2.ひとりぼっちの朝
可愛らしい小鳥の囀りが、ルシアを夢の中から引き上げた。幾分高く思える日の光。身を起こそうとして、体に走った少しの痛みが、ルシアの意識を覚醒させる。
旦那様は、とあたりを見回しても、部屋の中には見当たらない。サイドボードを見ても、置き手紙すらない。
「‥‥‥‥‥」
ルシアは部屋に一人きり。昨日のことは、やはり全て幻になってしまった。どうして目が覚めても夫と一緒だと、当然のように思っていたのだろう。ルシアは、現実を少し離れたところから眺めるような不思議な気持ちになる。
昨日のウェルテルは、恥という感情を失ったかのような睦言を散々ルシアに浴びせていた。薬で錯乱していたのは間違いない。そうと知りながらも、その言葉を一時でも信じ縋り付いてしまった自分が恥ずかしい。朝起きて横にいない事実こそが、ウェルテルからの回答なのだろう。
よくわからぬ涙も流れてくる。
トサリとベッドに倒れ込み、天蓋を見つめる。柔らかな日の光が部屋に溢れ、今日も気持ちのいい日になるに違いない‥そのうららかさがルシアの孤独を浮き彫りにする。
誰でもいい。誰かそばにいてほしい。でも、一人になりたい。
ルシアの眠っていたところを除き、シーツはひんやりと冷たい。燃えるような昨夜の気配はどこにもなかった。
ここにいてはいけない。ここにいても昨日のことばかり思い出してしまう。ぐるぐると考え続けてしまう。だから、意識して切り替える方が良い。涙を布団でそっと拭う。
集中して頭の中をからっぽにしたルシアは、サイドボードに置かれた呼び鈴を鳴らした。ややもあって、侍女が入室してくる。
「‥‥奥様、おはようございます。お加減は?」
「‥‥ええ、なんとか」
「‥‥そうでしたか。お食事は?」
「‥‥食欲がないの。‥‥あの‥‥わたくし、屋敷へ帰りたくて。準備をしていただいても?」
「え!?‥‥‥あ、いえ‥‥承知しました」
「‥‥?なにか?」
「いいえ、その、夫君は?もう少しお待ちいただければいらっしゃるかと‥」
来ないだろう、ウェルテルは。
「‥‥いいの。帰りたいんだもの」
ルシアが努めて微笑むと、侍女はそれ以上何も言ってこなかった。
◇
馬車に揺られながら、ルシアはぼんやりとする。体はたしかに疲労を湛えているのに、頭はすっきりとして、不思議な開放感もある。これが男に抱かれるということなのだろうか。今までにない感覚と初めての体験が結びついていく。
ウェルテルと次に会う時、どんな顔をすれば良いのだろう。それにウェルテルはどんな顔をするのだろう。昨日のことは全て忘れてほしいと言われてしまうだろうか。それとも、何も言わずに沈黙の中にすべてを埋められてしまうのだろうか。そうと察しながらも、今まで通りだろうか。
もしかしたら、錯乱中の記憶は綺麗さっぱり消えている可能性もある。ウェルテルに縋り付いて甘えるルシアのことなど覚えていないかもしれない。でも、それはそれで途方もなく寂しい。
そんな不安定な気持ちが、ルシアの帰宅を先延ばしにしようとする。
城で馬車の準備を待つ間、屋敷に先触れを出すように言ったが、ルシアはやっぱり帰宅したくなかった。家に持ち込みたくない何かが体に纏わりついていて、それをすっかり落とさなければ、帰宅してはいけないような気さえする。
「‥‥‥‥」
御者に聞こえるようにルシアはベルを鳴らした。
◇
久しぶりに訪れたアミネス大聖堂は、以前変わりなく、荘厳な佇まいだった。直線的な石造りの大聖堂は、ローリゼン帝国内でも屈指の名建築として名高い。
ルシアが亡きマルセル・デュプレ伯爵と夫婦だった頃、二人は大聖堂に併設された孤児院によく慰問に来たものだった。そこで子供たちに読み書きやレース編みを教え、穏やかな時間を過ごしたのだ。ふたりの間に子どもはいなかったが、もしいたら、それはそれで幸せだったに違いないと思わせてくれる、満ち足りた時間だった。
夫の墓前に花を手向ける。すでに終わってしまったことを考える時、ルシアは森閑とした安心を抱く。月命日が近いからだろうか。墓前にはすでに誰かが供えた花が揺れていた。生前、朗らかで聡明なマルセルがいかに慕われ、その死によって多くの人の心に影を落としたことが思い出される。
いつまでも墓前にいると、前に進めないような気がしたルシアは、ハッとして、礼拝堂の中へと歩き始めた。広い礼拝堂にはほとんど人がいない。美しいステンドグラスが光を受けて輝く。静かに心を落ち着けるのにちょうど良い空間。ゆったりとベンチに腰掛ける。
しばらくそうして、美しい空間の中で心をからっぽにしていく。澄んだ空気のなかで、自分の輪郭線が溶けてぼやけていく。目を瞑ってしまえば、もうルシアはそこにいない‥‥しかし、その心地よいひとりぼっちの湖から、ルシアの意識は引き上げられた。
「やあ、これは」
「‥‥‥あら?」
「お久しぶりですね、ルシア。元気な様で良かった」
「ありがとう、あなたもお変わりないようで‥アーネスト、今日は診療の日ですか?」
「ええ、少し休憩しようと思ってここに来てみましたが‥‥正解でしたね」
アーネストがいかにも貴族らしい柔和な笑みを浮かべる。
「まあ」
「そういえば、手紙は届いていますか?父主催の祖父を偲ぶ茶会の」
「ええ、もちろん。皆さんに会えるのが楽しみですわ」
「そうだね、あなたに会えると思って僕も待ち遠しい思いだったけど‥今日は良い日だ」
「‥‥‥」
思いがけない言葉にルシアは驚く。以前の義理の孫にあたるアーネストは、医師として大聖堂で診療をする日が月に何度かある。今日もそうだったのだろう。義理の孫ではあったが、ルシアと歳はさほど変わらない。
そのアーネストから思いがけない言葉をかけられて、ルシアは返す言葉がなかった。いままでそういう類の言葉をかけられたことは無かったのに。最後に会った時とは違う、ほのかな熱がその瞳にちらつく。
ルシアの戸惑いには気が付かないのか、それとも気が付かないふりなのか、何気ない様子でアーネストがルシアの横へ腰掛ける。
「なんだか雰囲気が変わりましたね。新しい生活には慣れましたか?」
「あ‥‥‥」
言葉の意味がうまく頭に入ってこない。義理の孫という肩書を無くした目の前の男が、全く知らない人に見える。ルシアの視線からとまどいを読み取ったのだろうか。沈黙が流れる。アーネストは躊躇いながらも意を決したのか、そっと話し始めた。
「‥‥‥喪が明けたら‥一番にあなたに求婚しようと思っていたから、だから、式が終わって公証人が持ってきた遺言を見た時に、本当に落胆しました」
「‥‥‥‥まあ、そんな‥‥外聞がよろしくないわ」
「‥‥もちろんです。聡明なお祖父様はあなたをめぐって孫達が争うのを見たくなかったんでしょう。それこそ醜聞ですよ。そこでベレンセ伯爵が‥‥」
「‥‥おじいさまが?…あっ」
「‥‥‥‥」
マルセルと二人きりになった時だけ、ルシアは夫のことをふざけて「おじいさま」と呼ぶことがあった。マルセルはこそばゆいような表情で返事をくれたものだった。急にその日のことが思い出される。もうそんな風に呼びかけても、応えてくれる人はいない。目頭が熱くなる。
でも、これが何に対する涙なのかルシア自身もわからなかった。抑圧されていた悲しみがゆらりと蘇り、ルシアを覗き込む。
「……ごめんなさい、急に色んなことが思い出されて…」
「……大丈夫だ、ルシア。困らせる気はなかったんだ」
「ええ…もちろん。今日少し不安定なの…気にしないで」
「‥‥新しい家でうまくいっていないのですか?」
アーネストが一瞬だけ苦しそうに眉を寄せた。初めて見るその表情にルシアは少し魅入ってしまう。ともすれば、神経質そうにも見える繊細な造りの顔が、造形美を保ちながらも歪められ、均衡を失う瞬間の色香。美しいものに走る綻びをつくづくと観察する。
その短い間に、アーネストはウェルテルとはまた違う素敵な男性なのだと、ルシアはやっと気がついた。今まで、身の回りにいる男性を異性として意識することはほとんど無かった。既婚者で、夫との仲が良好だったからだろうか。
アーネストに思いを寄せる女性が、もしかしたら沢山いるのかもしれない。ルシアの目から鱗が落ちる。再発見を不思議な気持ちで咀嚼する。
「‥‥‥‥ルシア」
「‥‥いいえ、ベレンセ伯爵は関係ないの」
しかし同時に、この人ではない‥‥やはり、とルシアの中から確信めいたものが湧き上がった。
「‥‥そろそろ帰ります。会えて嬉しかったわ。ありがとう、お茶会も楽しみにしています」
「‥‥ああ、私も」
その時、バタンと重い音がした。礼拝堂のどこかの扉が閉まったらしい。二人の間には少しの気まずさが残った。




