第五章 混ざる名前
「坂本さんは、思っていたより聞き上手ですな」
そう言われて、龍馬は箸を止めた。
向かいに座っている男は、何の疑いもない顔で酒を口へ運んでいる。
龍馬は箸の先に挟んだ漬物を見て、それから男を見た。
「……わしが?」
「ええ。この前お会いした時も、ほとんど私の話を聞いてくださったでしょう。正直、坂本さんはもっとご自分の話ばかりされる方だと思っておりました」
「……」
龍馬はゆっくり漬物を口へ入れた。
噛む。
考える。
「この前いうたら……いつじゃったかのう」
「五日ほど前ですよ。ここではありません。河原町の茶屋で」
河原町。
五日前。
龍馬は天井を見た。
その日は確か――。
「ああ」
思わず声が出た。
「何か?」
「いや、何でもない」
太郎じゃ。
龍馬は酒を飲んで、口元を隠した。
「それで、坂本さん。この前の話ですが」
「うん」
「あの件、考えていただけましたか」
「……」
龍馬の手が止まる。
「あの件?」
男が笑った。
「またまた。ずいぶん真剣に聞いてくださったじゃないですか」
「……そうじゃったのう」
「忘れたとは言わせませんよ」
「忘れちゃせん」
龍馬は笑った。
笑いながら。
頭の中では必死だった。
何じゃ。
何を聞いた。
太郎。
おまん。
何を聞いたがじゃ。
「それで?」
男が身を乗り出す。
龍馬も少しだけ身を乗り出した。
「その前に、もう一度聞かせてくれんか」
「何をです?」
「おまんの考えじゃ。あれから少し変わったかもしれんじゃろ」
男は目を瞬いた。
やがて。
嬉しそうに笑った。
「なるほど。そういうことですか」
「そういうことじゃ」
龍馬も笑った。
「ほんなら、最初から聞かせてくれ」
男は話し始めた。
龍馬は頷きながら聞いた。
いつもなら途中で口を挟むところを。
その日は。
少しだけ我慢した。
*
「太郎!」
戸が勢いよく開いた。
部屋の中で紙を見ていた太郎が、ゆっくり顔を上げる。
「何じゃ」
「おまん、五日前、河原町で何を聞いた!」
「帰って最初に言うことがそれか。おかえりくらい言わせろ」
「ただいま!」
「おかえり」
「それで!」
「座れ」
「何で」
「落ち着かんき」
龍馬は太郎の前へ座った。
だが、膝が上下している。
「それを止めろ」
「勝手に動く」
「前も聞いたぞ、それ」
太郎は見ていた紙を畳み、脇へ置いた。
「五日前の河原町じゃったな」
「そうじゃ。わし、今日会うた男から『この前の話を考えてくれたか』言われたぞ。何のことか全然分からんかった」
「それでどうした」
「もう一回話させた」
「……」
「何じゃ」
太郎は。
少し感心したように龍馬を見た。
「おまんにしては頭使うたのう」
「わしを何じゃと思うちゅう!」
「先に喋って後で考える男」
「ひどいのう!」
「違うがか」
龍馬は口を開いた。
閉じた。
「……話を戻そう」
「そうせえ」
太郎は脇へ置いた紙を取り、広げた。
「その男なら、船荷の話じゃ。大坂から運ぶ荷について、今使いゆう相手では遅いらしい。もっと早う運べる船を探しゆう」
「それじゃ!」
龍馬が膝を叩いた。
「痛っ」
「自分の膝じゃろ」
「勢いつけすぎた」
「馬鹿じゃ」
太郎は紙の一角を指で叩いた。
「ここに書いちゅう」
龍馬が覗き込む。
「……字が小さい」
「読める」
「もっと大きく書け」
「紙がもったいない」
「細かいのう」
「おまんが雑なんじゃ」
龍馬は紙を自分の方へ引き寄せた。
そこには。
男の名前。
会った場所。
日。
話した内容。
そして。
その横に。
いくつか別の名前が書かれていた。
「これは何じゃ」
「その男に会わせたらええと思う者じゃ」
「何で」
「船を探しゆうんじゃろ。なら船を持っちゅう者か、船を動かせる者と話をさせたらええ」
「……」
龍馬が紙を見る。
太郎を見る。
「おまん」
「何じゃ」
「こんなん、いつから書きゆう」
「少し前から」
「何で」
太郎は少し考えた。
「忘れるき」
「わしが?」
「主におまんが」
「……」
「それと」
太郎は紙を龍馬から取り返した。
「人と人の話を聞いちょったら、繋がることがある」
「繋がる?」
「例えば、この男は船を探しゆう。こっちの男は荷を探しゆう。こっちは長崎から物を運びたい。こっちは大坂で売りたい。なら、こことここを繋いだらええんじゃないかと思う」
太郎の指が。
紙の上を動く。
一つの名前から。
別の名前へ。
さらに。
別の名前へ。
龍馬は。
その指を目で追った。
土佐の地面に。
棒で線を引いていた男を思い出す。
「……弥太郎みたいじゃのう」
太郎の指が止まった。
「やめろ」
「何で」
「あいつほど喋らん」
「そこか」
「大事じゃ」
龍馬が笑った。
太郎も。
紙を見ながら少し笑った。
*
数日後。
今度は太郎が困った。
「坂本さん」
「おう」
「この前のお話、実に面白かったです」
「……」
太郎は。
湯呑みを持ったまま。
相手を見た。
「どの話じゃ」
「異国の船ですよ」
「ああ」
「まさか、あそこまで船について熱く語られるとは思いませんでした」
「……」
太郎は茶を飲んだ。
龍馬じゃ。
間違いなく。
龍馬じゃ。
「それで、あの蒸気船の話なんですが」
「うん」
「坂本さんがおっしゃった――」
男が。
話を続ける。
太郎は。
聞きながら。
頭の中で龍馬を殴った。
*
「龍馬」
「何じゃ」
「おまん、蒸気船の話を誰にした」
「いっぱいおる」
「そういうところじゃ!」
太郎が紙の束を畳へ叩きつけた。
「今日、わしが会うた男が、おまんと船の話をした言うちゅう。わしは何も知らんぞ!」
「聞けばええじゃろ」
「聞いたわ! 途中から何の話か分からんようになった!」
「ほんなら」
龍馬が。
畳へ置かれた紙を見る。
「わしの話も書けばええ」
「……」
「何じゃ」
「今、何言うた」
「じゃから。おまんが会うた人の話だけじゃなくて、わしが会うた人の話も書いちょけばええ」
太郎は。
しばらく龍馬を見ていた。
それから。
紙を見る。
また。
龍馬を見る。
「……おまんも書け」
「え?」
「わしだけ書くんじゃない。おまんも書け」
「わし、字を書くの苦手じゃ」
「知っちゅう」
「なら」
「練習になる」
「嫌じゃ」
「わしも嫌じゃ」
「じゃあやめよう」
「それで困ったのは今日のわしじゃ!」
太郎が龍馬の前へ紙を置いた。
筆。
硯。
「書け」
「太郎」
「書け」
「おまん、ほんまに乙女姉やんみたいになってきたのう」
「書け」
「……はい」
龍馬は。
筆を取った。
*
その夜から。
二人の間に。
一冊の帳面ができた。
誰に会った。
どこで会った。
何を話した。
何を頼まれた。
何を約束した。
龍馬は。
最初。
本当に嫌そうだった。
「これ全部書くがか」
「全部じゃ」
「面倒じゃのう」
「忘れたらもっと面倒じゃ」
「名前だけでええじゃろ」
「駄目じゃ。何を話したか書け」
「話しすぎて覚えちょらん」
「なら次から減らせ」
「それは無理じゃ」
龍馬は筆を持ったまま。
天井を見た。
「今日会うたのは……」
「三人」
「四人じゃ」
「三人じゃ」
「いや、途中で一人――」
「あれは蕎麦屋の親父じゃ」
「話したぞ」
「客に入れるな!」
帳面を書く時間は。
いつの間にか。
二人の日課になった。
*
「これはおまんか」
「どれ」
「船の話」
「わしじゃ」
「こっちは」
「おまん」
「何で分かる」
「字」
「ああ」
「これは?」
「……」
「龍馬?」
「覚えちょらん」
「おまんじゃ!」
「何で決めつける!」
「『話が盛り上がり酒を飲む』って書いちゅう!」
「おまんも飲むじゃろ!」
「わしはこんな字で書かん!」
「そこか!」
帳面を間に置き。
二人が。
顔を寄せる。
肩がぶつかる。
「狭い」
「おまんが寄ってきたがじゃ」
「帳面がこっちにあるきじゃ」
「なら持っていけ」
龍馬が帳面を引く。
太郎も掴む。
「破れる!」
「離せ!」
「おまんが離せ!」
結局。
二人とも。
同時に手を離した。
帳面が。
畳へ落ちる。
顔を見合わせる。
「……」
「……」
二人で笑った。
*
少しずつ。
妙なことが起こり始めた。
「坂本さんは、思ったより慎重な方ですな」
龍馬が言われる。
「そうかのう」
「ええ。前にお会いした時、随分こちらの話を聞いてくださった」
龍馬は笑う。
「そういう日もある」
別の日。
「坂本さん、今日は随分静かですね」
太郎が言われる。
「そうか」
「この前は、こちらが口を挟む暇もなかった」
「……今日は喉の調子が悪い」
「なるほど」
また別の日。
「坂本さんは金には無頓着だと思っていました」
太郎が言われる。
「誰がそんなこと言うた」
「いえ、以前お会いした時の印象です」
「……」
龍馬じゃ。
太郎はすぐ分かった。
「金は大事じゃ」
太郎は言った。
「物を買うにも、人を動かすにも、船を出すにも要る。使うなら、どこへ使うか考えんといかん」
相手が感心したように頷いた。
その数日後。
龍馬が同じ男に会った。
「坂本さんは、ずいぶん金のことを考えておられるんですな」
「……」
龍馬は。
一瞬だけ。
遠い目をした。
「まあのう」
*
「太郎」
「何じゃ」
「わし、最近、金に細かい男と思われちゅう」
「ええことじゃ」
「何で」
「少しは金を大事にせえ」
「わしは大事にしゆう」
「この前、財布落としたじゃろ」
「あれは事故じゃ」
「その前は」
「……盗られた」
「寝てる間に落としたんじゃ」
「盗られた!」
「財布が自分で逃げたがじゃ」
「何で財布がおまんの味方する!」
太郎は笑いながら。
帳面を開いた。
「でも」
「何じゃ」
「面白いのう」
「何が」
太郎は。
帳面の文字を指でなぞった。
「この人は、おまんと話したことを、わしと話したと思うちゅう」
「うん」
「こっちの人は、わしと話したことを、おまんと話したと思うちゅう」
「うん」
「それで次に会うた時、続きを話す」
「そうじゃ」
「わしらも帳面見て、その続きを話す」
「そうじゃのう」
太郎は。
そこで。
指を止めた。
「……妙じゃのう」
「何が」
「話が混ざりゆう」
龍馬が。
帳面を覗き込む。
「ほんまじゃ」
「おまんがした約束を、わしが守る」
「おまんが聞いた話を、わしが続ける」
「おまんが喋ったことを、わしが知らん」
「おまんが聞いたことを、わしが知らん」
二人は。
帳面を見る。
龍馬が。
少し笑った。
「二人で一人みたいじゃのう」
太郎は。
龍馬を見る。
「それ、前にも言うたな」
「言うたか?」
「言うた。寺田屋で」
「そうじゃったか」
「帳面に書いちょくか?」
「そこまで書かんでええ!」
太郎が笑った。
だが。
しばらくして。
少しだけ。
表情を変えた。
「龍馬」
「何じゃ」
「わしは、おまんにはならんぞ」
龍馬も。
笑うのをやめた。
「分かっちゅう」
「坂本龍馬は、おまんじゃ」
「うん」
「わしは、才谷太郎じゃ」
「分かっちゅう」
龍馬は。
帳面から顔を上げた。
太郎を見る。
「何回でも言うちゃる。おまんは太郎じゃ」
太郎は。
少しだけ。
目を細めた。
「ならええ」
*
だが。
混ざるのは。
名前だけではなかった。
ある日。
龍馬は。
商人と話していた。
「その荷、大坂へ運ぶより長崎へ持っていった方がええんじゃないか」
口にしてから。
龍馬は止まった。
「どうされました?」
「いや」
龍馬は。
自分の言葉を。
頭の中でもう一度聞いた。
太郎なら。
そう言う。
そんな気がした。
「続けてください」
「ああ」
龍馬は。
少し笑った。
「長崎なら異国の船も入る。売る相手も変わる。値も変わるじゃろ。どこへ持っていけば一番ええか、そこから考えた方がええ」
商人が。
興味深そうに身を乗り出した。
龍馬も。
身を乗り出す。
「それでな――」
*
同じ頃。
太郎は。
別の男と話していた。
「難しい話は分からんのです」
男が言った。
「船だ、異国だ、世の中が変わるだと言われても、私らには……」
太郎は。
男の顔を見た。
少し考え。
茶碗を置いた。
「難しゅう考えんでもええんじゃないか」
「え?」
「海の向こうに何があるか、分からんじゃろ」
「ええ」
「なら、見に行けばええ」
言ってから。
太郎は。
自分で驚いた。
男は。
笑った。
「坂本さんらしい」
「……」
太郎も。
少し遅れて。
笑った。
「そうかのう」
*
その夜。
二人は帳面を広げていた。
「太郎」
「何じゃ」
「今日、わし、おまんみたいなこと言うた」
「何を」
「荷の話じゃ。大坂より長崎へ持っていった方がええんじゃないかって」
太郎が顔を上げた。
「それ、わしみたいながか」
「おまん、ようそういうこと考えゆうろ」
「まあ……考えるけど」
「おまんは?」
「何が」
「わしみたいなこと言わんかったか」
太郎の筆が。
止まった。
「……言うた」
「何て」
「海の向こうに何があるか分からんなら、見に行けばええって」
龍馬の顔が。
ゆっくり笑う。
「それ、わしじゃ」
「知っちゅう」
「わしが昔言うたやつじゃ」
「知っちゅう!」
「太郎」
「何じゃ」
「おまん、わしになってきたのう」
太郎は。
筆の柄で龍馬の額を叩いた。
「痛っ!」
「調子に乗るな。おまんもわしみたいになってきちゅうじゃろ」
「それは困る」
「何でじゃ!」
二人が笑った。
*
帳面には。
少しずつ。
文字が増えていった。
名前。
場所。
約束。
船。
荷。
金。
人。
龍馬の字。
太郎の字。
同じ頁の中に。
二人の筆跡が並ぶ。
ある夜。
龍馬が帳面をめくっていて。
手を止めた。
「太郎」
「何じゃ」
「これ」
頁の上に。
一つの名前があった。
坂本龍馬。
その下には。
人の名前と。
約束。
さらに。
船の話。
荷の話。
金の話。
龍馬が書いた文字もある。
太郎が書いた文字もある。
「これ、どっちのことじゃ」
太郎が。
龍馬の肩越しに。
帳面を見る。
「どれ」
「ここじゃ」
太郎は。
指で文字を追った。
「これは……」
一つ。
二つ。
読み進める。
「……」
「分からんじゃろ」
「待て」
「わしも分からん」
「これは、おまんじゃないか」
「でもこっちの話はおまんじゃ」
「なら途中から変わっちゅう」
「どこで」
「分からん」
二人は。
しばらく。
帳面を見つめていた。
やがて。
龍馬が吹き出した。
「何じゃこれ」
太郎も笑った。
「おまんがちゃんと書かんきじゃ」
「おまんも書いちゅう!」
「字を見れば分かる」
「内容の話じゃ!」
笑いながら。
太郎は龍馬の手から筆を取った。
硯へ。
静かに筆先を落とす。
「何書くがじゃ」
「名前」
「誰の」
太郎は。
答えなかった。
帳面の余白へ。
ゆっくり。
四文字を書く。
才谷太郎。
龍馬は。
その文字を見た。
太郎が筆を置く。
「これでええ」
「何が」
「分からんなったら、書いちょけばええ」
太郎は帳面を閉じた。
龍馬はその表紙へ手を置き、太郎を見た。
「忘れんじゃろ」
「何を」
「おまんが太郎じゃいうこと」
太郎は。
少しだけ笑った。
「忘れたら、おまんが言え」
「何回でも言うちゃる」
「うるさいくらいにな」
「任せろ。うるさいのは得意じゃ」
「そこは自覚あるがか」
二人はまた笑った。
太郎が帳面を持って立ち上がる。
「腹減った」
「わしもじゃ」
「何食う」
「魚」
「やめろ」
「何で」
「忘れたがか!」
「あれは魚が悪いんじゃない!」
「おまんの腹が悪いんじゃ!」
二人は言い合いながら部屋を出た。
机の上には。
まだ乾ききっていない墨が。
ほんの少し残っていた。
才谷太郎。
それは。
太郎が自分の手で書いた。
自分の名前だった。




