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「代わりはいくらでもいる」とおっしゃいましたね? では、どうぞその「代わり」とお幸せに  作者: 古沢樹


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第1話 完璧な引き継ぎ

「……よし。これで、今年の冬の備えは万全ね」


 深夜の執務室。

 静寂の中、一本の万年筆が微かな音を立てる。


 私の名前はヴァレリア・ラングレ。

 このサリス領の財務官であり、領主ファビアンの婚約者。


 手元にあるのは、使い古した小さな革の手帳。

 そこには、数字ではない言葉が並んでいる。


『石工ギルドの親方さん、右膝の持病が悪化。次の資材搬入はスロープ側を指定すること』

『売店のお婆さん、冬用の薪の確保が遅れている。領主の手形を早めに回す』


 どれも、帳簿には載らない小さな事柄。

 けれど、領地という巨大な生き物を動かすために、決して欠かしてはならない生きた情報。

 一つ一つの文字に、私のまごころを込めて書き留める。


 机の上には、たった今完成した完璧な当期決算書。

 これで明日からも、民が飢えることなく暮らせるはず。

 心地よい疲労感と共に、私はそっと息を吐いた。



 カチャリ、と静かに扉が開いた。


 流れ込んできたのは、ひどく甘い香水の匂い。

 王都の夜会から戻ったばかりの、華やかな余韻。


 入ってきたのは、私の婚約者であるファビアン。

 そしてその腕にしがみつく、桃色の髪の令嬢ミモザ。


「おや、まだ起きていたのかい、ヴァレリア。君のその……寝食を忘れるほどの勤勉さには、いつも頭が下がるよ」


 ファビアンは端正な顔に笑みを浮かべた。

 けれど、その瞳には温かさなど一欠片もない。

 ただの、形式的な称賛だった。


「本当に、素晴らしい熱意ですわ」


 ミモザが、鈴を転がすような声で言葉を重ねる。


「私、ヴァレリア様のような書類ばかりを見つめる生活なんて、とても真似できませんわ。殿方をハラハラさせてしまうほど、あまりに完璧すぎて……。少し、可愛げが足りないのかしら、なんて思ってしまいますけれど」


 捻りもない嫌味と、向けられる値踏みするような視線。


「ヴァレリア、僕もずっと心を痛めていたんだよ」


 ファビアンが芝居がかったため息をつく。


「サリス領の領主夫人というのは、単に計算が得意なだけでは務まらない。社交の場で僕の隣に立ち、周囲を和ませる潤滑油のような存在でなくてはならないんだ。君が一人で夜遅くまで机に向かっている姿を見るたびに、僕は自分が無能な男のように思えて……胸が痛むんだよ」


「まぁ、ファビアン様はお優しいですこと。でも、ヴァレリア様はお仕事が恋人のようですから、華やかな社交場に出るお時間なんてありませんわよね?」


 二人の言葉の裏に隠された意図。

 要約すれば――お前はもう、この領地にも、僕の隣にも必要ない。

 と言うことだった。


 私は、そっと万年筆を置いた。

 悲しみは、驚くほど湧いてこない。


 ただ、心の奥底で、冷徹な計算が完了した音がした。

 ――ああ、この男はついに、経営と労働の区別がつかなくなったのだな、と。


 隣領の貧乏男爵家の娘である私が、このサリス伯爵家に嫁ぐはずだった理由。

 それは、傾きかけていたこの領地の財政を立て直すためだった。


 ファビアンは外面が良い。

 夜会での立ち回りや、中央の貴族たちとの人脈作りには天才的な才能を発揮する。

 しかし、内政は違った。

 彼は地味で泥臭い書類仕事が、大嫌いだった。


 彼が夜会で「サリス領は健在なり」と笑っている裏で、私は寝る間も惜しんで帳簿を叩き、税収を管理し、領内のインフラを整えてきた。

 ファビアンが国王陛下に提出して褒められた国家予算案も、すべて私が裏で書き上げたものだ。


 それを、彼は「自分の一体である婚約者がやったことだから、自分の手柄だ」と本気で思い込んでいたらしい。


 私は一度だけ、ミモザを見た。

 彼女は、私が座っているこの「領主の隣」という席を、ただの華やかな特等席だと思っているのだろう。

 その席に座るために、どれだけの責任と実務がのしかかるかも知らずに。


 価値のない資産。

 これ以上投資しても、赤字が増えるだけの不良債権。

 それが、私の目から見た、今のファビアンだった。


 彼らが求めているのは、穏便な排除。

 ならば、泥沼の議論に費やす時間は私の人生の無駄というものだ。


「――ファビアン様がそこまで深く、苦悩されているとは気づきませんでした」


 私は静かに立ち上がった。

 表情は変えず、どこまでも凛とした声で告げる。


「そこまで私の存在があなた様の胸を痛め、領主としてのプライドを脅かしているのでしたら……私から、婚約の解消をお申し出いたします。もちろん、財務官の職も、今日限りで辞任いたしましょう」


 ファビアンの顔に、一瞬、露骨な安堵が浮かんだ。

 自分が悪者にならず、私に自ら身を引かせたという、浅はかな達成感。


「君が……そう言ってくれるのなら、僕も救われるよ。やはり君は物分かりが良い。実はミモザが『僕を支えたい』と言ってくれてね。これからは彼女が領主夫人の座を引き受けてくれる。君は実家でゆっくりと、休むといい」


 ミモザが勝ち誇った笑みを浮かべる。

 私から「特別な席」を奪い取ったという、歪んだ優越感。


 私は、足元に置いてあった革のトランクを開けた。

 その中から数冊の革装丁のノートを取り出し、机の上に美しく並べていく。


「私が去ることで、領民が困ることは本意ではありません。ここに、私がこれまで行ってきたすべての実務を書き起こした『引き継ぎ書』を置いておきます」


 ミモザが不思議そうに、そのうちの一冊を開いた。

 彼女の目が、ぱっと輝く。


「あら、ファビアン様、見てください! これ、すごく分かりやすいですわ。数字も手順も、全部綺麗に書いてあります。これなら、私でも明日からできそうですわね」


 ファビアンもノートを覗き込み、満足そうに頷いた。


「なるほど。これなら、わざわざ君をここに縛り付けておく必要もなかったな。実務など、マニュアルさえあれば誰がやっても同じだ。君の『代わり』はいくらでもいるということだね」


 代わりは、いくらでもいる。

 そう言って、彼は笑っていた。



 私は、長年愛用してきた一本の万年筆と、小さな手帳だけを衣服のポケットに収めた。

 それだけが、私の持ってきた大切な財産。


 トランクを閉じると、私は二人に向け完璧な貴族の礼を取った。


「サリス領の益々のご発展をお祈り申し上げます」


 ファビアンは満足そうに顎を突き出し、ミモザはクスクスと笑いながら彼に寄り添っている。


「――『代わりはいくらでもいる』とおっしゃいましたね?」


 私は、扉に手をかけ、最後に一度だけ彼らを見た。

 口元に、柔らかな笑みを浮かべて。


「では、どうぞその『代わり』の方と、お幸せに」


 静かに、扉を閉める。

 カチャリ、と錠が落ちる音。


 深夜の廊下は、冷えていた。

 しかし、私の足取りは確かだった。


 私を縛るものは、もう何もない。

 暗闇の向こうには、誰も見たことのない、私だけの自由な道が広がっていた。

ご覧くださりありがとうございます!


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次回は明日の18時頃に更新予定です。

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