黒い衝動
そのまま、数か月が過ぎた。
最近ではすっかり料理も板について、居月は毎日、礼のために手料理を振る舞った。
朝は礼の寝顔に微笑んで起き、時にはこっそり口づけを落としてくすくす笑う。
礼を見送ったあとは悠々を過ごし、礼が帰ってくる頃には、すっかり夕飯を用意しておく。
礼が喜んでくれるのが、何より嬉しかった。
夕方。今日の居月は珍しく、家で惰眠をむさぼっていた。
そのせいで、夕食の買い出しが遅くなってしまい、速足で街を歩く。
普段なら使わない近道として、裏路地を歩いていたのが悪かったのかもしれない。
「おにーさん」
「?」
肌の露出の多い洋服を着た女性に呼び止められる。
居月は自分の事かときょろきょろ周りを見渡すが、そこには自分しかいない。
どうやら、女性も居月の事を言っているらしい。
「おにーさんかっこいいね、ちょっと、寄ってかない?」
女性が居月にしなだれかかる。
その途端。居月は、猛烈な吐き気と嫌悪感に襲われた。
なんだ、この人間。
冷たくなっていく自分に少しの戸惑いを感じながら、
居月からは思っていたよりもずっと刺々しい言葉が吐き出された。
「…寄るな」
「え?」
「失せろ」
「…ひっ」
女性が見えたのは、ひどく重たい、禍々しい空気をまとった居月の姿だった。
周囲の空気は急に重く冷たくなり、ゴミ捨て場に置いてあった空瓶が乾いた音を立てて割れた。
その瞳の奥は十字に割れ、いかにも人間ではない空気を放っていた。
「…化け物」
「もう一度言う。失せろ」
女性は真っ青になって去っていった。
しかし、居月は自分の中に急に生まれた、この気分の悪さと、冷たい感情に呑まれようとしていた。
むしゃくしゃする。なんでもいい。壊したい。
化け物と呼ばれた事が、ひどく不愉快だった。
何か、胸の奥から叫びだしたいような、ひどい衝動を感じた。
勢いに任せて、建物の壁に手を置く。
ビシッと軋んだ音がして、簡単に手のひらを中心に大きなヒビが入った。
――これ以上は、いけない。
居月の冷静な部分が、静止をかけた。
衝動に呑まれそうになりながら、居月は逃げ帰るように家に戻った。
そして、そのままあの女のにおいが残っていそうな上着を脱ぎ捨て、ベッドに倒れこむ。
礼の匂いを嗅げば、多少は落ち着くと思ったからだ。
どれくらい、そうしていただろうか。
やっとのことで落ち着きを取り戻した居月は、深い溜息を吐いた。
「僕…」
初めて感じる、黒い感情だった。
自分がどうにかなってしまいそうな、壊したいという衝動だった。
ここで、はじめて居月は、自分が何者であったのか、考えた。
人間では、ない。それは分かっていた。
だが、こんな黒い感情が奥から奥から溢れてきた、あの時の自分が本来の自分なんだとしたら。
怖かった。
礼には、なんて言えばいい?
まさか礼にまで怖がられてしまったら、自分はたぶんもう立ち直れない。
なら、どうするか。
…言わずにいよう。
はじめて、礼にいえない秘密を抱えてしまった。
居月は、はじめて、自分を、礼を怖いと感じた。
幸いというのか、そうではないのか。
その日、礼は残業で、全てが落ち着いた後になって帰って来た。
けれど、居月にとっては、ひとまずの安堵だった。
その夜、居月はぼんやりと夢を見ていた。
暗がりに、ひとり。
遠くに、礼の姿が見える。
近づきたくて、必死に足を動かすが、地面はどんどん礼から離れていってしまう。
礼の名を必死に呼ぶが、礼は気が付かない。背を向けたまま、歩き出す。
まって、いかないで。声がかれるほど叫んでも、二人の距離は縮まらない。
それどころかもっと離れてしまう光景に、絶望して、涙がにじむ。
「礼…!!!」
「…んぇ?」
気が付いたら、目が覚めていた。
大声をあげてしまったらしく、礼が寝ぼけ眼で目をこすっている。
よく見れば、いつもどおりだ。なんら、変わったところはない。
普段通りに、礼は自分の腕の中で寝ていた。
…嫌な夢だ。
居月は苦々しく歯噛みした。
あんなことがなければ、きっとこんな夢は見なかっただろうに。
「どした、居月。…泣いてる」
「…なんでも、ない」
居月の不安と悲しい気持ちとは裏腹に、礼は優しく居月の涙をぬぐった。
それだけで、居月は救われた気持ちになって、礼の胸に顔をうずめた。
髪をサラサラと撫でてくる手には、嫌悪感などみじんも感じない。
それどころか、もっとという思いが溢れてくる。
夕方のあれと同じ人間のはずなのに、こんなにも違う。
居月は、それでいいと思った。
あんなに怖い夢を見たのに、撫でられる手が本当に優しくて、
居月はまたすぐに微睡み、再び眠りに落ちた。
自分の中の衝動に怯える居月。優しい主人公の手。




