第六章 見抜く男
その日の朝、太郎は鏡を見ていた。
「何しゆう」
後ろから龍馬が覗き込んできたので、太郎は鏡越しに睨んだ。
「見るな。気持ち悪い」
「何でじゃ。わしの顔じゃろ」
「わしの顔じゃ!」
二つのよく似た顔が鏡の中に並んだ。
太郎が少し左へ動くと龍馬も動き、右へ動けばまた同じようについてくる。
「真似するな」
「してない」
「しゆう」
「してない」
もう一度太郎が身体を傾けると、龍馬も同時に傾いた。
「やめろ!」
「ははは!」
龍馬は笑いながら鏡の前を離れ、太郎は呆れながら自分の顔へ視線を戻した。
鏡に映っているのは才谷太郎である。
当たり前のことなのに、最近はこの顔を見ると、以前とは少し違うことを考えるようになっていた。
この顔で、今日も坂本龍馬になる。
ほんの少し前なら、そんなことを考えるだけで落ち着かない気分になったものだが、今では坂本龍馬と呼ばれれば自然に振り返ることができるし、龍馬しか知らない話を振られても、二人でつけている帳面を読んでおけば大抵は話をつなげられる。
慣れてきたのだ。
その事実を、太郎自身はそれほど深く考えていなかった。
「今日は誰じゃ」
鏡越しに尋ねると、龍馬は帳面をめくりながら答えた。
「勝先生」
太郎の手が止まった。
「……勝先生?」
「うん」
「おまんの先生じゃろ」
「そうじゃ」
「わし、会うたことないぞ」
「そうじゃのう」
「そうじゃのう、じゃない。これはおまんが行った方がええんじゃないか」
「わしもそうしたいんじゃけどのう。今日は別に外せん用がある。そっちは前から決まっちゅう」
「なら勝先生の方を断れ」
「それがな、昨日、わしが今日行く言うてしもうた」
太郎はゆっくり龍馬を振り返った。
「何で言うた」
「行けると思うた」
「何で行けんようになった」
「あとから別の用を思い出した」
「おまん、その帳面は何のためにある!」
「ほんまじゃのう」
「感心するな!」
龍馬が笑う。
太郎は大きく息を吐き、もう一度鏡へ向き直った。
勝海舟という名前なら何度も聞いている。いや、聞かされていると言った方が正しい。
龍馬が勝の話を始めれば長い。海の話から船の話になり、日本の話から外国の話へ飛び、気がつけば「勝先生がこう言った」「勝先生ならこう考える」と、何でも勝へ結びついていく。
「おまん、勝先生の話だけで一晩喋ったことあったぞ」
「そんなに喋ったか?」
「わしが先に寝た。朝起きたら、まだ続きを喋りたそうな顔しちょった」
「話の途中じゃったき」
「一晩で終わらん話を始めるな」
太郎は立ち上がって羽織を手に取り、腕を通しながら龍馬の前に置かれた帳面を顎で示した。
「話すことは全部書いちゅうな」
「書いちゅう」
「何か聞かれて、どうしても分からん時はどうする」
「適当に答えろ」
太郎が勢いよく振り返った。
「おまんの先生じゃろ!」
「冗談じゃ。分からんことは、また今度話すと言うたらええ。勝先生も、いちいち気にせんじゃろ」
「怪しまれんか」
「大丈夫じゃろ」
龍馬は気軽に答えた。
その言葉を聞いて、太郎も少し安心した。
大丈夫。
これまで何度も大丈夫だった。顔を見ただけで疑われたことはなく、話し方が違っても「今日は静かだ」と思われる程度だった。
人は思っているほど他人を見ていない。
いつの間にか太郎は、そんなふうに考えるようになっていた。
「じゃあ行ってくる」
「おう、頼んだぞ」
太郎が戸へ向かう。
「あ、太郎」
「何じゃ」
「勝先生は話が長いぞ」
太郎は振り返った。
「おまんが言うな」
*
勝海舟は、太郎が想像していたより普通の男に見えた。
もっと威圧感のある人物を想像していた。龍馬があれだけ「勝先生」「勝先生」と言うのだから、座っているだけで周囲の空気を変えてしまうような男なのかと思っていたのだ。
太郎は勝と向かい合って座った。
勝はしばらく太郎を見てから、何でもないように言った。
「何だ坂本。今日はずいぶん静かじゃねえか」
最初に言われたのがそれだったので、太郎は内心で少し笑った。
やはり、いつもと同じだ。
「そうかのう」
「そうだよ。いつもなら座る前から喋ってるだろ」
「今日は先生の話を聞こうと思うて」
「気味が悪いな」
「ひどいのう」
勝が笑ったので、太郎も笑った。
大丈夫。
そう思った。
話は船から始まった。
勝が紙を広げると、太郎も自然に身を乗り出した。船の大きさ、人、金、航路。分からないことも多かったが、それ以上に面白かった。
「この船はどこから来るがじゃ」
「長崎だ」
「荷は?」
「そこが問題なんだよ。船だけ動かしても銭にはならねえ。人か荷を運ばなきゃならん」
太郎は紙の上に描かれた航路を指で追った。
「なら、この途中で荷を積んだらええんじゃないか」
「簡単に言うな。積む荷を集める奴が要る」
「その土地の商人に声をかけたらええ」
「誰が声をかける」
太郎は紙を見たまま少し考えた。
「船を動かしたい者と、荷を運びたい者を繋ぐ人間がおればええんじゃないか。船を持つことだけが商売じゃないじゃろ。運びたい物があって、売りたい者がおって、買いたい者がおるなら、そこを先に繋いでから船を考えてもええ」
勝が黙った。
太郎はその沈黙に気づいて顔を上げた。
「何じゃ」
「いや。続けろ」
「船が先じゃなくてもええと思う。どこに何があって、誰が欲しがっちゅうか、それが分かれば船を動かす理由ができる。理由ができれば、金を出す者も出てくるかもしれん」
言いながら、太郎は昔の弥太郎を思い出していた。
物を見る。値を見る。人を見る。
土佐の地面に棒で線を引きながら、弥太郎はそんな話をしていた。あの頃は半分も分かっていなかったが、今なら少し分かる。
「坂本」
「何じゃ」
「お前、いつからそんなに商売のことを考えるようになった」
太郎の胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
「前からじゃ」
「そうか? 前は船の話をしたら、船そのものしか見てなかったぞ。速いか、でかいか、どこまで行けるかってな」
「……人は変わる」
「まあな」
勝はそれ以上追及せず、また紙へ視線を戻した。
太郎も話へ戻ったが、胸の奥には小さな引っかかりが残った。
それでも、まだ大丈夫だと思っていた。
*
話は日本のことへ移り、幕府、外国、海軍と次々に広がっていった。
勝はよく喋った。
太郎は聞いた。
分からないところがあれば、「それは何でじゃ」「なら、こっちはどうなる」「その船を誰が出す」「金は誰が払う」と尋ねた。
勝はそのたびに答え、太郎は答えを聞いてから次の質問をした。
しばらくすると、勝が煙管を手に取った。
火を入れ、ゆっくり煙を吐く。
「坂本」
「何じゃ」
「お前、俺が嫌いになったか」
太郎は思わず顔を上げた。
「何でじゃ」
「今日は俺にずいぶん喋らせるからよ。いつもなら、俺が一つ話してる途中で三つくらい口を挟んでくるだろ」
太郎の指が、膝の上でわずかに動いた。
「今日は聞く日じゃ」
「そうか」
勝は煙管を口へ運び、太郎を見たまま煙を吐いた。
太郎はその視線を受け止めながら、胸の中で自分に言い聞かせた。
人間にはそんな日もある。
今日は静かだと思わせればいい。
それだけだ。
「先生、続きは?」
「ああ」
勝が話を再開したので、太郎はようやく肩から力を抜いた。
気づかれてはいない。
そう思った。
*
話が終わる頃には、外の光が少し傾いていた。
「今日は勉強になった。また来る」
「ああ」
太郎は立ち上がって一礼し、背を向けた。
うまくいった。
戸へ向かいながら、そう思った。
龍馬のようには喋れなかったし、龍馬のように笑えたとも思わない。それでも最後まで坂本龍馬として話を終えることができた。
これなら帰ってから龍馬に「勝先生はおまんよりわしの方が話しやすいみたいじゃぞ」とでも言ってやろう。
太郎は少し笑いながら戸へ手を伸ばした。
「おい」
勝の声が背中へ届いた。
太郎が振り返る。
「何じゃ」
勝は座ったまま、煙管を持っていた。
表情も変わっていない。
「名前は?」
太郎は、一瞬その言葉の意味が分からなかった。
「……坂本龍馬じゃ」
「それは知ってる」
勝は煙管の灰を落とした。
小さな音がした。
「俺が聞いてるのは、お前さんの名前だよ」
太郎の手が、戸に触れたまま止まった。
つい先ほどまで胸の中にあった安堵が、一瞬で消えた。
「……何の話じゃ」
「分かってるだろ」
「わしは坂本龍馬じゃ」
「違うな」
勝の声は大きくなかった。
怒っているわけでもない。
それなのに、その一言は太郎の胸の奥へ真っ直ぐ入ってきた。
違う。
これまで誰にも言われなかった言葉だった。
「何を根拠に言いゆう。顔を見れば分かるじゃろ」
「顔の話なんざしてねえよ」
勝は煙管を置いた。
「坂本龍馬って男はな、俺がここまで喋る前に三度は口を挟む。船の話をすりゃ、まず船そのものに食いつく。でかいか、速いか、どこまで行けるか、外国まで行けるか。こっちが一つ答えりゃ十聞いてくる」
太郎は何も言えなかった。
それは、太郎が知っている龍馬そのものだった。
「お前さんは違う。船より先に荷を見た。金を見た。人を見た。それに、俺が喋ってる間、次に自分が何を言うかなんて考えてねえ。俺が何を言ってるかを、ずっと聞いてやがった」
「……それの何が悪い」
「悪かねえよ」
勝は少し笑った。
「だから龍馬じゃねえって言ってんだ」
太郎の喉が乾いた。
今まで何人もの前で坂本龍馬になり、誰も疑わなかった。名前を呼ばれれば振り返り、知らない話が出れば帳面の記憶を頼りにつなぎ、時には龍馬のように笑おうとさえした。
それで通ってきた。
いつの間にか、この顔さえあればどこまででも行けるような気になっていたのかもしれない。
だが勝は、顔などほとんど問題にしていなかった。
「……いつから気づいちょった」
「最初からじゃねえ。座った時は、今日は妙に静かだなと思ったくらいだ。でも話してりゃ分かる」
「そんなに違うか」
「ああ」
即答だった。
その言葉を聞いた時、太郎の胸に浮かんだものが何なのか、自分でもすぐには分からなかった。
悔しさはあった。自分では上手くやれているつもりだったのだから当然だ。
だが、それと同時に、胸の奥に張りつめていた何かが少し緩んだような気もした。
これほど似た顔をしていても、同じ名前を名乗っても、違うと分かる人間がいる。
「……わしは坂本龍馬じゃない」
「知ってる」
太郎は一度唇を舐めた。ここまで見抜かれてしまった以上、これ以上偽ることに意味はない。
それでも、自分の本当の名前を口にする直前、なぜかほんの少しだけ躊躇した。
「才谷太郎じゃ」
自分の名前を口にした瞬間、不思議と息がしやすくなった。
「才谷太郎」
勝はゆっくりその名を繰り返した。
「ああ」
これでようやく話が終わる。
そう思って太郎が小さく息を吐いた時、勝は煙管を指先で転がしながら、何でもないことのように言った。
「……梅太郎じゃねえのか」
太郎の息が止まった。
「何?」
「才谷梅太郎。最近、坂本がそんな名前を使ってるって聞いたが」
太郎は答えなかった。
いや。
すぐには答えられなかった。
勝の顔を見る。
先ほど龍馬ではないと見抜かれた時とは、また違う緊張が背中を走った。
「……先生」
「何だ」
「何で、その名前を知っちゅう」
「何でって言われてもな。耳に入っただけだ」
「どこから」
「それをお前さんに教えたら、俺の耳が一つ減るだろ」
勝は平然と煙管を口へ運んだ。
太郎はしばらく言葉を失っていたが、やがて眉を寄せた。
「……怖い男じゃのう」
「今頃気づいたのか」
「龍馬から聞いちょった話と違う」
「どう聞いてた」
「口が悪くて、偉そうで、話が長い」
「だいたい合ってるじゃねえか」
「大事なところが抜けちゅう」
「龍馬に言っとけ。人のことを喋るなら、もう少し正確に喋れってな」
太郎は苦笑したものの、頭の中では別のことを考えていた。
才谷梅太郎。
龍馬と二人で作った名前だった。
必要な時だけ使えばいいと思っていたその名前が、二人の知らないところですでに誰かの耳へ入り、そこからさらに勝のところまで届いている。
自分たちが思っている以上に、坂本龍馬という男の動きは人に見られている。
そのことが初めて実感を伴って、太郎の胸へ落ちてきた。
「それで?」
勝が聞いた。
「才谷太郎と才谷梅太郎、どっちが本当なんだ」
太郎は少し考えてから答えた。
「太郎じゃ」
「ほう」
「才谷太郎が、わしの名前じゃ。梅太郎は……龍馬と一緒に作った名前じゃ」
「なるほどな」
勝はそれ以上聞かなかった。
その「なるほど」が何を意味しているのか、太郎には分からない。
分からないからこそ、少し怖かった。
「じゃあ太郎」
勝が言った。
その呼び方に、太郎の目がわずかに動いた。
坂本でもない。
梅太郎でもない。
今日初めて会ったこの男は、いくつもの名前の中から迷わず、太郎が自分のものだと言った名前を選んだ。
「お前さん、龍馬の真似はしない方がいい」
「……何でじゃ」
「あいつみてえに喋ろうとするな。あいつみてえに笑おうとするな。どうせ無理だ」
「言い方が腹立つのう」
「腹が立つくらいでちょうどいい。お前さんには、お前さんのやり方がある。人の話を最後まで聞けるってのは悪いことじゃねえ。龍馬にゃなかなかできねえ芸当だ」
太郎は少し黙ったあと、口元を緩めた。
「先生。それ、本人に言うてもええか」
「言っとけ」
「怒るぞ」
「知るか」
「わしも知らんぞ」
「じゃあ何で聞いた」
二人は少し笑った。
けれど、太郎の胸に残る緊張は完全には消えていなかった。
「……先生」
「今度は何だ」
「このこと、誰かに言うがか」
勝の表情から笑いが消えた。
「言ってほしいか」
「まさか」
「じゃあ言わねえよ」
「そんな簡単に決めてええがか」
「簡単じゃねえさ。ただ、お前さんたちにも事情があるんだろ。俺はまだそれを聞いてねえし、聞いてもいねえことを他人に触れ回るほど暇じゃない」
太郎はしばらく勝の顔を見ていた。
この男を信じていいのか。
自分一人で決めていいことなのか。
龍馬ならどうする。
そこまで考えて、太郎はやめた。
今ここにいるのは龍馬ではない。
才谷太郎だ。
太郎は自分で決めて、頭を下げた。
「……すまん」
「礼なら龍馬に言わせろ。あいつ、人に面倒かけるの得意だからな」
「それは知っちゅう」
「だろ?」
今度は太郎も素直に笑った。
*
帰り道、太郎はいつもよりゆっくり歩いた。
町は何も変わっていない。
人が行き交い、店から声が聞こえ、子供が道を走っている。どこかで魚を焼いているらしく、香ばしい匂いが風に混じっていた。
それなのに、太郎には少しだけ景色が違って見えた。
見抜かれた。
怖くなかったと言えば嘘になる。
秘密が漏れるかもしれないという怖さもある。だが、それ以上に胸へ残っているのは、自分では上手くやれていると思っていたものを簡単に見破られた驚きだった。
坂本龍馬と呼ばれれば自然に振り返れるようになった。
帳面があれば、龍馬の話の続きをすることもできる。
これなら誰にも分からないのではないか。
どこかで、そう思い始めていた。
しかも勝は、自分が坂本龍馬ではないと見抜いただけではなかった。
才谷梅太郎。
あの名前まで知っていた。
太郎は歩きながら、無意識に周囲を見た。
行き交う人々。
店先に立つ男。
荷を運ぶ者。
茶屋から出てきた客。
その誰かが自分を知っているのかもしれない。
いや。
知っているのは自分ではない。
坂本龍馬を知っている。
才谷梅太郎という名前を知っている。
では。
才谷太郎は。
『だから龍馬じゃねえ』
勝の声が耳に残っている。
通りの端に置かれた桶へ目をやると、雨水の中に自分の顔が映っていた。
太郎は足を止め、しゃがみ込んだ。
坂本龍馬によく似た顔。
いや。
才谷太郎の顔だ。
頬へ触れると、水面の男も同じところへ手をやる。
「……わしは、わしじゃ」
以前にも同じ言葉を口にしたことがある。
だが今日は、あの時より少しだけ、その言葉が自分の中へ深く入ってきた。
*
宿へ戻ると、龍馬は帳面を広げていた。
「おう、太郎。どうじゃった」
太郎はすぐには答えず、草履を脱いだ。
一つが横を向いた。
いつもならすぐに揃えるのに、今日はなぜか少しだけその草履を見ていた。
「太郎?」
龍馬の声で我に返り、太郎はしゃがんで草履を揃えた。
部屋へ入り、龍馬の正面へ座る。
同じ顔。
何度見てもよく似ている。
それなのに今は、不思議なくらい違って見えた。
「龍馬」
「何じゃ」
「ばれた」
龍馬の笑顔が止まった。
「……何が」
「わしがおまんじゃないこと」
龍馬の身体が、わずかに前へ出た。
「誰に」
「勝先生じゃ」
龍馬はしばらく動かなかった。
「……何で」
「話を聞きすぎたらしい」
「何じゃそれ」
「おまんなら先生が全部喋る前に三回は口を挟む言われた」
「三回?」
「そこ気にするな」
「もっとじゃろ」
「知らん!」
思わず太郎が笑うと、龍馬も少し遅れて笑った。
「じゃから言うたろ、もっと喋れって」
「そこじゃない!」
「手も動かしたか」
「動かしてない」
「肩は」
「叩くか!」
「それじゃ!」
「違う!」
二人の笑い声が部屋に響いた。
いつもの笑いだった。
だが、しばらくすると自然に声が小さくなり、やがて二人とも黙った。
龍馬が帳面へ目を落とす。
「……勝先生、何て言うちょった」
「顔の話じゃないって。おまんは船の話をすれば船そのものを見る。速いか、でかいか、どこまで行けるかって。わしは船より先に荷を見て、金を見て、人を見るって」
龍馬の指が、帳面の端をゆっくりなぞった。
「それから、おまんは人が喋りゆう間に次に自分が何を言うか考えちゅう。わしは相手が何を言うか聞いちゅうって」
龍馬は少し口元を曲げた。
「よう見ちゅうのう」
「先生じゃろ」
「……そうじゃのう」
龍馬は帳面を閉じた。
「太郎。怖かったか」
太郎はすぐには答えず、膝の上に置いた自分の手を見た。
「……少しな。ばれたこともじゃけど、自分では上手くやれゆうと思っちょったき、それを見抜かれた方が驚いた」
「上手いやろ」
「そういうことじゃない。誰も気づかんかったき、そのうち本当に誰にも分からんのじゃないかと思い始めちょった。でも、分かる人には分かるがじゃな」
「そうみたいじゃのう」
「何か嬉しそうじゃな」
「いや」
「嬉しいがか」
「……ちょっと」
「何でじゃ」
龍馬は困ったように頭を掻いた。
「よう分からんけどのう。顔が同じでも、名前が同じでも、おまんはおまんじゃ言うてもろうたみたいで」
太郎は龍馬を見た。
「それ、わしが思うことじゃないか」
「そうじゃった」
「取るな」
「すまん」
二人はまた少し笑った。
今度の笑いは先ほどより静かだった。
「それとな」
太郎が言った。
「何じゃ」
「まだある」
「まだ何か言われたがか」
「勝先生、梅太郎の名前まで知っちょったぞ」
龍馬の表情が変わった。
先ほど太郎が「ばれた」と言った時よりも、むしろ今の方が驚いているように見えた。
「……何?」
「わしが才谷太郎じゃと言うたら、『梅太郎じゃねえのか』言われた」
「ちょっと待て」
龍馬が身体を起こした。
「才谷梅太郎を?」
「うん」
「何で勝先生が知っちゅう」
「わしが聞きたい」
「おまん、言うたがか」
「言うわけないじゃろ!」
「じゃあ誰じゃ」
「知らん!」
龍馬は立ち上がった。
狭い部屋の中を二、三歩歩き、戻る。
「わしら、誰に話した」
「ほとんど話してない」
「ほとんど?」
「名前を使うた相手はおるじゃろ。そこから聞いたんじゃないか」
「……」
龍馬が腕を組む。
「勝先生に聞いたがか。どこで知ったって」
「聞いた」
「何て?」
「教えたら自分の耳が一つ減る言うちょった」
龍馬が止まった。
しばらく。
何も言わない。
そして。
「……勝先生らしいのう」
太郎は呆れた。
「納得するな!」
「いや、するじゃろ」
「わしは怖かったぞ」
「わしもちょっと怖い」
「ちょっとか」
「かなり」
「顔が笑いゆう」
「勝先生らしいと思うたら、ちょっと面白うて」
「おまんのそういうところ、ほんま腹立つのう」
太郎が睨むと、龍馬は笑いながら座り直した。
だが、その笑いは長く続かなかった。
龍馬は帳面へ手を置いた。
「……わしらが思うちゅうより、見られちゅうがかもしれんのう」
「わしも帰りにそれ考えた」
「坂本龍馬がどこへ行った。誰と会うた。何を話した。何の名前を使うた」
「誰かが見ちゅう」
「それが人から人へ渡る」
「ほんで、勝先生みたいな人の耳に入る」
二人は同時に帳面へ目を落とした。
これまでこの帳面は、二人が坂本龍馬を共有するためのものだった。
誰と会ったか。
何を話したか。
何を約束したか。
自分たちだけが知っていれば、それでいいと思っていた。
だが今は、その帳面の外側にも、別の帳面があるような気がした。
誰かが書いているわけではない。
それでも、人の記憶から人の記憶へ、坂本龍馬という男の足跡が残っていく。
自分たちが知らないところで。
「でも」
太郎が言った。
「勝先生、わしの本当の名前は知らんかった」
「うん」
「梅太郎は知っちょった。でも太郎は知らんかった」
龍馬が太郎を見る。
「それがどうした」
「何でも知っちゅうわけじゃないいうことじゃ」
「……そうじゃのう」
「わしとおまんが二人おることも、最初から知っちょったわけじゃない。話して、違うと気づいた」
「そうじゃ」
「なら、まだ全部見られちゅうわけじゃない」
龍馬は少し考えてから頷いた。
「おまん、こういう時は落ち着いちゅうのう」
「どっちかが落ち着かんといかんじゃろ」
「わしも落ち着いちゅう」
「さっき立って歩き回った男が何言いゆう」
「考える時は歩くんじゃ」
「そういうことにしちょく」
太郎は帳面を開き、今日の頁へ筆を走らせた。
勝海舟。
その横に、今日話した船、荷、人、金のことを書いていく。
「何書きゆう」
「今日のことじゃ」
「それは見れば分かる」
「なら聞くな」
龍馬が横から覗き込む。
太郎は最後まで書き終えると、少し間を空けて、もう一つだけ短く書き加えた。
――見抜かれた。
龍馬はその文字を見た。
太郎も見た。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
部屋の外から誰かの笑い声が聞こえ、廊下を歩いていく足音が遠ざかっていく。
いつもと同じ夜だった。
「……勝先生じゃったからかのう」
龍馬が言った。
太郎は筆を置いた。
「分からん」
龍馬は帳面に書かれた文字を見つめた。
――見抜かれた。
太郎も同じ文字を見ていた。
やがて龍馬がゆっくり顔を上げた。
「太郎」
「何じゃ」
「他にも、おるかもしれんのう」
太郎は答えず、開いていた帳面を静かに閉じた。




