1. こんなはずでは
「奥様、旦那様は王宮内で薬らしき液体を浴びせらそうになった御婦人を庇い、現在恐慌状態です。お相手が必要なことですので、恐れながら、奥様をお呼び立てした次第でございました」
ルシアが屋敷内の東屋でのんびりと過ごしていた昼下がり。夫ウェルテルが近衛騎士団長として勤める王宮から、その急な使いはやってきた。あれよあれよと馬車に乗せられ、ルシアは今、王宮内の豪華な居室に通されている。
「‥‥‥‥‥‥‥それは‥‥つまり、媚薬のたぐいをかけられたということですか?」
「おそらくは‥‥ただ、医師の見立てでは他にも何か入っているのでは、と。錯乱も見られるそうです。犯人は捕まっておりますが、痴情のもつれが動機のようでした」
「‥‥‥そうですか」
「はい。‥ですのでこれから、奥様には諸々の準備をしていただきます」
「‥‥‥わかりました。お願いいたします」
ルシアはどこか他人ごとのようにぼんやりと侍女の話を聞いていた。
あの理知的で、礼節という一線を越える気配のない夫は、きっとルシアが馳せ参じたところで変わりはしないだろう。いつものような穏やかな表情でこういうはずだ。
『心遣いをありがとう。でも君には負担が大きいだろうから、どうか屋敷で待っていてほしい』
そんな妙にくっきりとした想像をしながら、ルシアは寂しく笑みをこぼした。
◇
「‥‥‥お‥‥さま‥‥おくさま?奥様!」
そんな寂しい想像の世界にいたルシアを、侍女の声が呼び戻す。簡易な湯浴みを終え、ルシアはしっとりとした雰囲気ののナイトドレスを着付けてもらっている。
ベルスリーブに段になったフリルがついたエンパイアラインのドレスは、まろい光を湛え裾がストンと落ちる。
そして、なんと下着は付けていない。侍女に尋ねても「かえって邪魔になるかと思います」「旦那様もその方がうれっ‥‥ごほんっ!手間が無いかと」などと言われてしまい、疎いルシアは丸め込まれてしまった。
「奥様、おそらく長丁場になるでしょうから、甘いものを召し上がってください。厨房自慢のフロランタンとかぼちゃのパイですわ」
「まあ‥‥ありがとう。とても美味しそうね」
ルシアは嬉しそうにかぼちゃのパイを口に運ぶ。生家のフランセン家にいた頃、かぼちゃのパイはルシアのお気に入りのお菓子だった。
その間、侍女たちは結われていたルシアの髪を解き丹念に梳いて、ゆるい三つ編みに編んでいく。うなじには芳しい香油がぬられ、あたかも初夜の準備のようだ。
「‥‥あの、このかぼちゃのパイをもう一ついただいても?とても美味しいわ」
「もちろんです。食べ終わったら夫君のところへ参りましょう」
「ええ、準備をしていただいてありがとう」
でも、きっと無駄になってしまうけど‥という寂しい言葉はパイと共に飲み込まれた。
◇
呑気にパイをおかわりした夫人を呆れと驚嘆の気持ちでマリアは見つめる。この方はこれから何が起こるのかわかっていないのだろうか?自分ならたとえ勧められてもあまり食べられないだろう‥
やはり、普段から大切にされているという余裕がこの可愛らしい呑気に繋がるのだろうか?あの優しい夫がまさか自分に無体を働くはずがない、という自信をもって‥‥それとも生来の胆力なのか。
まさかその御婦人がいまだ処女とは知らず、マリアは尊敬の念を抱いたのだった。
◇
「奥様、せっかくですから王宮自慢のお茶もどうぞ」
ルシアが軽い食事を終えたところで、今度はお茶が供された。美しい琥珀色のそれは、なんだか妙な甘さだった。
「‥‥お砂糖を沢山いれるのが王宮流なんですの?」
屈託無くルシアが侍女に問う。
「‥‥‥‥はい、そうです。それに糖分を多く摂っていただきたく」
「‥‥そうね、そうだわ。ありがとう」
侍女の顔が強張ったことにルシアは気がついたが、別に責める気持ちはないのだからと小さく微笑み、お茶をすっかり飲み干した。それをしかと見届けた侍女に案内されて、ルシアは苦しんでいるらしいウェルテルのもとへ向かっている。
◇
通された豪奢な客室。その奥の寝室に、ウェルテルは居るという。確かに少し人の気配がある。
「‥‥‥‥‥‥」
ルシアは憂鬱だった。前夫のマルセル・デュプレ伯爵が亡くなり、喪が明けてすぐに再婚した夫ウェルテルには昔から想う相手がいるらしいと、屋敷のメイドたちが話しているのを聞いてしまったから。なにか事情があって結婚出来ぬそのお相手を思い、ウェルテルは立場がありながらも独身で頑張っていたらしい。
対してルシアはと言えば、16歳の時に実家への援助とその友好の証としてデュプレ伯爵の後添となり、そして昨年、未亡人となった。そんな彼女にデュプレ伯爵が最後に残したのがウェルテルとの縁談だったのだ。
もともとの生家が火の車なルシアにとって、持参金無しという破格のその縁談はまさに渡りに船だったが、同時に冷たい扱いもある程度覚悟しなければならないように思えた。その代償として、喪が明けて早々にベレンセ伯爵婦人となったルシアの生活は、再び保障されるのだから。
一方、各方面から結婚をせっつかれていたであろうウェルテルにとっても、体よく、しかも力関係から自分に素直に従うであろうルシアは都合が良いはずだ。ルシアと適度な距離と関係を保ちながら、真の恋人との時間を楽しんでいるのだろう。
ルシアは考える。つまり、自分を王宮に呼んだのは夫、ウェルテルではなく、その事情を知らぬ侍女やウェルテルの部下達だろう。こんな時こそ、思う相手と会いたいはず‥と逡巡し、ルシアは一つの答えに行き着いた。
いや、その大切な相手に無体なことをしたくないからこそ、妻の肩書を持つ自分を呼んだのかもしれない、と。
ルシアの長いまつ毛が悲しげに伏せられた。
いつも礼儀正しく親切なウェルテル。ガッシリとして、貴族の男性らしいたおやかさなど一片もない背中。粗雑に扱われたことなど一度も無い。踏み込まれることのない一線こそがルシアを傷つける。
いつもそつないその様子。ウェルテルが何を考えているのか、ルシアには読み取りきれない。それにも関わらず、何か悠然とした優しいものを感じているのは、ルシアの誇大妄想なのだろうか。エスコートされる時、背に触れる掌の温かさに何か意味を見出そうとするのは、寂しい女の悪あがきなのだろうか…
そう、つまり結婚してから3カ月、ルシアがウェルテルを好きになってしまうには十分な時間だった。
だから、こんな形でも触れてもらえるなら‥と思う半面、こんな形でなんて‥と悲しむ気持ちがあるのだ。
何を隠そう、二度も結婚しているにもかかわらず、ルシアはいまだ処女だった。デュプレ伯爵とは伯爵の歳のこともあり、ほんのりとして温かい家族愛を築いた。優しくキスされることはあったが、それ以上のことは何もない。
そしてこの二度目の結婚では、ウェルテルはルシアに触れてこようとしないのだ。亡くなった前夫の喪が明けたばかりだからと、ルシアを気遣う言葉は優しいが、遠ざけられているようで寂しかった。わかっていたこととしても、精力旺盛そうな逞しい男が手を付けようともしないのだ。自分には女としての価値も魅力も無いのかもしれない‥とルシアは静かに打ちのめされていた。
しかしそれは、ただルシアの気持ちの問題。今は形だけでも妻として、という最後の矜持でウェルテルのもとに向かう。
寝室に踏み込めば、おざなりにひかれた緞帳の影、豪華な寝台の端でシャツをはだけさせたウェルテルと目が合った。
かつて見たことのない手負いの獣のようなギラギラとした夫の風体。恐れを感じながらも、魅入られたかのようにルシアは一歩、また一歩と厚い絨毯の上を進む。
「‥‥旦那様?‥お加減はいかがですか?」
ウェルテルから発せられるものにあてられたのか、不思議なことにルシアの体もじわじわと熱をあげていく。耳のすぐ横で胸の鼓動がドクドクと聞こえてくる。なにかおかしいその状態でルシアはウェルテルのそばに歩み寄る。
「‥‥‥旦那様?」
ルシアがウェルテルを覗き込む。いつも見上げるばかりの夫の顔。こんなにじっくり見るのは初めてかもしれない。深い紺碧の瞳はギラつきながらもしっかりとして、錯乱しているようには見えない。いつもきっちり剃られた髭が少しだけ伸びていて、その姿が新鮮だった。
「‥‥あの‥‥‥旦那様?大丈夫ですか?」
ルシアがまじまじとウェルテルを観察していた間、ウェルテルもただじっとルシアを見つめ返す。あるのは無言だけ。無言はルシアを不安にさせる。そのあまりの居心地の悪さにルシアは早々に挨拶をして退室しようと決め、口を開きかけた。しかし、急に伸びてきた太い腕にガバリと抱きすくめられ、小さな悲鳴をあげて。
「きゃっ………」
「‥‥ルシアっ!本当に‥‥君が来てくれるなんて‥‥!」
夫ウェルテルはやはりおかしいことになっている。あまりに予想外のことにルシアは言葉を失ったのだった。
◇
「そういう色のドレスも似合うんだな。古いおとぎ話に出てくる妖精みたいだ…見たことないが…そうだ!似たものを誂えよう、屋敷でも是非着て見せてくれ!」
さっきから、ウェルテルからルシアへの妙な賛美が止まらない。ルシアはいたたまれない気持ちでふかふかとした立派なベッドの真ん中、ウェルテルと向かいあって座っている。
まさか、侍女の言う「お相手」とは錯乱した夫の「話相手」だった、ということなのだろうか。いやらしい想像をしていた自分が恥ずかしい。
「うーん、ベッドの上にただ座っているだけなのに…なんなんだこの可愛さは?ちょこんとして」
ウェルテルは錯乱しているだけ。本当はルシアのことをこんな風には思っていないはすだ。
「困った顔もぐっとくるな。いつも遠くから見ていた君が、今はこんなに間近にいるなんて」
あの落ち着いたウェルテルが、こんな風に女性を口説くことがあるのだろうか。
「あの…私が誰だかわかりますか?」
「え?もちろん、俺の妻のルシアだ。……妻か……最高の響きだ」
ウェルテルが目を細めて感じ入っている。錯乱しきっているわけではないようだが、どう扱っていいのかルシアは考えあぐね、問いかけた。
「…あ、あの…体調は本当に大丈夫なんですの?なんだかいつもとご様子が違くて、戸惑いますわ…」
「そんなことはない、いつも通りだ。いつもこんな感じだっただろう!」
「そ、そうでしたかしら…?」
「うん。こんなに可憐な妖精が、俺みたいな熊のお嫁さんになってくれるなんて、舞い上がっても仕方ない」
ルシアは頭を抱えそうになった。やはり、ウェルテルはいつも通りではない。全くおかしい。これは完全に錯乱状態だ。そうでなければ一体何だというのだろう。
しかし、ウェルテルが容赦なく吐き出す睦言に、ルシアも耐えられなくなってきているのも事実。
「…あ!頰が赤くなってる!」
ハッとして、ルシアが両手で頰を包む。取り澄ました態度を取り繕っても、頰や耳が赤くなるのはどうにもできない。こんな風に真正面から堂々と褒めそやされた経験なんて、ルシアには無いのだ。
「…見ないでください」
ルシアすっかりは弱みを握られてしまったような気持ちになって、震えながら俯いた。
「まっ‥まさか、照れてるのか?!」
「………」
「‥‥もっとよく見せてくれ!」
ウェルテルがずいと距離を詰めてくる。ルシアの華奢な手を、その頰から引き剥がしまじまじと見つめてくる。
「…………っ」
ルシアが息を呑む。結婚式でさえ、こんなに近くにウェルテルを感じたことはなかった。誓いの証文にサインした時の、あの触れそうで触れない距離をウェルテルはいつだって守っていたのに。
「……俺は…俺は…チャンスがあると思っていいのか?!」
握り込まれた両手首から、ウェルテルの熱が伝わってくる。ルシアはとうとう胸が苦しくなってきた。胸の中で何かが膨らんで行く。その小さな疼痛のせいなのかじんわりと視界が歪む。
「…………」
「………ルシア?!」
それと同時に何やら体の奥が潤びるような、不思議な感覚をいよいよルシアは自覚する。あの妙に甘いお茶…まさか…
「………」
ルシアが縋るようにウェルテルを見つめた。もうウェルテルが錯乱していても、それでも良いではないか。自分だって、好きになった男に一晩中抱きしめられてみたい。一夜の夢はこれが最初で最後かもしれない。それでも、もし身籠ることがあれば、ルシアの立場は保証される。
今までただ受け止めるだけだった視線が、初めて熱を持って絡み合った。原始的なその合図。わあわあと騒がしかったウェルテルも黙り込み、じっとルシアを見つめる。
何も知らないルシアでも、そうするのが正しいことが本能でわかってしまう。
そうして、ルシアは静かに目を閉じたのだった。




