第七章 知る者たち
勝海舟に見抜かれてから、太郎は人と会う時、以前より相手の目を見るようになった。
相手が何を話しているのかだけではなく、自分のどこを見ているのかが気になる。顔なのか、手なのか、話し方なのか、それとも自分では気づかない何かなのか。
「気にしすぎじゃ」
龍馬はそう言った。
「おまんは気にしなさすぎじゃ」
「今まで通りでええじゃろ。勝先生が特別じゃったかもしれん」
「その勝先生が梅太郎の名前まで知っちょったんじゃぞ」
「それは怖い」
「じゃろ」
「でも面白い」
「どっちじゃ!」
二人は以前と変わらず笑ったが、それでも太郎は、人に「坂本さん」と呼ばれるたび、ほんの少しだけ相手の目を見るようになっていた。
この人は気づくのだろうか。
そんなことを考えるようになった。
*
しばらくして、龍馬は太郎を連れて西郷吉之助を訪ねた。
その日は珍しく入れ替わる必要がなく、二人で行けばいいだけのことだったが、太郎は歩きながら妙な気分になっていた。
「何じゃ」
隣を歩く龍馬が聞いた。
「何が」
「さっきから静かじゃ」
「いつもじゃ」
「いつもより静かじゃ」
太郎は少し考えてから答えた。
「二人で誰かに会うが、久しぶりじゃと思うて」
「ああ」
龍馬も気づいたようだった。
これまで二人は必要に応じて一人ずつ動くことが増えていた。一人が坂本龍馬として誰かに会っている間に、もう一人は別の場所へ行く。それが便利だったし、効率もよかったから、いつの間にか人前で二人並ぶことの方が少なくなっていた。
「今日は太郎でええがか」
太郎が聞いた。
「当たり前じゃろ」
「梅太郎じゃなくて」
「おまんが太郎じゃ言うたじゃろ」
「そうじゃった」
「忘れたがか」
「確認じゃ」
龍馬は笑った。
「太郎で来い」
「……おう」
二人は並んで歩き出したが、しばらくすると龍馬の足が少しずつ速くなっていく。
「速い」
「すまん」
龍馬が止まり、太郎が追いつくのを待つ。
また二人で並んで歩き出した。
*
西郷は二人を見ると、まず龍馬へ目を向け、それから太郎を見た。
もう一度龍馬を見る。
そして、また太郎を見る。
「何じゃ」
龍馬が笑った。
「似ちゅうじゃろ」
西郷はすぐには答えず、二人の顔を見比べてから、ようやく口元を緩めた。
「似た顔の者はおるもんじゃと思うたまででごわす」
「似たどころじゃないじゃろ」
龍馬が太郎の肩へ腕を回そうとしたので、太郎は身体をずらして避けた。
「暑い」
「まだ何もしちょらん」
「する顔しちょった」
西郷が笑った。
「顔はよう似ちょっても、見ておれば違うもんでごわすな」
太郎は西郷を見た。
「もう分かるがか」
「今はまだ、何となくでごわす」
西郷はそう答えたが、その目は太郎が思っていた以上に二人をよく見ているようだった。
「西郷さん、こっちは才谷太郎じゃ。わしの幼馴染で、土佐におった頃から一緒じゃ」
龍馬に紹介され、西郷は太郎へ向き直った。
「才谷太郎どん」
「そうじゃ」
「よろしく頼みもす」
「こちらこそ」
太郎が頭を下げると、西郷も頭を下げた。
その時は、それだけだった。
*
話はやがて薩摩と長州のことへ移り、先ほどまで笑っていた龍馬も西郷の前へ身体を向けた。
太郎は少し離れて座り、二人の話を聞いていた。
「じゃけど西郷さん、それじゃ長州は納得せんじゃろ」
「最後まで聞いてくいやんせ」
「聞いちゅう」
「まだ途中でごわす」
「分かっちゅう。じゃから――」
「坂本どん」
「はい」
太郎は思わず吹き出した。
勝の言葉を思い出したのだ。
俺がここまで喋る前に三度は口を挟む。
「太郎どん」
突然西郷に名前を呼ばれ、太郎は顔を上げた。
「何じゃ」
「何がおかしかったのでごわす」
「いや、勝先生の言うた通りじゃと思うて」
「何が!」
龍馬が振り向く。
「三回」
「数えちょったがか!」
西郷は二人を交互に見た。
「三回とは?」
「こっちの話じゃ」
「気になるのう」
「西郷さんまで乗らんでええ!」
また笑いが起こった。
けれど、その後、西郷は太郎を見ることが少しずつ増えていった。
政治の話が続いても太郎はほとんど口を挟まないが、分からないから黙っているわけではない。西郷が話せば西郷を見て、龍馬が話せば龍馬を見る。どちらかが何かを言えば、その言葉そのものだけではなく、それを聞いた相手がどう受け取ったのかまで確かめているようだった。
西郷は、その様子を何も言わずに見ていた。
*
話が一段落した頃、龍馬が立ち上がった。
「ちょっと厠」
「話の途中でごわすぞ」
「すぐ戻る!」
龍馬はそう言い残して部屋を出ていった。
戸が閉まると、それまで龍馬の声で満たされていた部屋が急に静かになった。
太郎は少し居心地の悪さを感じた。
西郷と二人きりになったからではない。
西郷が、先ほどから自分を見ていることに気づいていたからだった。
「太郎どん」
「何じゃ」
「坂本どんの代わりをすることがあるのでごわすか」
太郎の身体がわずかに固まった。
あまりにも真っ直ぐだったので、誤魔化す言葉を考えるより先に身体の方が反応してしまい、西郷はその小さな変化を見逃さなかった。
「……何でそう思う」
「勝先生が見抜いたという話を聞いて、そうではなかかと思っただけでごわす」
「龍馬が余計なことを言うたきじゃ」
「それだけではなか」
西郷は静かに答えた。
「先ほど坂本どんが話しちょる間、太郎どんは何度か頷いておった。話の内容にではなく、坂本どんがどう話すかを確かめるように。それに二人とも、時々同じ相手のことを知っているように話す。坂本どんしか会うたことがないはずの相手を、太郎どんも知っちょるように見えた」
太郎は黙った。
勝に見抜かれた時とは違う。
勝は、自分と龍馬の違いを見た。
西郷は二人の間を見ている。
「……西郷さん」
「はい」
「おまんも怖い男じゃのう」
西郷は少し笑った。
「勝先生にも同じことを言うたのでごわすか」
「言うた」
「なら、悪くない褒め言葉として受け取っておきもす」
太郎もつられて笑った。
「そうじゃ。時々、龍馬の代わりをする」
「そうでごわすか」
「最初はほんまに仕方なくじゃった。書状を受け取るだけじゃったのに、それがもう一回だけ、もう一回だけ言うてるうちに増えた」
「嫌ではなかのでごわすか」
太郎はすぐには答えなかった。
「最初は嫌じゃった」
「今は?」
「……分からん。面白い時もある。龍馬として会うた相手が、わしには龍馬に言わんようなことを話す時もあるし、わしが聞いた話を龍馬が続けて、龍馬がした約束をわしが守ることもある」
「二人で坂本龍馬をしておる」
「龍馬も同じことを言うた」
「太郎どんは?」
「違う言うた」
「なぜ」
太郎は西郷を見た。
「坂本龍馬は、龍馬じゃき。わしは才谷太郎じゃ。顔が似ちょっても、同じことができても、それは変わらん」
西郷はしばらく太郎を見つめ、それからゆっくり頷いた。
「その方がよか」
「何が」
「太郎どんが、太郎どんでおることが」
太郎は少し驚いた。
「何で西郷さんがそんなこと言う」
「分からん」
西郷は穏やかに笑った。
「今日会うたばかりじゃからな」
「変な人じゃのう」
「よう言われもす」
二人は笑った。
*
龍馬はなかなか戻ってこなかった。
「遅いのう」
「迷うたのでごわすか」
「厠で?」
「坂本どんならありそうでごわす」
「否定できん」
二人はまた笑った。
先ほどまで感じていた居心地の悪さは、いつの間にか消えていた。
「西郷さん」
「何でごわす」
「龍馬は昔からああじゃ」
「ああ、とは?」
「すぐ走る。すぐ喋る。すぐ人に近づく。何か見つけたら、後のこと考えんと手を伸ばす」
「なるほど」
「ほんで、よく転ぶ」
「転ぶ?」
「子供の頃の話じゃ」
太郎は笑いながら、いつの間にか昔のことを話し始めていた。
「海へ行く時も、いつもあいつが先に走る。わしは後ろからついていく。危ないところがあっても龍馬は気づかんし、わしが『そこ危ないぞ』言うても、もう踏んじゅう」
「坂本どんにも、そげな頃があったのでごわすな」
「今もあんまり変わらんぞ」
「それは見れば分かりもす」
「じゃろ」
太郎は笑った。
昔の龍馬を誰かに話すことが、思っていた以上に楽しかった。
武市のこと。
以蔵のこと。
弥太郎のこと。
海へ行ったこと。
竹刀を握ったこと。
梅の花を見たこと。
話そうと思えば、いくらでも話せる。
西郷は急かさなかった。
太郎が話せば聞き、黙れば待った。
「……龍馬はのう、昔から先を見る男じゃった。武市さんにも言われちょった。剣を持っちゅう時まで、相手の向こうを見ゆうって」
「それは坂本どんらしか」
「じゃろ。わしは逆じゃ。今あるもんを見る。人が何言うたとか、何を欲しがっちゅうとか、金がいくら要るとか。龍馬からしたら細かいことばっかりじゃ」
「細かいことがなければ、大きなことは動かんのでごわす」
太郎は西郷を見た。
「弥太郎みたいなこと言うのう」
「弥太郎?」
「昔の知り合いじゃ。とにかく喋る男でのう」
「坂本どんより?」
太郎はすぐに答えず、真剣に考え込んだ。
「……難しいのう」
西郷が吹き出した。
*
やがて龍馬が戻ってきた。
「何じゃ、楽しそうじゃのう」
「遅い!」
「すまん。途中で知り合いに会うて」
「厠へ行くだけで何で知り合いに会う!」
「向こうから声かけられたんじゃ」
「ほんで喋ったがか」
「ちょっと」
「どのくらい」
「……ちょっとじゃ」
太郎は西郷を見た。
西郷も太郎を見る。
二人は同時に笑った。
「何じゃ!」
龍馬だけが分かっていなかった。
*
帰り道、龍馬が聞いた。
「西郷さんと何話しよった」
「おまんの悪口」
「何!」
「嘘じゃ」
「何じゃ」
「半分ほんまじゃ」
「どっちじゃ!」
太郎は笑いながら歩いた。
龍馬が少し先へ出る。
「速い」
「あ」
龍馬が止まり、太郎が追いつくのを待った。
また二人で並ぶ。
「西郷さん」
太郎が言った。
「うん」
「気づいたぞ」
龍馬の足が少し遅くなった。
「……入れ替わりに?」
「うん」
「何で」
「わしらを見て分かったらしい。おまんとわしの違いじゃなくて、わしら二人の間を見ちょった」
龍馬は少し考えた。
「よう分からん」
「わしも上手く言えん。ただ、西郷さんはわしが龍馬に似ちゅうかどうかより、わしらがどう相手を見るかとか、どう話を繋ぐかとか、そういうところを見ちょったみたいじゃ」
「何て言うた」
「太郎どんは太郎どんでおる方がええって」
龍馬が太郎を見る。
「……そうか」
「何じゃ」
「いや。西郷さんらしいのう」
龍馬はそう言って前を向いたが、その横顔は少しだけ嬉しそうだった。
*
それからしばらくして、太郎は桂小五郎と話す機会を得た。
その日は龍馬として会い、話は長州のことから始まって、やがてこれからの日本についての話へ移っていった。
「坂本君」
「何じゃ」
「君はどう思う」
桂が一つの問いを投げかけた。
太郎はすぐには答えず、桂が何を知りたがっているのかを考えてから口を開いた。
「わしは――」
「いや。いい」
言葉を遮られ、太郎は眉を寄せた。
「何が」
桂は少しだけ笑った。
「君は坂本君ではないな」
太郎は何も言わず、しばらく桂を見つめたあとで天井を仰いだ。
「……またか」
「また?」
「こっちの話じゃ。それより、何で分かった」
「簡単なことだ。坂本君なら、私の問いにそんなに素直に答えようとはしない」
「どういう意味じゃ」
「あの男は、こちらが一つ聞くと別の話を始める。私が答えを求めているのに、気がつけば坂本君の方から二つも三つも問いを投げられて、最後には私の方が答えさせられているんだ」
太郎は思わず額へ手を当てた。
「何で皆、あいつの面倒なところで見抜くがじゃ」
「面倒なところほど、その人らしさが出るのかもしれないな」
「それ、本人に言うてくれ」
「何度も言っている」
「直らんじゃろ」
「直らない」
二人は顔を見合わせ、ほとんど同時にため息をついた。
太郎は少しだけ可笑しくなった。
勝に見抜かれた時には背中へ冷たいものが走り、西郷に気づかれた時にも警戒した。それなのに三人目ともなると、驚きより先に「今度はそこか」と思ってしまう自分がいる。
もちろん秘密を知られることに慣れていいわけではない。
それでも桂の言葉には、勝や西郷と同じものがあった。
顔を見ているのではない。
坂本龍馬という人間を見ている。
「それで」
桂が言った。
「本当の名前は?」
「才谷太郎じゃ」
「そうか。才谷君」
「太郎でええ」
桂の目が少しだけ細くなった。
「分かった。太郎君」
その呼び方を聞いた時、太郎は勝に初めて「太郎」と呼ばれた時のことを思い出した。
見抜かれることは怖い。
だが、自分の名前を呼ばれることまで怖いわけではなかった。
*
さらに後、長崎でグラバーと商いの話をした時のことだった。
太郎は最初こそ龍馬から聞いていた話をなぞっていたが、荷の話が出た途端、次々と聞きたいことが浮かんできた。
「この荷はどこへ持っていく」
「大阪です」
「長崎から大阪まで運ぶなら、船賃はいくらじゃ」
グラバーが答えると、太郎はさらに身を乗り出した。
「なら、その値を足しても大阪で売る方が高うなるがか。途中で売ったらどうじゃ。逆に大阪から持って帰れる物はないがか。行きだけ荷を積んで帰りが空じゃったら、その分損じゃろ」
グラバーは最初、楽しそうに一つずつ答えていたが、途中から返事が少し遅くなり、代わりに太郎の顔をじっと見るようになった。
太郎はその視線に気づいた。
「何じゃ」
「ひとつ、聞いていいですか」
「何じゃ」
グラバーは少し笑った。
「あなた、本当にサカモトですか?」
太郎は口を開きかけ、そのまま閉じた。
少し前なら心臓が跳ねただろう。言い訳を考え、どこで失敗したのかを必死に探したかもしれない。
だが今は違った。
太郎はゆっくり天井を見上げた。
「……またか」
「マタ?」
「いや、こっちの話じゃ」
「サカモトは、もっと船を見ます。あなたは船より荷物を見る。それから、お金と、人を見る」
太郎は思わず苦笑した。
「勝先生と同じこと言うのう……」
「カツ?」
「それもこっちの話じゃ」
グラバーも笑った。
「でも、あなた。商売、向いてます」
「わしが?」
「はい。サカモトより」
太郎は少し考えてから、真面目な顔で言った。
「それは本人には言わん方がええぞ」
「ナゼ?」
「うるさいき」
「サカモト、怒りますか」
「怒りはせん。じゃけど、わしの方が船を見るとか、わしの方が大きい商売するとか言い出して、話が長うなる」
グラバーが声を上げて笑った。
太郎もつられて笑ったが、「商売に向いている」という言葉だけは、不思議と胸の中に残った。
坂本龍馬に似ているからではない。
坂本龍馬の代わりをしているからでもない。
自分が見て、自分が聞いて、自分で考えたことを評価された。
そのことが少し嬉しかった。
「あなた、名前は?」
グラバーに聞かれ、太郎は今度は迷わなかった。
「才谷太郎じゃ」
「サイタニ、タロウ」
「そうじゃ」
グラバーは確かめるようにもう一度その名を口にし、太郎は小さく頷いた。
*
その夜、龍馬は帳面を見ながら太郎の帰りを待っていた。
「今日は誰じゃ」
「グラバー」
「何が」
「ばれた」
龍馬が顔を上げた。
「また?」
「また」
「何で」
「金の話をしすぎた」
龍馬はしばらく太郎を見つめ、それから呆れたように帳面を閉じた。
「おまん、もう坂本龍馬やる気あるがか」
「あるわ!」
「勝先生には話を聞きすぎてばれて、桂さんには素直に答えようとしてばれて、グラバーには金の話をしすぎてばれる。もう少しわしに寄せられんがか」
「嫌じゃ!」
「何で!」
「わしは太郎じゃき!」
そこまで言ったところで、二人とも黙った。
龍馬が太郎を見る。
太郎も龍馬を見る。
どちらからともなく笑い出した。
「自分で言うたのう」
「何を」
「わしは太郎じゃって」
「当たり前じゃろ」
「前なら、ばれんようにわしの真似しようとしちょったのに」
「おまんの真似してもばれることが分かったき、もうせん」
「開き直った!」
「勝先生が真似するな言うた」
「勝先生、余計なことを……」
「それにグラバーは、わしの方が商売に向いちゅう言うたぞ」
龍馬の眉が動いた。
「……何?」
「ほら。じゃから言わん方がええ言うたがじゃ」
「待て太郎。それは聞き捨てならんぞ。わしは船を使うて――」
「始まった」
「まだ何も言うてない!」
「グラバーに言うたぞ。おまんに話したら長うなるって」
「何で先にそんなこと言う!」
太郎は笑いながら帳面を引き寄せた。
そこには、秘密を知った者たちの名前が少しずつ増えていた。
勝海舟。
西郷吉之助。
桂小五郎。
グラバー。
最初に勝へ見抜かれた時、この名前が増えていくことなど考えもしなかった。秘密を知る者は少ない方がいい。それは今でも変わらない。
それでも不思議なことに、太郎は最初ほど怖くなくなっていた。
「龍馬」
「何じゃ」
「分かったことがある」
「何じゃ」
「おまんをよう知らん人ほど、わしをおまんと思う」
龍馬が帳面から顔を上げた。
「逆に、おまんをよう知っちゅう人は、わしを見て違うと言う。勝先生は喋り方、西郷さんはわしら二人を見て、桂さんは考え方、グラバーは商売の仕方じゃ」
「……そう言われると、面白いのう」
「面白がるな。こっちは毎回ばれゆうがぞ」
「でも、顔じゃないんじゃな」
「うん。顔は同じでも、分かる人には分かる」
龍馬は少し考えてから、帳面に並んだ名前を指で一つずつ追った。
「なら、見分ける人が増えるがは、悪いことばっかりじゃないかもしれんのう」
「何で」
「おまんを知る人が増えたいうことじゃろ」
太郎は返事をせず、もう一度帳面へ目を落とした。
勝海舟、西郷吉之助、桂小五郎、グラバー。
その中で、なぜか西郷吉之助の文字に目が止まった。
今日、西郷に会ったわけではない。それでも昼間グラバーと話している時、ふと西郷の言葉を思い出していた。
『太郎どんが、太郎どんでおることが』
あの男は、自分を見抜いたあとも坂本龍馬の影として扱わなかった。才谷太郎と名乗ればそのまま太郎どんと呼び、昔の龍馬の話をすれば面白そうに聞いていた。
太郎は帳面に書かれた西郷の名を指先で軽くなぞり、それから何も言わずに帳面を閉じた。
「飯にしよう」
龍馬が立ち上がった。
「何食う」
「魚」
「おまん、懲りんのう」
「今日は大丈夫じゃ」
「何を根拠に」
「勘じゃ」
「一番信用ならん」
二人は笑いながら部屋を出た。
龍馬はいつものように先へ行きかけたが、廊下の途中で足を止めて振り返った。
「太郎、早う来い」
「おまんが速いんじゃ」
「腹減ったき」
「わしもじゃ」
「なら早う来い」
「じゃから、おまんが待て!」
龍馬は笑いながらその場で待った。
太郎が追いつくと、二人はまた並んで歩き出した。




