第82話 新しい泉――世界が息を吹き返す日
昼下がりの風は、やわらかかった。
街外れの草原を抜け、俺――アルクとリナは並んで歩く。
少し前までなら、こうして二人きりで外を歩く時間さえ珍しかった。
だが今は違う。
追われるものも、急ぐ理由もない。
「……いい天気だね」
リナが空を見上げながら言う。
「そうだな」
「返事、雑」
「感想が同じだっただけだ」
「ずるい」
そう言って笑う。
―――
こういうやり取りが、自然になった。
いつの間にか。
⸻
目的地は、昨日突然現れた泉。
街から歩いて二十分ほどの、小高い丘のふもと。
昨日までただの平地だった場所だ。
それが一夜で、透き通る水を湛えた泉になっていた。
「……やっぱり変だな」
現地に着いて、俺は周囲を見渡す。
地面に掘られた痕跡もない。
水脈を引いた形跡もない。
まるで。
「最初からあったみたい」
リナが言う。
「そう見せてる感じだ」
―――
泉の周囲には、青白く光る草が群生していた。
風に揺れるたび、淡い粒子のようなものが舞う。
「綺麗……」
リナがしゃがみ込み、草に触れようとする。
「待て」
「また子供扱い」
「未知の発光植物だぞ」
「だから触るんじゃん」
「理屈が逆だ」
―――
結局、俺が先に確認することになった。
一本だけ採取し、錬金術で構造を読む。
「……毒性なし」
「ほら」
「ただし」
「ただし?」
「普通の植物でもない」
―――
細胞構造が、この世界のものと微妙に違う。
成長の法則が複数重なっている。
一本の草の中に、いくつもの“可能性”が同居しているような状態だ。
「……世界の余波だな」
「終点を壊したから?」
「ああ」
―――
閉じていたものが開いた。
固定されていたものが流れ始めた。
その結果、本来交わらないはずの可能性が、少しずつこの世界に滲み始めている。
⸻
リナが泉の水面を覗き込む。
「ねえ、これ見て」
近づく。
水面には、俺とリナの姿が映っていた。
だが。
一瞬だけ、別の景色が混じる。
雪山。
知らない街並み。
赤い空。
「……見えたか」
「うん」
―――
水面が“別の場所”を映している。
正確には。
「繋がってるな」
「窓みたいなもの?」
「近い」
―――
この泉は、水場じゃない。
境界の薄くなった地点だ。
別の可能性と、こちら側が接触している。
「……すごい」
リナの目が輝く。
「危険でもある」
「でも行ってみたい」
「言うと思った」
―――
その時だった。
泉の中央に、小さな波紋が広がる。
ぽちゃん、と何かが落ちたような音。
だが何も落ちていない。
「……来る」
リナが立ち上がる。
―――
水面が盛り上がる。
そこから現れたのは――
「……魚?」
銀色の、小さな魚だった。
だが、宙を泳いでいる。
水の外を。
「……は?」
思わず間抜けな声が出た。
魚はふよふよと空中を泳ぎ、俺たちの周りを一周すると、リナの前で止まった。
「……こんにちは?」
リナが挨拶する。
魚が尻尾を振った。
「通じてんのかそれ」
「礼儀は大事でしょ」
―――
魚は口を開き、小さな光の粒を吐き出した。
それが空中で文字になる。
『ひろって』
「……文字!?」
『ひろって』
「誰が?」
『ぼく』
「お前かよ」
―――
魚はくるりと回り、泉の奥へ泳いでいく。
途中で振り返り、待つように止まった。
『はやく』
「……どうする?」
リナが振り向く。
―――
少し考える。
罠の可能性もある。
未知の存在だ。
だが。
「行くだろ」
「だよね」
―――
靴を脱ぎ、泉に入る。
見た目より深い。
膝、腰、胸。
だが冷たくはない。
むしろ心地いい温度だった。
魚がさらに奥へ進む。
「アルク」
「ん?」
「これ、底ないかも」
「……だろうな」
―――
次の瞬間。
足元が消えた。
「……っ!」
沈む。
いや、落ちる。
水の中なのに、下へではなく“別の方向”へ引かれていく感覚。
リナの手を掴む。
「離すな!」
「うん!」
―――
光。
浮遊感。
反転。
―――
気づけば。
俺たちは草原に立っていた。
見たことのない空の下で。
空は薄い紫色。
遠くには巨大な樹木が何本も立ち、その枝先に街のようなものが見える。
風は甘い匂いを運んでいた。
「……は?」
「……来ちゃったね」
リナが嬉しそうに言う。
足元では、あの魚がぴょんぴょん跳ねていた。
『ようこそ』
『こまってる』
「急に雑だな」
『たすけて』
「順番に話せ」
―――
魚の向こう。
草原の彼方で、黒い煙が上がっている。
何かが燃えているのか。
それとも襲われているのか。
「……なるほど」
肩を回す。
平和な日常は好きだ。
だが。
「こういうのも嫌いじゃない」
リナが笑う。
「知ってる」
―――
俺たちは顔を見合わせる。
そして同時に、一歩を踏み出した。
新しい世界へ。
新しい問題へ。
新しい物語へ。
⸻
――第83話へ続く――




