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第九章 寺田屋の夜

 京の冬は、土佐とは違う寒さだった。

 海から吹いてくる風の冷たさなら太郎も知っているが、京の寒さは狭い路地や家々の隙間に溜まり、夜になると足元から静かに這い上がってくるようだった。

「寒い」

 太郎が言うと、隣を歩いていた龍馬が笑った。

「さっきも言うたぞ」

「寒いもんは寒い」

「歩けば温うなる」

「おまんが速いだけじゃ」

「あ」

 龍馬が足を止めた。

「またか」

「またじゃ」

 太郎が追いつくのを待ち、二人は再び並んで歩き出した。

 少し前までなら龍馬はそのまま先へ行き、太郎も何も言わず後ろから追いかけていただろう。

 今は龍馬が速ければ太郎が文句を言い、龍馬が待つ。それだけのことだったが、いつの間にかそれが二人の歩き方になっていた。

「しかし、ようやくここまで来たのう」

 龍馬が白い息を吐いた。

「薩摩と長州か」

「うん」

「ここからの方が大変じゃないがか」

「分かっちゅう。じゃけど、最初から先の心配ばっかりしよったら何も喜べんじゃろ」

「おまん、昔からそれじゃのう」

「何が」

「先のこと考えゆうようで、急に今だけ見る」

「ええことじゃろ」

「時と場合による」

 龍馬は笑った。

 太郎もつられて笑ったが、龍馬の顔には疲れが見えていた。

 薩摩と長州の間を行き来し、人に会い、話を聞き、また別の人間へ伝える。少年の頃、海の向こうばかり見ていた男は、今では人と人の間を走り回っていた。

「何じゃ」

 龍馬がこちらを見る。

「何でもない」

「今、わしのこと見よったじゃろ」

「顔について何かついちゅう」

「何!」

 龍馬が慌てて頬をこする。

「嘘じゃ」

「太郎!」

 太郎は笑いながら先へ歩いた。

     *

 寺田屋へ着くと、お登勢が二人を迎えた。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 龍馬が答え、太郎も軽く頭を下げる。

 お登勢は龍馬を見てから太郎を見た。

「こうして二人一緒に来られると、未だに変な感じがしますねえ」

「もう慣れたじゃろ」

「慣れませんよ。後ろ姿だけなら私だって間違えます」

 太郎が笑った。

「お登勢さんでも間違うがか」

「顔だけならね。でも喋れば大体分かります」

「何で皆そこなんじゃ」

「あなたの方が静かですから」

「龍馬がうるさすぎる」

「おい!」

 お登勢は笑いながら二人を中へ通した。

 太郎は何気なく奥を見た。

「今日は、お龍は?」

「出ていますよ。少ししたら戻ってくるでしょう」

「そうか」

 龍馬が答えた。

 太郎はそれ以上気にしなかった。

     *

 夜になると、龍馬は三吉慎蔵と一つの部屋に入り、話を始めた。

 太郎は隣の部屋にいた。

 襖一枚隔てただけなので、龍馬の声はよく聞こえる。

 むしろ聞こえすぎる。

「……ほんで西郷さんが――」

 隣から声がする。

 太郎は帳面へ筆を走らせながら、小さくため息をついた。

「声がでかい」

「聞こえたぞ!」

「聞こえるように言うた!」

 三吉の笑い声がした。

「仲がええのう」

「良うない!」

「良い!」

 隣から龍馬が返す。

「どっちじゃ」

 三吉が笑う。

 太郎も笑いながら帳面へ目を戻した。

 誰に会った。

 何を話した。

 何を頼まれた。

 どこへ行く。

 以前は龍馬が覚えていれば済んだことまで、今は二人で共有するようになっていた。

 同じ名前を使うなら、同じ記憶を持たなければならない。

 太郎はそう思っていた。

 筆を走らせる。

 隣では龍馬がまだ喋っている。

「三吉さん、それは――」

 声が途切れた。

 太郎の筆も止まった。

 何かが違った。

 外が静かすぎる。

 少し前まで聞こえていた人の声がない。

 代わりに。

 低い声。

 足音。

 複数の人間が動く気配。

 太郎は筆を置いた。

「龍馬」

 返事はなかった。

 襖を開けようとした時だった。

 階下で大きな音がした。

「御用!」

 怒号が響いた。

 太郎の身体が固まる。

 次の瞬間、隣の部屋で三吉が立ち上がる音がした。

「坂本さん!」

「分かっちゅう!」

 龍馬の声。

 太郎は襖を開けた。

「龍馬!」

「太郎、来るな!」

 龍馬はすでに武器へ手を伸ばしていた。

「何言いゆう!」

「おまんは裏から出ろ!」

「龍馬!」

「狙われちゅうがは、わしじゃ!」

 その言葉で、太郎は動きを止めた。

 階段を上がってくる足音がする。

 三吉が刀を抜いた。

 龍馬が太郎を見る。

「行け!」

 太郎は拳を握った。

「……死ぬなよ」

「おう」

「絶対じゃぞ」

「分かっちゅう」

「おまんの『分かっちゅう』は信用ならん」

「今言うか!」

「今じゃき言うがじゃ!」

 一瞬だけ龍馬が笑った。

「行け!」

 太郎は走った。

     *

 その頃、お龍は風呂にいた。

 外の異変に最初に気づいたのは、声だった。

 宿の客とは違う。

 低く押し殺した声。

 続いて、いくつもの足音。

 お龍は湯から上がった。

 何かがおかしい。

 戸の向こうを窺う。

 人影が見えた。

 役人。

 それも一人や二人ではない。

 寺田屋が囲まれている。

「龍馬さん……」

 身体を拭く余裕もなかった。

 着物を引っかけるように身につけ、濡れた髪のまま走った。

 階段へ向かう。

「龍馬さん!」

 声を上げる。

 階下で怒号が響いた。

 誰かがこちらへ来る。

 お龍は足を止めた。

 逃げなければ。

 知らせなければ。

 頭では分かっているのに、身体がうまく動かない。

 その時。

 廊下の向こうに男が見えた。

「……龍馬さん」

 同じ背丈。

 同じ髪。

 同じ顔。

 お龍の身体から、一瞬だけ力が抜けた。

「龍馬さん!」

     *

 太郎は足を止めた。

 お龍だった。

 濡れた髪。

 乱れた着物。

 息を切らしながらこちらへ走ってくる。

 太郎は何が起きたのか理解した。

 お龍は自分を龍馬だと思っている。

「よかった……」

 お龍が太郎の腕を掴んだ。

「龍馬さん、無事だったんですね」

 違う。

 そう言えばいい。

 わしは龍馬じゃない。

 才谷太郎じゃ。

 たったそれだけのことだった。

 だが太郎は、お龍の顔を見てしまった。

 恐怖で固まっていた顔が、自分を見た瞬間に緩んだ。

 生きていた。

 そう思ったのだ。

「……大丈夫じゃ」

 言ってしまった。

 お龍が大きく息を吐いた。

「よかった……本当に……」

 太郎の胸が痛んだ。

 龍馬はまだ中にいる。

 自分はここにいる。

 お龍はそれを知らない。

「お龍」

「はい」

 太郎は言おうとした。

 違う。

 わしは――。

 だが、その時また階下から怒号が聞こえた。

 お龍が身体を震わせる。

「早く逃げてください」

「……うん」

「早く!」

 太郎は一歩下がった。

 ここで長く話せば、気づかれる。

 何より。

 龍馬が来る。

 太郎は廊下の向こうを見た。

「お龍」

「はい」

「……すまん」

「え?」

 太郎はそれ以上何も言わず、身を翻した。

「龍馬さん?」

 呼ばれた。

 足が止まりそうになった。

 だが振り返らなかった。

 そのまま暗がりへ消えた。

     *

 お龍には分からなかった。

 なぜ龍馬が謝ったのか。

 なぜこちらを見なかったのか。

 それでも今は考えている暇などなかった。

 早く逃げなければ。

 そう思って別の方へ走りかけた時、背後からまた足音がした。

「お龍!」

 声。

 お龍は振り向いた。

 龍馬だった。

「……え?」

 ほんの少し前に別れたばかりの男が、またそこにいる。

 だが今度は三吉に支えられ、手から血を流していた。

「龍馬さん?」

「何じゃ」

「今……」

「何じゃ?」

 お龍は言葉を失った。

 見間違えたのだろうか。

 さっき会ったのも龍馬だった。

 この男も龍馬だ。

 同じ顔。

 同じ声。

 いや。

 同じだっただろうか。

 先ほどの龍馬は。

 少し静かだった。

「お龍!」

 三吉の声で我に返った。

「早う!」

「はい!」

 考えるのをやめた。

 今は逃げることだけを考えた。

     *

 夜の伏見を、龍馬と三吉は必死に逃れた。

 手の傷から血が滲み、指を動かすたび痛みが走る。

 それでも止まれない。

 捕まれば終わる。

 三吉に支えられながら進む途中、龍馬は何度か後ろを見た。

「坂本さん、前を!」

「太郎が」

「太郎さんなら先に逃げたんじゃろ!」

「分かっちゅう!」

「なら前を見い!」

 龍馬は歯を食いしばり、また走った。

 その言葉を、昔も誰かに言われたことがあった。

 前見て歩け。

 こんな時に思い出すことではない。

 それでも、太郎の声が聞こえた気がした。

     *

 夜が明ける頃。

 ようやく危険を脱した龍馬は、手当てを受けながら何度も戸口を見ていた。

「落ち着け、坂本さん」

 三吉が言う。

「落ち着いちゅう」

「さっきから十回くらい戸を見ちゅうぞ」

「数えんな」

「太郎さんが心配なんじゃろ」

「……うん」

 龍馬は包帯の巻かれた手を見た。

「わしが逃がした」

「なら大丈夫じゃ」

「そうじゃのう」

 口ではそう言った。

 だが胸の奥に残っているものは消えなかった。

 もし捕方が、先に太郎を見つけていたら。

 もし太郎が、坂本龍馬だと答えていたら。

 その先を考えようとして、龍馬はやめた。

 戸が開いた。

 龍馬が顔を上げる。

「……何じゃ」

 太郎が立っていた。

「幽霊でも見た顔しおって」

「太郎!」

 龍馬が立ち上がろうとして、手の痛みに顔を歪めた。

「痛っ!」

「何しゆう!」

「おまんが急に来るき!」

「わしが悪いがか!」

 太郎は龍馬の前まで来ると、包帯を見た。

 笑いが消えた。

「……痛いか」

「痛い」

「当たり前じゃ」

「聞いたがおまんじゃろ」

「そうじゃった」

 三吉が二人を見て笑った。

「わしは少し外すか」

「何でじゃ」

「何となくじゃ」

 三吉が出ていく。

 二人きりになると、龍馬はしばらく太郎を見ていた。

「太郎」

「何じゃ」

「もうやめよう」

「何を」

「わしになるがをじゃ」

 太郎の顔から笑みが消えた。

「急に何言いゆう」

「今日分かった」

 龍馬は包帯の巻かれた手を見た。

「もし今日、おまんがわしとしてあの部屋におったら、捕まったがも、斬られたがも、おまんじゃったかもしれん」

「龍馬」

「今までは便利じゃと思うちょった。わしが行けん時はおまんが行く。おまんが聞いた話をわしが続ける。二人おったら二倍動ける」

 龍馬は顔を上げた。

「でも違う。二倍危ない」

 太郎は黙って聞いていた。

「坂本龍馬いう名前が狙われるなら、おまんがその名前を名乗るだけで、おまんまで狙われる。それは違う」

「何が違う」

「おまんは死んだらいかん」

 太郎はしばらく何も言わなかった。

 やがて、呆れたように息を吐いた。

「今さらじゃ」

「何が」

「おまんが危ない男じゃいうことじゃ。幕府に睨まれて、薩摩と長州の間を走って、知らん奴に会いに行って、船乗って、勝手に話まとめてくる。安全な坂本龍馬なんぞ最初からおらん」

「そういう話じゃない」

「同じじゃ」

「違う」

「じゃあ、こうしよう」

 太郎が龍馬を見る。

「危ない時はやらん」

「……何?」

「危ない時は坂本龍馬にならん。それでええじゃろ」

「太郎」

「わしも死にとうない」

 太郎ははっきり言った。

「商売もしてみたい。船にも乗りたい。長崎ももっと見たい。異国の物も見たいし、自分で金も稼いでみたい。まだ何も始めちょらん」

 龍馬は黙っていた。

「じゃから、死ぬつもりでおまんになる気なんぞない。でも全部やめる必要もないじゃろ。嫌なら嫌言う。危なかったら逃げる」

「逃げられん時もある」

「その時は、おまんも逃げろ」

「わしも?」

「当たり前じゃ。一人だけ格好つけるな」

 龍馬はしばらく太郎を見ていた。

 やがて笑った。

「痛っ!」

「笑うな!」

「おまんが笑わせた!」

「わしのせいにするな!」

 二人の声が部屋に響いた。

     *

 少ししてから、龍馬が聞いた。

「そういや、お龍に会わんかったか」

 太郎の表情が止まった。

「……会うた」

「どこで」

「逃げる途中じゃ」

「無事じゃったか」

「うん」

「そうか」

 龍馬は安心したように息を吐いた。

 太郎は龍馬を見た。

 言うべきか迷った。

 お龍が自分を龍馬と思ったこと。

 自分も否定しなかったこと。

 大丈夫だと言ったこと。

 そして最後に、すまんと言って逃げたこと。

「龍馬」

「何じゃ」

「お龍には」

 太郎は少し言葉を探した。

「わしのこと、言うちゅうがか」

「いや」

 龍馬が答えた。

「何で」

「言う必要がなかったき」

「そうか」

「何じゃ」

「いや」

 太郎は目を伏せた。

「なら、わしからも言わん」

「何かあったがか」

「……何もない」

 龍馬は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

 太郎は胸の中で、先ほどのお龍の顔を思い出していた。

『よかった……』

 あの安堵を。

 自分は一瞬だけ受け取ってしまった。

 龍馬のものなのに。

「太郎」

「何じゃ」

「今日はありがとう」

「何もしてない」

「おったじゃろ」

 太郎は龍馬を見る。

 少し前なら、笑って返したかもしれない。

 だが今日は、ただ頷いた。

「……うん」

     *

 その夜、お龍は眠れずにいた。

 目を閉じると、あの廊下が浮かんだ。

 龍馬を見つけた。

 安心した。

 大丈夫だと言った。

 それから。

『……すまん』

 なぜ謝ったのだろう。

 そして、そのすぐあと。

 手から血を流した龍馬が現れた。

 混乱していただけなのかもしれない。

 暗かった。

 怖かった。

 何もかもが一度に起きた。

 だから、記憶がおかしくなっているのだろう。

 お龍はそう思うことにした。

 ただ。

 あの時。

 最初に会った龍馬は。

 いつもの龍馬より。

 少しだけ。

 静かだった。

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