第八章 あの頃は、みんなおった
その日、龍馬は一通の書状を持って帰ってきた。
いつもなら戸を開けるなり何か喋る男が、何も言わなかった。
太郎は帳面へ筆を走らせていたが、龍馬が草履を脱ぐ音を聞いた時から、何となく妙だと思っていた。
静かだった。
草履もきちんと揃えている。
それだけでおかしい。
「龍馬」
返事がない。
「何じゃ。腹でも痛いがか」
「……違う」
「なら何じゃ」
龍馬は部屋へ入ってきた。
手に紙を持っている。
太郎は筆を置いた。
「土佐からか」
「うん」
龍馬は座ったが、紙を太郎へ渡そうとはしなかった。
「乙女さん?」
「違う」
「誰じゃ」
「……知り合いじゃ」
太郎は龍馬の顔を見た。
その顔で分かった。
良い知らせではない。
「誰か、死んだがか」
龍馬の目が動いた。
太郎は自分の口から出た言葉に、胸の奥が冷えるのを感じた。
「誰じゃ」
龍馬は答えなかった。
「龍馬」
「武市さんが死んだ」
太郎は動かなかった。
聞こえなかったわけではない。
言葉の意味が、自分の中へ入ってくるまで少し時間がかかった。
「……武市さんが?」
「切腹じゃ」
太郎は龍馬の手にある紙を見た。
「何で」
聞いたあとで、馬鹿なことを聞いたと思った。
何で。
理由ならいくらでもあるのだろう。
土佐勤王党のこと。
藩のこと。
政のこと。
龍馬なら説明できるかもしれない。
だが太郎が聞きたかったのは、そんなことではなかった。
なぜ武市が死ななければならなかったのか。
その問いに答えられる人間など、どこにもいない。
龍馬は紙を握ったまま俯いていた。
「以蔵は」
太郎が聞いた。
龍馬の指が動いた。
その小さな動きを見た瞬間、太郎は聞かなければよかったと思った。
「龍馬」
「……以蔵もじゃ」
「……そうか」
「斬られた」
それだけだった。
太郎は何も言えなくなった。
*
外では人が歩いていた。
商いの声も聞こえる。
どこかの店では客が笑っている。
少し前まで、自分たちも同じように笑っていた。
勝に見抜かれた。
西郷にも気づかれた。
桂にも。
グラバーにも。
そんなことを面白がり、誰がどうやって二人を見分けるのかと笑っていた。
その続きに、この知らせが来た。
太郎は龍馬から書状を受け取った。
文字を追う。
何度読んでも、書かれていることは変わらない。
「武市さん……」
名前を口にすると、別の顔が浮かんだ。
道場だった。
竹刀を握る龍馬。
向かいに立つ武市。
龍馬は何度も動き、武市はほとんど動かなかった。
振り下ろされた竹刀を、一度、二度と受け流し、最後に竹刀の先を龍馬の喉元へ向けた。
『おまん、最後――わしを見てなかったろう』
太郎は目を閉じた。
「……強かったのう」
龍馬が顔を上げた。
「何が」
「武市さん」
「ああ」
「おまん、全然勝てんかった」
「全然じゃない」
「負けちょった」
「負けてない」
「今でも言うがか」
「……言う」
龍馬の口元が少しだけ動いた。
太郎も笑いかけたが、笑いにはならなかった。
「次は分からん、言うちょったのう」
「うん」
「次、なかったのう」
龍馬が黙った。
太郎は言ってから後悔した。
「……すまん」
「いや」
龍馬は首を振った。
「ほんまじゃき」
二人はしばらく何も言わなかった。
*
「以蔵……」
太郎が呟いた。
今度は道場の外が浮かんだ。
隅にいた少年。
ほとんど喋らず、人が竹刀を振る姿だけをじっと見ていた。
龍馬が木の枝を拾った。
自分にも枝を探せと言った。
そして、以蔵へ渡した。
『こう持て』
『……こうか?』
『足はこうじゃ』
『……これか?』
『そうそう。ほんで肩に力入れすぎるな』
何度も。
何度も。
枝を振った。
「龍馬」
「うん」
「以蔵、剣、上手うなったんじゃろな」
龍馬はすぐには答えなかった。
太郎は横を向いた。
龍馬は書状を見ていた。
「……なりすぎた」
その一言で、太郎は何も聞けなくなった。
以蔵がその後どう生きたのか、太郎も少しは聞いていた。
だが、今浮かぶのは人斬りと呼ばれた男ではなかった。
木の枝を握った少年だった。
『……ありがとう』
あの時、以蔵は確かにそう言った。
龍馬も覚えているのだろう。
「最後に会うた時」
龍馬がぽつりと話し始めた。
「以蔵に、気をつけろ言われた」
太郎は黙って聞いた。
「わしが土佐を出る時じゃ。あいつ、ほとんど何も言わんかった。わしも何も言えんかった」
「以蔵じゃきのう」
「うん」
「いっぱい喋ったら、それはそれで怖い」
龍馬が少し笑った。
「そうじゃのう」
「一日中喋る以蔵」
「嫌じゃ」
「弥太郎みたいな以蔵」
「もっと嫌じゃ」
二人は少しだけ笑った。
笑ったら。
太郎の目から涙が落ちた。
「……あれ」
自分でも驚いた。
泣くつもりなどなかった。
慌てて袖で拭った。
「何じゃこれ」
龍馬は何も言わなかった。
「龍馬」
「うん」
「見るな」
「見てない」
「見ゆうじゃろ」
「見てない」
「こっち向いちゅう」
「おまんが前におるき仕方ないじゃろ」
太郎が顔を背けると、龍馬も横を向いた。
その横顔を見て、太郎は黙った。
龍馬も泣いていた。
*
「わしが土佐におったら」
龍馬が言った。
太郎は涙を拭きながら聞いた。
「武市さんと、もっと話せたかもしれん」
「……うん」
「あの時、わしは武市さんの考えが狭いと思うちょった。土佐だけ見てもいかん、日本を見んといかんって。それは今でも間違うちゅうとは思わん」
龍馬は膝の上で手を組んだ。
「でも、わしは出た」
「うん」
「武市さんを置いて出た」
「龍馬」
「わしがもう少し話しちょったら、何か変わったかもしれん。以蔵にも、もっと言うことがあったかもしれん」
太郎は何か言おうとして、やめた。
違う。
龍馬のせいではない。
そう言うのは簡単だった。
だが、本当にそうなのか。
誰にも分からない。
「わしもじゃ」
太郎が言った。
龍馬が顔を上げた。
「わしも土佐を出た」
「おまんは関係ない」
「何でじゃ」
「太郎は勤王党でもない」
「そういう話じゃない」
太郎は書状を見た。
「わしも、あそこにおらんかった。武市さんが捕まった時も、以蔵が捕まった時も何も知らんかった。どこか別の町で飯食うて、寝て、次の日になったらまた歩いて……その間に、あいつらは」
最後まで言えなかった。
龍馬も何も言わなかった。
二人とも、同じことを考えていた。
もし。
自分がいたら。
もし、あの時。
もし、もう少し。
だが、いくら考えても答えは出なかった。
*
いつの間にか、外は暗くなっていた。
灯りをつける気にもならず、二人は薄暗い部屋に座っていた。
「腹減ったのう」
龍馬が言った。
「……うん」
「何か食うか」
「食いたくない」
「わしも」
「なら何で聞いた」
「何となく」
また静かになった。
太郎は天井を見た。
「武市さんがおって」
「うん」
「以蔵がおって」
「うん」
「弥太郎がおって」
「……あいつは生きちゅうぞ」
「知っちゅう」
「勝手に殺すな」
「殺してない!」
太郎は少し笑った。
「龍馬がおって、わしがおって」
「うん」
「みんな、あそこにおったのう」
龍馬は返事をしなかった。
太郎は目を閉じた。
海。
砂浜。
道場。
竹刀。
木の枝。
弥太郎が地面へ引いた線。
冬の梅。
どれも特別なものではなかった。
あの頃は、明日も同じように誰かがそこにいると思っていた。
「……あの頃は、みんなおったのう」
龍馬が小さく息を吐いた。
「……おったのう」
それだけだった。
それだけで十分だった。
*
しばらくして、太郎が鼻をすすった。
「弥太郎だけは元気そうじゃのう」
「急に何じゃ」
「あいつ、百まで生きそうじゃ」
「百でも足りん。二百じゃ」
「二百年喋るがか」
「迷惑じゃのう」
「ほんまじゃ」
二人は笑った。
笑いながら、また涙が出た。
「何で笑いながら泣かんといかんがじゃ」
「知らん」
「おまんのせいじゃ」
「何でわしじゃ!」
「二百年言うたき」
「最初に百年言うたがおまんじゃろ!」
しばらく二人で言い合った。
声を出している方が楽だった。
黙れば、また武市と以蔵の顔が浮かんでくる。
それでも、やがて言葉は途切れた。
太郎は袖で目元を拭った。
「龍馬」
「何じゃ」
「わしら、もうあの頃には戻れんのう」
龍馬は俯いたまま、少しだけ頷いた。
「……戻れん」
太郎は何も言わなかった。
龍馬は顔を上げた。
「戻れんき、覚えちょこう」
「……うん」
「武市さんのことも」
「うん」
「以蔵のことも」
「うん」
「弥太郎がうるさかったことも」
「それは忘れてええ」
「駄目じゃ」
「何でじゃ」
「面白いき」
「本人に言うたら怒るぞ」
「怒らせよう」
「やめとけ」
二人はまた笑った。
*
夜が深くなった頃、太郎は外へ出た。
龍馬もついてきた。
「どこ行く」
「風に当たるだけじゃ」
二人は並んで歩いた。
昼間まで降っていた雨の名残が道に残り、ところどころに小さな水溜まりができている。
太郎はふと足を止めた。
道の端に、小さな木があった。
梅だった。
花の季節ではない。
枝には葉がついているだけだった。
それでも太郎は、その木をしばらく見ていた。
「太郎」
「春は来るがかのう」
龍馬が太郎を見る。
「何じゃ、急に」
「何となくじゃ」
龍馬も梅の木を見た。
しばらく黙ったあと、少し笑った。
「来る」
「ほんまか」
「おまんが昔、言うたじゃろ」
「わしが?」
「忘れたがか。まだ寒うても、梅が咲いたら春が来るって」
太郎は思い出した。
冬の道。
梅の花。
触ろうとした龍馬の手を叩いた。
『触るな』
太郎は少し笑った。
「おまん、よう覚えちゅうのう」
「わしは何でも覚えちゅう」
「金を落とした回数は?」
「二回」
「三回じゃ」
「それは忘れた」
「都合のええ頭じゃのう」
二人は歩き出した。
今度は龍馬も急がなかった。
太郎も後ろからついていかなかった。
二人は並んだまま、夜の道をゆっくり歩いた。
武市はいない。
以蔵もいない。
それでも二人の中には、竹刀を持った武市がいて、木の枝を握った以蔵がいた。
忘れないということが何になるのか、太郎にはまだ分からなかった。
龍馬にも、きっと分からなかった。
ただ今夜だけは、それでよかった。
答えを出すためではなく、忘れないために二人で歩く。
それだけでよかった。




