて私が裏で書き上げたものだ。
それを、彼は「自分の一体である婚約者がやったことだから、自分の手柄だ」と本気で思い込んでいたらしい。
私は一度だけ、ミモザを見た。
彼女は、私が座っているこの「領主の隣」という席を、ただの華やかな特等席だと思っているのだろう。
その席に座るために、どれだけの責任と実務がのしかかるかも知らずに。
価値のない資産。
これ以上投資しても、赤字が増えるだけの不良債権。
それが、私の目から見た、今のファビアンだった。
彼らが求めているのは、穏便な排除。
ならば、泥沼の議論に費やす時間は私の人生の無駄というものだ。
「――ファビアン様がそこまで深く、苦悩されているとは気づきませんでした」
私は静かに立ち上がった。
表情は変えず、どこまでも凛とした声で告げる。
「そこまで私の存在があなた様の胸を痛め、領主としてのプライドを脅かしているのでしたら……私から、婚約の解消をお申し出いたします。もちろん、財務官の職も、今日限りで辞任いたしましょう」
ファビアンの顔に、一瞬、露骨な安堵が浮かんだ。
自分が悪者にならず、私に自ら身を引かせたという、浅はかな達成感。
「君が……そう言ってくれるのなら、僕も救われるよ。やはり君は物分かりが良い。実はミモザが『僕を支えたい』と言ってくれてね。これからは彼女が領主夫人の座を引き受けてくれる。君は実家でゆっくりと、休むといい」
ミモザが勝ち誇った笑みを浮かべる。
私から「特別な席」を奪い取ったという、歪んだ優越感。
私は、足元に置いてあった革のトランクを開けた。
その中から数冊の革装丁のノートを取り出し、机の上に美しく並べていく。
「私が去ることで、領民が困ることは本意ではありません。ここに、私がこれまで行ってきたすべての実務を書き起こした『引き継ぎ書』を置いておきます」
ミモザが不思議そうに、そのうちの一冊を開いた。
彼女の目が、ぱっと輝く。
「あら、ファビアン様、見てください! これ、すごく分かりやすいですわ。数字も手順も、全部綺麗に書いてあります。これなら、私でも明日からできそうですわね」
ファビアンもノートを覗き込み、満足そうに頷いた。
「なるほど。これなら、わざわざ君をここに縛り付けておく必要もなかったな。実務など、マニュアルさえあれば誰がやっても同じだ。君の『代わり』はいくらでもいるということだね」
代わりは、いくらでもいる。
そう言って、彼は笑っていた。
◆
私は、長年愛用してきた一本の万年筆と、小さな手帳だけを衣服のポケットに収めた。
それだけが、私の持ってきた大切な財産。
トランクを閉じると、私は二人に向け完璧な貴族の礼を取った。
「サリス領の益々のご発展をお祈り申し上げます」
ファビアンは満足そうに顎を突き出し、ミモザはクスクスと笑いながら彼に寄り添っている。
「――『代わりはいくらでもいる』とおっしゃいましたね?」
私は、扉に手をかけ、最後に一度だけ彼らを見た。
口元に、柔らかな笑みを浮かべて。
「では、どうぞその『代わり』の方と、お幸せに」
静かに、扉を閉める。
カチャリ、と錠が落ちる音。
深夜の廊下は、冷えていた。
しかし、私の足取りは確かだった。
私を縛るものは、もう何もない。
暗闇の向こうには、誰も見たことのない、私だけの自由な道が広がっていた。
ご覧くださりありがとうございます!
少しでも面白いと思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると励みになります。
次回は明日の18時頃に更新予定です。




