大人になった朝
それは、いつもと変わらない、二人で眠りについた日の夜の事だった。
礼は、暗がりの中、ひとりぽつんと突っ立っていた。
真っ暗なその空間には、なんだかざわざわと、まるで噂話をするような、
ささめきあうような声が響いていた。
その声をBGMに、礼はひとまず歩き回ることにした。
そうしていると、声はまたざわざわと、まるでこちらの方をはやし立てるように強くなった。
耳障りな音だな、と思いながらも、礼は歩く。
すると、ひとり、背を向けて佇んでいる、黒い男が目に入った。
暗がりにまぎれてしまいそうなその男は、礼が隣に来ても、まるで気が付いていないかのように虚空を見つめている。
礼は、気が付かないのかと思い、何となく男の袖口に触れる。
すると、BGM程度だったざわめきが、途端に鮮明な音を持って、礼の頭に直接なだれ込んできた。
「邪神め。お前などどこかへ消えてしまえ」
「黒い神。淀みの子。歪な子。汚らわしい」
「痛い目にあいたくなければ、さっさとどこかへ消えろ」
「誰がお前を愛する?そんなもの、どこにもありはしない」
どよどよ、ざわざわ。
頭が痛くなりそうなくらいのノイズが、礼を満たした。
男はなおも虚空を見つめたままだ。
礼は、礼は、途端に腹が立った。ひどく腹立たしく思った。
このノイズが、この男に向けられていることが何となく分かってしまったからだ。
よってたかって、なんだ。この声は。あんまりではないか。
礼は、叫んだ。
「うるっさいな!少し黙れないの!?」
すると、ノイズが嘘のように消えていき、暗闇には静寂だけが残った。
そこで男は初めてのろのろと礼の方を向き、首を傾げた。
「なんで、僕を庇うのですか?」
「癪だったから。あなたがなにをしたの?」
「分かりません。そんなこと」
はじめて、男が泣いた。ぽたり。一滴だけ、涙が頬を伝った。
「あぁ、ほら。おいで、居月」
…居月?なんでその名前が出るのだろう。
礼が疑問に思ったときには、すでに男の腕の中に閉じ込められていた後だった。
男は嗚咽を漏らしながら泣いた。
礼は、疑問に感じながらも、男を抱き寄せ、背を撫で、頭を撫で、
まるでいつもそうしていたかのように、額に口づけを落とした。
ぱちり。
礼は、唐突に目が覚めた。
まだ日も登りきっていない、暗さの残る時間のようだ。
妙に身体にかかる重さが気になって身じろぎしてみる。
…動かない。
もぞもぞと身体を動かしてみるも、やはり、自由が利かない。
今、どういう状況なのか、寝ぼけた頭だが状況を確認しようとする。
なんだか、大事な夢を見ていたような気もするのだが、そんな事はすっかり忘れてしまっていた。
ただ、腕の中に今もいるだろう居月を触って確かめるが、そこでハタと気が付く。
…なんか、大きくないか?
そこまで思い至ると、また成長したのか、という所まで頭は動く。
だが、それがどういう事なのかは、かなり後になって脳みそに届いた。
これ、もはや大の大人では?
そう思うと、とうとう来たかとか、どうしようとか色々考えた。
考えたのだが、やはり居月なのかは分からないが、
大の男に抱えられてしまっている状況では身動きもできず。
結局、いつぞやと同じように、礼はあきらめて二度寝した。
「礼、礼ってば」
「…うにゃあ」
「僕だよ。分かる…かなぁ、これ」
随分と低くていい声がする。
礼は、だらだらと覚醒し始めた頭でそんなことを考えた。
気が付けば、やたらと顔の良い、ミステリアスな美人に横抱きにされている。
そこまで気が付いて、礼はばっと体を起こした。
「…まさか、居月?」
「あぁよかった。そう、僕」
居月である事が分かってホッとしたのもつかの間。
やはりいつぞやと同じように、何故か素っ裸な居月にめまいがする。
服は、どうした。服は。
「なんで素っ裸なの…」
「いや、きつかったから」
「なんで急なの…」
「それは、僕にも分からない。ごめんね」
「いや、いいけど。服着て。せめて下着は履いて」
男の裸を見てしまった事に若干のいたたまれなさを感じるが、相手が居月というだけで、変に意識しようものならもう色々ダメな気がして、礼はなんとかその強靭な冷静さで、色々なことに蓋をした。
「ないよ。下着」
「あぁ、もう見せなくてよろしい。タオルでも巻いてて」
赤くなりそうな自分を抑えて、必死に目をそらす。
居月の身体はまるで彫刻のように美しかった。しかし、だからなんだ。
いきなりなんの罰ゲームなんだ、と礼は早くも頭が痛くなりそうだった。
財布片手に礼は早朝の街へ踏み出した。
なにせ今のコンビニは便利だ。下着が普通に置いてある。
まずは話はそれからだ、とばかりに礼は買い物籠に男性用のボクサーブリーフを5つほど一気に入れた。
勿論、居月は家で留守番である。
まだ少年の感覚で抱き着いてくる居月を引きはがすのに大変苦労した。
その時の光景を思い出すと、なんともまぁ、苦い感覚がする。
あれを甘いなどと言ってはいけない。
礼は内心、深く考えないながらも色々と困難が待ち受けているだろう事に内心で頭を抱えた。
しかし身体は普通に自宅へ戻っていく。
その感覚は、実に何とも言えない感覚であった。
「ただいま。ほら、下着。早い所履いてね」
「うん。ありがとう」
ようやく大事な所が隠れて下着姿になった居月に、礼は内心でホッと安堵の溜息をもらした。
いくら居月だとは分かっていても、もうなんだか色々だめだろ。と思った礼は、きっと悪くない。
「私の服は…キツいよね。多分」
「うーん、そうだろうね」
「じゃあ、ふとんでも羽織ってて。風邪ひくよ」
「はぁい」
素直にそうした居月に、やはりホッと安堵の溜息をもらす礼。
やっと落ち着いて居月を見ると、すっかり大人になってしまった事が分かる。
どことなく影のあるような、そしてなんともいえない色気のある美男子だ。
緩くウェーブになった黒髪と、白い肌のコントラストがなんとも美しい。
勿論、少年の姿の時でさえ美少年ではあったが、今はますます美しさに磨きがかかっている。
礼の中では、居月をどう見たらいいのか?という本能的な疑問が頭を揺らしていた。
それは、そうだろう。昨日の晩まで、いつも通りに少年だった居月が、今や大の大人である。
見た目の変化が激しすぎて、追いつけないといえば追いつけない。
だが、居月を変な目で見る事は、とてもいけない事のように思えてしまってしかたない。
モコだった時も、少年だった時も、変わらず接してきた。それを変えてしまっていいのか?
…いや、いいだろ。
冷静な礼の頭がツッコミを入れる。
それは、そうだ。
もう大人になったと言えば、最初は渋るだろうが、そのうち慣れてくれるだろう。
礼は、そうであってくれ、と、誰にともなく祈った。
はい。かつての毛玉は、こんなにも成長しましたとさ。




