第二十七話 タイエイ中学校⑦
皆が寝静まった頃、イチハナは普段より入念に敷地内を巡回していた。塀の周辺には、機器の残骸が散らばっている。そのロクハの発明品が大破した事で、この学校も外と同じ危険に晒される状況となったわけだ。
屋内外を順々に回り、何度目かまた一階の昇降口へと達した矢先。怒鳴り声と物音が聞こえてきた。保健室だ。イチハナは反射的に走り出し、扉を開けた。
「――っ……てんめぇ! ぶっ殺す!」
シーバに馬乗りになり、荒々しく呼吸するジン。その彼を背後から引き離そうとしているロクハの姿が、そこにあった。傍に、血のついたシーバのナイフが落ちている。
部屋の隅では、身を縮めたマイコが震えていた。セーターの左腕部分が切り裂かれていて、覗いた肌に血が滲んでいる。
イチハナに少し遅れて、タマも二階から駆けつけた。
「な……どう……」
彼はイチハナ以上に、目の前の光景に対し思考が追いつかないようだ。愕然とした様子で、立ち尽くした。
「離せロクハ!」
ジンに振り払われたロクハが、ドサッと転倒する。それに構わず、ジンは鬼のような形相でシーバを何度も殴りつけた。
「やめろ!」
イチハナが咄嗟に、彼の両腕を取り押さえる。
「やめろって、なんだよ! こいつは、マイコの事殺そうとしてたんだぞ! くっそ……! 俺がこいつを殺してやる!」
血走った目で睨みながら、彼はシーバの胸倉を掴み上げた。シーバは鼻と口から血を流し、抵抗する気配もなくぶらんと四肢を投げ出している。
「や……やめてよお……。そんな言葉言わないで。お願い、聞きたくない。怖い……」
涙混じりのか細い声で、マイコが呟く。彼は恨めしさを残しつつも、ようやくシーバを解放した。
ジンの呼吸と、マイコの泣き声だけが聞こえる部屋の中。シーバはゆらりと立ち上がり、ナイフを拾った。
「……どうして?」
彼は顔面の血を拭う事もなく、片方の瞳でマイコを見る。
「……だってマイコちゃん、死にたかったんじゃないの? 僕にありがとうって、言ってくれると思ったのに……」
薄笑いを浮かべるシーバ。皆が、おぞましいものを見るような目で彼を捕えた。
しかしその中で一人だけが、憐みを浮かべた表情で彼に自ら近づいた。タマは皆の間を進み、シーバの正面へと立つ。
「……例え……どういう理由があっても……誰かを傷つけたり、泣かせたりしちゃだめだ」
シーバは不思議そうに、じっとしたままだ。タマは彼の両腕を強く掴み、まっすぐに言った。
「……シーバ、お前は間違ってる!」
「…………」
シーバの目が、みるみる見開かれる。まるで時間が停止したかのように、彼はタマをじっと見つめるだけになった。
イチハナには、今のタマの記憶力がどれ程なのか、どれ程現状を理解しているのかわからない。しかしこの彼の姿を、初めて力強く思った。
翌朝の曇天を仰いだ後、イチハナは校内の巡回を切り上げ保健室へ向かった。扉の前で、ちょうど出てきたばかりのマイコと顔を合わせた。
「あ、イチハナさん。おはようございます」
いつも通りの笑顔だ。イチハナは違和感を覚える。
「……腕は大丈夫か」
「えっ? あ、大丈夫ですよ。あたしドジだから……」
マイコは左腕をさすりつつ、驚いたふうに眉を上げた。
「怪我の事、なんで知ってるんですか?」
「……」
彼女の背後から、ジンとロクハも姿を現す。二人共、起きたばかりのようだ。
「うーっし、ちっと筋トレすっかなー。マイコ、メシ出来たら体育館呼びにきて」
「うん」
「……昨日の事だが……」
イチハナがそう声をかけると、ジンはわずかに表情を変えた。一方でマイコとロクハは、きょとんとしている。
「昨日……?」
ロクハが身を乗り出す。
「ごめんなさい、なにか……あったんですか?」
「……」
イチハナは彼達から辺りへと、視線を変えた。
「いや、なにもない。……タマは?」
「あ、タマキも中にいますよ。でもシーバさんが……」
「え?」
と、マイコを見やる。
「シーバさん、六時頃学校出ていったみたい。そんなに早くから巡視ですか?」
「……」
シーバは深夜の一件の後、普段使われていない更衣室へ閉じこもっていたはずだった。あいつの行動はつくづく理解出来ない、とイチハナは溜息を吐く。
そこへ、保健室からタマが顔を出した。
「あ、イッチャン……巡視行くの? 俺も……行くよ……」
彼の目の周りは一層黒く変色し、顔は能面の如く透明感がない。壁に手を置きながら、そろそろと足を引きずるように歩んでくる。
「……具合が悪いんだろう。動かず、休んでいろ」
「へ、平気だって……」
マイコとロクハが、彼の両脇を支える。
「ねえ、お願いタマキ。ちょっと休んで」
「全然平気じゃなさそうだよ。少し横になったほうが……」
「ほっといてくれよ!」
タマに叫ばれ、二人はびくりとして口をつぐんだ。
と、ジンが舌打ちを一つする。彼はタマのスカジャンの襟首をわしっと掴み、引っ張った。
「くそっ! 離せ! 離せよ!」
じたばた抗うも、ジンの腕力の前には無意味なようだ。ずるずると廊下を引きずられていく。
「離せ、馬鹿力!」
大きく身を捻じり、タマは彼の腕を振りほどいた。
「人が心配してやってんのに、なんだこの馬鹿野郎!」
「平気だって言ってんだろ!」
白い顔に、青筋がくっきりと浮かぶ。タマは階段のほうへと駆けていった。
「……ほんとに大丈夫なのかな……」
マイコが不安そうに、その背中を目で追う。
「マイコもロクハもほっとけ! ほんとにしんどくなったら、自分から休むだろ! ったく」
「う、ん……」
ジンが去り、二人もやがてそれぞれの目的場所へと歩いていった。
視聴覚室の扉を開けると、窓の傍にタマの姿があった。イチハナは息を一つして、そちらに歩み寄る。
「……タマ」
「なんだよ、イッチャンも皆も……。俺、大丈夫なのに」
「……」
「……俺も〝ノア〟の活動したい」
「……」
「俺も、誰かの役に立ちたいよ……」
イチハナは目を伏せた。
「…………させられない」
「……なんで……。体の事なら、心配し過ぎだって……!」
「それもだが……」
「誰からも必要とされてないなんて嫌だよ……! 俺、ほんとに大丈夫だから。だって、こんなに……」
そう言いかけた矢先、タマはふっと白目をむきその場にくずおれた。イチハナははっとして、屈み込む。呼吸はしている。
布団を敷き、そこへタマの体を預けた。イチハナが手を離すなり、すぐに彼は目を見開く。
「大丈夫か。気を失っていたようだ」
「え…………?」
タマは警戒したような、怯えた眼差しでイチハナを見つめている。
「無茶するからだ。今、なにか頭部を冷やす物を持ってくる」
「…………」
「……タマ?」
イチハナの囁きが落ち、タマは何度か瞬きをした。
「…………あ…………」
瞳に生気が蘇ると共に、そこはみるみる湖になっていく。
「い、いっちゃん……いっちゃんだよな……」
延々と涙が流れていく。イチハナは安堵し、布団をかけてやった。
「他の心配はするな。まずは自分の体だ。しばらく休んでいろ」
「……いやだ……寝たくない……」
タマは唇を震わせる。
「……寝たら全部、忘れちゃうんだろ……?」
「……」
「い、イッチャンとロクハが話してんの、聞いちゃった……。……寝たら……寝て起きたら、大切な事、忘れちゃうかもしんない……。イッチャンの事も、シーバの事も、皆の事も……忘れちゃうかもしんない……そんなの、いやだ……」
イチハナは眉を寄せ、彼から視線をそらす。
「……。今は休め」
ぐすっと鼻を鳴らし、タマは嗚咽しながらも続けた。
「い、イッチャンは……知らないからそ、そんな事が言えるんだ……。冷蔵庫開けてるマイコの横顔、とか……寝てるジンの丸まった背中とか……本のページ捲る……ロクハの、指の感じとか……。記憶に残しとこうとか、思わないから……」
「……」
目元を押さえる腕の下から、受け止めきれなかった涙が止めどなく流れ、枕を濡らす。
「う……。ちが……ごめん……こんな事、言いたいんじゃ、ないのに……。うう……」
イチハナはただ黙って、彼を見つめる事しか出来なかった。――この世界の住民を守らなければと常に考え、行動してきたつもりだ。しかし今こんな彼を見下ろしていると、自分は結局なにもしてこなかったのでは、という思いが湧き起こる。せめて、この荒廃した地でいまだひたむきに生きようとしている彼達だけは、身を賭して守らなければならない。イチハナは改めてそう決意し、口を開いた。
「……俺達が、タマの役割の半分を担う。お前がなにか忘れる事があれば、他の人間の記憶がそれを補えばいい。俺達がいるから、安心して眠れ」
しばらくの後、タマは腕を少しずらしてイチハナを見た。
「……イッチャン、なんか……優しくなったよな。前よりこう……人間らしくなったっていうかさ……」
「……」
感傷に浸るように、タマは天井を見上げて微笑んだ。
「……今だから言うけど、俺さ、ちゃんと……いちいち覚えてるんだぜ。イッチャンが配給のごはん、皿に綺麗に盛りつけてくれてたのとか、シーバがビスケットくれたのとか、三人で並んで歯磨きしたのとか。フツーに、そういうの、幸せだなーとか思ってた」
「……」
「……大切にしときたい形が、たくさんあり過ぎるんだけど……きっと未来に持っていけるのは、全部じゃないんだよな……」
タマの瞼が、重々しく下がってくる。
「……俺……ちょっと……眠いかも……」
「ああ、眠っていい。俺達は皆、タマの近くにいる」
「巡視は……」
と、タマが心配そうに呟く。イチハナはつい、笑んだ。
「……お前が回復したら、また協力してもらう。それからでいい」
彼はその言葉を聞くと、ようやく柵が取り払われたように穏やかな顔になった。瞬きが、次第に遅くなる。
「体が……床の中に沈んでくみたい……。い、いいんだよな……? 目、閉じても……」
イチハナが頷いてみせる。タマはおもむろに、自分の右手で目元を覆った。そのうちに、寝息が聞こえ始めた。
「……やあっと寝たか、あの馬鹿」
「シッ! 起きちゃうよ」
「よかった……。ぐっすり眠ってくれるといいね」
いつの間にかジンとマイコ、ロクハの三人が、扉の隙間から見守っていた。
それからの数時間は、奇妙な程に静寂だった。午後三時、廊下には朱色の陽が伸びている。見渡す限り、外にはなんの異変もない。ただただ、しんとした午後だ。しかしまたいつ〝ゼータ〟が現れてもおかしくはない。イチハナは警戒を解かず、銃を上着に忍ばせ校舎を回っていた。
ふと、ぱたぱたと足音が近づいてくる。
「イチハナさん!」
ヒステリックなマイコの叫び声。顔からは、血の気が引いている。彼女の後から、ジンも駆けつけた。
「タマキを見ませんでしたか!?」
「……眠っているんじゃないのか?」
マイコが激しく首を振る。
「タマキが、タマキがいないんです! 一度起きて、保健室来て……。巡視に行くって言ったから、あ、あたし達……まだ無理だよって笑ったんです……。けど、タマキはきっと……!」
彼女は、その場に泣き崩れた。
「うう……電話にも出ないんです。く、靴も履かないで……。ど……どこ、行ったんだろ……弱ってるのに……」
ジンが焦った様子で顔を歪める。
「あの馬鹿……。俺が捜してきてやる。もう泣くな」
「うう……」
「……いや」
と、イチハナは声を挟んだ。
「俺が行く。必ず捜し出して、すぐに戻ってくる」
二人はイチハナの気迫に圧倒されたのか、しっかりと頷いて送り出した。
【続】




