第二十四話 タイエイ中学校④
「――タマキの事、なんですけど……」
階段すぐ傍の教室に入り、ロクハは話し始めた。携帯電話の光が室内を照らし、互いの表情ははっきりと窺える。彼のそれは、声色と同じく沈んでいる。
「タマキ……なんだか、ちょっと違和感があって……」
「……」
「昔のあいつなら、ショックな事があるとそれをずるずる引きずって、それなのに周りの皆には心配させないように無理して笑って……。でも今のタマキはなんか、なんの裏もなく笑えている感じがして、ちょっと変な気がするんです。イチハナさん、なにか知りませんか?」
イチハナは、ロクハの勘のよさに少なからず驚いた。彼に隠そうとするのも無意味か、と判断する。
「……俺達はこの学校へ来る前、病院に立ち寄った。これはあくまでも、その病院の看護師が推測で述べた事なんだが……。タマは、どうやら悲しい記憶を忘れてしまうらしい。原因はまだ、不明だそうだ。タマだけでなく、この国に残る住民皆に、その病を発症する可能性はあるとも言っていた。信じ難いだろうが、これまでのあいつの言動を振り返ってみて、俺はその説が間違っていないと思える」
ロクハは、イチハナの予想に反しすんなりと納得したらしかった。
「ああ……やっぱりそうだったんですね……。ジンとマイコにもちょっと……そんな感じがあるような気が、してて……。もしかして、俺も第三者から見たら、そうなのかもしれませんけど……」
「症状の出方は、個々で違うらしい。ただ、共通して睡眠時に関係しているようだ。起きている間はどんな悲しい事も覚えているが、寝てその記憶がリセットされる」
「思い出したくない記憶が取り除かれて、目を覚ます……。また明るい気持ちで、一日を始められる……」
「ああ。しかしその看護師が言うには、あまりにショッキングな出来事が積み重なると重度の記憶障害に陥り、悲しい事だけではなく、なにも思い出せなくなる危険があるらしい。……注意に越した事はない。確かな解決策が見つかるまで、この話を信じ、タマにこれ以上悲しい思いをさせないようにしなければ……」
窓の奥には、家庭科室の明かりがぽつんと灯っている。ロクハはしばらくそれを眺めた後、俯いた。
「……実は、イチハナさん達が来る前……ここにはあと十人くらい、学生時代の友達がいたんです。皆……〝ゼータ〟に殺……殺されたり、じ、自分でその……」
「……言わなくていい。理解した」
「……ジンもマイコも、しばらくはずっと泣いたりして暗い毎日を送ってました。でも、ある時からふっと普段通りに戻ったんです。皆が死んだ事を丸ごと忘れたみたいに、普通に思い出話とかして……。俺は、でもそれを……皆の生き方も死に方も、忘れないようにしようって自分に常に言い聞かせて……」
「……」
「でも……もしかすると、悲しい事を忘れてしまったほうが、幸せなのかもしれませんよね。なにが正しくて、幸せなのか……なんだか段々、わからなくなってきました……」
彼の言葉が、イチハナの胸に刺さる。
「……なにが正しいかなんて、誰にもわからない。自分の決断を信じるしかない。君が言った事じゃないか」
「……そう……そう、ですね……」
相手を気遣ってか、ロクハが少しだけ笑む。イチハナは、彼を見る事が出来なかった。
「喋る気になったか?」
公衆トイレ特有の刺激臭と、カビ臭さ。何度訪れても、慣れるものではない。
麗しい木漏れ日から逸れたそんな場所で、翌日の昼間、シーバは靴先でミナトの腹をつついた。イチハナがハンカチとロープを取り去っても、彼女は柱に重心を預けたままで逃げる気配もない。舌を噛み切る力すら、残っていないらしかった。
「し、死な……せ、て……」
「嫌だ。僕はお前が嫌いだから、頼みは聞かない」
イチハナはミナトの傍に屈み、パウチから取り出したパンを口元へと差し出す。
「望みを絶つな。……食べてくれ」
「いらな、い……!」
イチハナの手を払った反動で、ミナトはどさりと倒れ込む。音もなく、パンがタイルへ転がった。
「うう……私は……私はただ……ここの皆を、助けようとした、だけ……なのに……。タキクバ……政府の犬、め……」
掠れた声が、冷えたタイルを這う。
「……シーバ。空気のいい場所に移して、少し休ませてやろう」
「だめだ。……さっさと喋れよ。そうすればお前が野垂れ死にしようが、どうでもいい事だ。知ってる事を全部言え」
シーバに髪をわし掴まれ、彼女が低く呻く。イチハナは眉をひそめつつ、迷い故に視線をそらした。
風のように乾いた呼吸を繰り返した後、彼女は唇を震わせた。
「……こ、この国……残ったもの……全てが……ただの、実験、材料……」
「……え……?」
と、イチハナは目を丸くする。
「は、八月……十五、日……政府は……に、二年の制限つきだと……銘打って……国を、切り離し……。で、でも、元々……捨てる気、だった……。材料にする……価値すら……ない、と判断した時点で……あの化け物をか、覚醒させ……人間を、ころ、殺していく……」
シーバの手から、するっとミナトの髪が離れる。彼女は絞るような声で、なお続けた。
「あ……あのば、化け物は……研究、センターの……培養ポットの、中に……ほ、保管、されてた……。あれになる人間を……保護班が拾って……きて……。どんなにわずかな、に、肉片からも……さ、再生、で……出来る……、から……」
「……脳みそが、壊れちゃったのかなあ?」
淡泊に首を傾げるシーバをよそに、イチハナはミナトの顔を必死に覗き込む。
「それが真実だとして、なぜ政府はそんな事をするんだ? どうすれば、この国の住民は助かるんだ?」
「……う……うう……、もう、もう……死な、せ……て……」
「頼む、教えてくれ!」
不意に彼女はシーバへ目をやり、口元に嘲るような笑みを浮かべた。
「……い……、ち……こわ……し……」
そして、ミナトは全く動かなくなった。イチハナが抱き起してみると、微かに呼吸はしている。
「……息はある。もう休ませよう」
その言葉を無視し、シーバは再びミナトの髪の毛をむんずと引っ張り上げる。
「起きろ! 全部吐いてから死ね! イチハナ、メシを食道に押し入れろ!」
イチハナは苦悶の表情のまま、シーバの手を無理矢理引き離した。同時に彼女の体を、床へと預ける。
「それは出来ない。しばらく休ませてから、食事を与える」
「そんな生ぬるい事やってられるか! くそっ!」
シーバが瞬時にポケットからナイフを取り出し、逆手に握る。イチハナは反射的に、彼の手首を力一杯掴んだ。
「やめ……ろ!」
「痛みがあれば、目を覚ますだろ。お前は僕の与えてやる言い訳に、おとなしく従ってればいいんだよ」
「くっ……!」
二つの力が衝突し、ナイフの刃先がぶるぶると震える。――先に指を離したのは、シーバだった。鋭い音を立て、ナイフがタイルへ落下した。
「彼女はこの国に残った住民……〝ノア〟の保護対象だ。人命を粗末にする事は許さない」
イチハナの手を荒く振りほどき、シーバはナイフを拾う。
「……また柱に縛っておけよ」
「それでは目を覚ましても、食事をとれない。俺はここへ残る」
「……勝手にしろ」
舌打ちをし、彼は出ていった。イチハナはパンを拾い、表面の汚れを払った。
三日が経過した。ミナトは身を横たえ、小さく息をしているだけだ。イチハナは壁に背を預け、ただぼんやりとその姿を目に映していた。
手に持ったパンには、緑色の斑点が出来ている。それを床へ置き、静かに立ち上がった。
「――イッチャン!」
保健室の扉が、激しい音を立てて開く。タマが駆け込んできた時、イチハナはちょうど右腕に包帯を巻き終えたところだった。介抱していたマイコとロクハが揃ってタマを見、イチハナも振り向いた。
「ど、どうしたんだよ! 心配したんだぞ! ずっと帰ってこねーと思ってたら、怪我してたの!?」
「別になんでもない」
医療用品を片づけるマイコの横、ロクハは気落ちした様子で俯く。
「……電子フェンスが、また誤作動を起こしたんだ」
イチハナが校門を潜ろうとした瞬間、右腕から全身にかけて電流が走ったのだ。サイレン音の中、それを目撃したロクハは、真っ青になってスイッチを解除した。
「ごめんなさい……」
「気にしなくていい。手当ても必要なかったんだが……」
「いえ……。しばらく、あの装置は外します。こんなに失敗しているようじゃ……。もっと完璧に出来るよう、頑張ります……」
そんな彼の肩に、マイコが優しく手を置く。
「うん、ロクハならきっと出来るよ」
イチハナは、彼女達からタマへと視線を戻した。改めて見てみれば、彼の顔は血の気が引いたように白く、目の下は黒ずんでいる。
「……お前のほうが、具合が悪そうだ」
「え? お、俺? 俺は全然平気だって! イッチャンは自分の事心配しろよな。ほんと、今までどこ行ってたんだよ。……やっぱり〝ノア〟の巡視なの?」
「…………」
彼に答えようがなく、イチハナはマイコのほうを向いた。
「すまないが、ここの食糧のストックはあとどれだけある?」
「あ、えっ、と……」
彼女は視線を空で散歩させ、小さく頷く。
「確か……クラッカー五袋と……レトルト食品が十五袋くらい……だと、思います」
「…………」
「あっ、でも心配いりませんよ。いざとなったら、野草とか茸とか。あたしもロクハも、結構そういうのも詳しいから。ねっ?」
「あ、うん……。はい、大丈夫です」
と、ロクハ。
「お腹減ってます? あたしすぐ用意しますね」
イチハナは目を伏せ、首を横に振った。
夕方――イチハナは、なにも持たずに公衆トイレへ行った。女は最後に見た、横たわった体勢のまま死んでいた。
【続】




