第十章 才谷梅太郎
長崎の港には、土佐とも京とも違う音があった。
船板の軋む音、荷を下ろす男たちの掛け声、荷車の車輪が石畳を転がる音に、聞き慣れない異国の言葉まで混じっている。潮の匂いにも魚だけではなく、油や香辛料、それが何なのか太郎には分からない甘い匂いまで混ざっていて、港を歩いているだけで、知らない土地をいくつも通り抜けているような気がした。
太郎は足を止め、沖に浮かぶ船を眺めた。
「でかいのう」
「じゃろ。船はええぞ。あれだけ大きければ人も荷も積めるし、もっと遠くまで行ける。いつか、わしもあれくらいの船を――」
「その前に金じゃろ。おまん、子供の頃から船の話になると金のことだけ忘れるのう。船は『何とかする』だけでは買えんぞ」
龍馬は一瞬黙ったが、すぐに笑った。
「これから何とかするがじゃ。最初から金がないいうて諦めよったら、何も始まらんじゃろ」
「そこだけ聞けば立派じゃけど、おまんの場合ほんまに何とかする前に走り出すき怖いがじゃ」
二人は笑いながら歩き出した。
龍馬は船を見る。
太郎は荷を見る。
同じ港に立っているのに、目に入るものは少し違っていた。
沖の船を見ながら、あれならどこまで行けるのかと考えるのが龍馬なら、太郎は船から降ろされた木箱を見て、その中身がどこから来て、これから誰の手へ渡っていくのかを考えていた。
そんな違いを、太郎自身はまだ特別なものだとは思っていなかった。
*
「才谷さん、ちょうどよかった」
声をかけられ、太郎は足を止めた。
港近くの店で何度か顔を合わせた男だった。松吉という名で、乾物や油、日用品まで扱う小さな商いをしている。
「ちょっと見てもらいたいものがあるんです。この前、荷の話をしていたでしょう。才谷さんなら何か思いつくんじゃないかと思って」
「わしは商人じゃないぞ。見たところで、何も分からんかもしれん」
「それでもいいんです。俺らだけで話してると、同じところをぐるぐる回ってしまって」
そこまで言われ、太郎は松吉について店の奥へ入った。
いくつかの荷が積まれている。
「これを港の反対側にある店へ回したいんですが、向こうも欲しいとは言ってる。ただ、値が合わんのです。こっちもこれ以上安くすると、運ぶ金まで考えたらほとんど残らん」
太郎は荷の一つへ手を置いた。
「向こうは何でこれを欲しがっちゅう。足りんがか」
「ええ。向こうじゃ品が足りないらしくて」
「なら欲しいことは欲しいがじゃな。問題は値と、運ぶ金か」
「そういうことです」
太郎はしばらく黙って荷を見た。
それから、ふと顔を上げる。
「これを向こうへ運んだ人間は、帰りはどうする」
「帰り?」
「空で戻ってくるがか。人も船も使うがじゃろ。行きだけ荷を積んで、帰りは何も積まんのなら、その分までこの荷の値に乗るんじゃないがか」
松吉の顔が変わった。
「向こうから、こっちへ運べる物はあります。茶がある。こっちで欲しがる店もあるにはありますが……」
「なら、まずそこから聞いた方がええんじゃないか。こっちの荷をいくら安くするかばっかり考えよっても、話は進まんじゃろ」
松吉はしばらく太郎を見ていた。
「才谷さん、本当に商人じゃないんですか」
「違う言うちゅうじゃろ」
太郎は苦笑した。
*
話は、それだけでは終わらなかった。
松吉に連れられて相手の店へ行き、太郎は二人のやり取りを聞くことになった。
最初は黙っていた。
松吉が値を言えば、相手が高いと言う。松吉がこれ以上は下げられないと返せば、相手もこれ以上は出せないと言う。言葉こそ違うが、二人とも同じところを行ったり来たりしていた。
しばらく聞いていた太郎は、二人の言葉が途切れたところで口を開いた。
「ちょっと聞いてええか。おまんはこの荷を全部、今すぐ欲しいがか」
相手の男は意外そうに太郎を見た。
「全部と言われると……いや、半分あればしばらくは足ります。残りもいずれ欲しいですが、今すぐでなくてもいい」
「なら半分だけ先に運ぶいうのはできんがか。松吉さんも全部一度に売ろうとするき、向こうの出せる金と合わんようになっちゅうんじゃろ」
今度は松吉が腕を組んだ。
「半分なら、まあ……その値でも考えられる」
「ほんで、こっちには茶があると聞いた。帰りにそれを積んで、松吉さんの方で欲しがっちゅう店へ運べば、行って帰って両方に荷がある。わしは詳しい計算までは知らんけど、空で戻すよりはましじゃないがか」
二人が顔を見合わせた。
太郎はそこで黙った。
自分で話をまとめるつもりはなかった。どちらがどこまで譲れるのか、それは本人たちにしか分からない。
だから、また聞いた。
いつまでに要るのか。
どれくらいなら出せるのか。
茶はいくらなら売れるのか。
誰が運ぶのか。
何日かかるのか。
一つ聞くたび、二人が答える。その答えをもう片方へ返すと、今まで噛み合っていなかった話が少しずつ同じところへ集まり始めた。
やがて松吉が膝を叩いた。
「それなら、いけるかもしれん」
相手の男も頷く。
「こっちもそれなら構わん」
太郎は二人を見た。
「なら、最初からそう話せばよかったじゃろ」
松吉が笑った。
「それができなかったから、才谷さんを連れてきたんですよ」
太郎は返す言葉がなく、頭を掻いた。
*
店を出ようとした時、松吉に呼び止められた。
「才谷さん、これを」
差し出された銭を見て、太郎は眉を寄せた。
「いらんぞ。わしは荷を運んだわけでも、物を売ったわけでもない。ただ二人の話を聞いただけじゃ」
「だからですよ。俺たちは二人で何度も話して、それでもまとまらなかった。それを才谷さんが間に入ったら話が動いた。商売が一つ動いたんだから、その礼です」
「でものう……」
「取ってください。これで受け取ってもらえなかったら、次から相談しにくくなる」
そう言われると、太郎も断りづらかった。
仕方なく手を出す。
掌に置かれたのは、ほんのわずかな金だった。
龍馬が見れば、酒を飲んだら終わりだと言う程度のものだろう。
それでも太郎には、妙な重さがあった。
人に使われて受け取った金ではない。
坂本龍馬の代わりをしたことで受け取ったものでもない。
龍馬の名前も、顔も、何も関係ない。
才谷太郎が人の話を聞き、考え、その間に立ったことで生まれた金だった。
太郎は掌の銭をしばらく見つめてから、静かに握った。
*
夕方になって龍馬が戻ってくると、太郎は店先に腰を下ろし、まだ手の中で銭を弄んでいた。
「聞いたぞ。おまん、商売したらしいのう」
「もう知っちゅうがか。長崎の人間は、どうしてこう人の話を広めるがが早い」
「わしも驚いたぞ。朝は普通の太郎じゃったのに、夕方帰ってきたら商人になっちゅう」
「なってない。二人の話を聞いただけじゃ。向こうが勝手に礼じゃいうて金をくれた」
龍馬は太郎の握った手へ目を向けた。
「なら、初めて自分で稼いだ金みたいなもんじゃろ。どうするがじゃ」
太郎は少し考え、それから立ち上がった。
「酒でも飲むか。せっかくじゃき、今日はわしが出す」
龍馬の顔がぱっと明るくなる。
「ほんまか!」
「ただし一杯だけじゃぞ。おまんに任せたら、わしが今日もろうた分を全部飲みそうじゃ」
「そんなことはせん。せいぜい半分くらい――」
「やっぱり一杯だけじゃ」
龍馬が何か言い返そうとしたが、太郎は先に歩き出した。
その後ろから龍馬が追いつき、すぐ隣へ並んだ。
*
初めて自分で得た金で買った酒は、いつもと同じ味だった。
少なくとも太郎にはそう思えた。
ところが龍馬は一口飲むなり、妙に満足そうな顔をした。
「うまいのう。太郎に奢ってもらう酒が、こんなにうまいとは思わんかった」
「人の金で飲みゆうだけじゃろ。そんな嬉しそうな顔するな」
「違う違う。わしは、おまんが今日どうやってこの酒代を稼いだかを考えながら飲みゆうがじゃ。勝先生にも言われたし、グラバーも似たようなことを言うちょったけど、おまんはやっぱり人の話を聞くのが上手いんじゃろな。わしなら二人が揉めよったら、たぶん自分の考えを先に喋ってしまう」
「それは間違いない。おまんの場合、二人の話をまとめるつもりが三人目として喧嘩に入る」
「そこまで酷うないぞ」
「酷い」
龍馬は笑いながら杯を置いた。
太郎も笑ったが、やがて今日の二人の商人を思い出しながら、ゆっくり酒を口へ運んだ。
「でも、今日やってみて弥太郎が昔言いよったことを思い出した。物を見る、値を見る、人を見る。あれは確かにその通りじゃった。ただ、商売上手は話上手いうところだけは、少し違うかもしれん」
龍馬は杯を口へ運びかけたまま止め、面白そうに太郎を見る。
「ほう。あの弥太郎先生の教えに、太郎先生が物申すがか」
「先生はやめろ。わしは今日ほとんど自分から喋ってない。二人に何が欲しい、何が嫌じゃ、どこまでならできる、いつまでに要ると聞いちょっただけじゃ。そうしたら、二人が別々に喋りよった話の間に、道みたいなもんが見えてきた」
太郎は杯の中に残った酒を見つめた。
上手く説明できているか、自分でも分からない。
「話すことが大事じゃないとは思わん。でも、人が何を言いたいがか聞かんまま、こっちばっかり喋っても仕方ないじゃろ。じゃから商売上手いうがは、話上手だけじゃなくて……聞き上手でもあるがかもしれん」
龍馬はしばらく黙っていたが、やがて楽しそうに笑った。
「それ、今度弥太郎に言うてみい。たぶん『わしは聞くのも上手い!』いうて、そこから一刻くらい喋るぞ」
「一刻で終わればええけどのう」
今度は二人とも笑った。
笑いながら太郎は、ふと手元の杯を見た。
酒そのものは、いつもと変わらない。
それなのに今日は少しだけ違って感じる。
自分で得た金で買ったからなのか。
それとも。
今日一日、自分が坂本龍馬ではなかったからなのか。
その答えは、まだ分からなかった。
*
それから、太郎が一人で港を歩くことが少し増えた。
龍馬と別々に行動しようと決めたわけではない。ただ、港を歩いていると声をかけられることが増え、頼まれもしないのに人の話を聞いているうち、気づけば半日経っていることがあった。
「才谷さん、この前はどうも。今日も少し聞いてもらえませんか」
「聞くだけならええけど、わしに聞いたからいうて答えが出るとは限らんぞ。それでもええなら話してみい」
別の日には、荷を運ぶ男に呼び止められた。
「才谷さん、明日も港にいます? ちょっと相談したいことがあるんですが」
「たぶんおると思う。ただ、朝から龍馬に捕まったら分からん。あいつ、一度喋り始めたら人の予定を忘れるき」
そんなやり取りを重ねるうち、太郎自身も「才谷さん」と呼ばれて振り向くことに慣れていった。
誰も自分を坂本とは呼ばない。
龍馬と間違えているわけでもない。
ここでは、誰かの代わりではない。
「才谷さん」
また声がする。
太郎は自然に振り返った。
「おう。どうした」
そう答えたあとで、自分が何の迷いもなく振り向いたことに気づいた。
ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
*
ある日、龍馬が港へ行くと、太郎が何人かの男たちに囲まれていた。
最初は揉め事かと思ったが、近づいてみれば違った。
太郎は木箱の上に紙を広げ、男たちの話を聞いていた。
「全部一度に動かそうとするき話がおかしゅうなる。こっちは今要る分だけ先に運んで、残りは次にしたらええ。その間に帰りの荷を探したら、少なくとも空で戻ることはないじゃろ。ただ、わしは船賃の細かいところまでは知らんき、そこは実際に運ぶ人間に聞いた方がええ」
一人の男が何か答えると、太郎はすぐに自分の意見を返さず、今度は別の男へ尋ねた。
それを龍馬は少し離れたところから眺めていた。
太郎は龍馬に気づいていない。
「才谷さん、それならこっちはどうします?」
「それはわしに聞くより、そっちの人に聞いた方がええじゃろ。わしが決めることじゃない」
太郎がそう言うと、男たちはまた互いに話し始めた。
龍馬は少し笑った。
自分なら、きっと途中で口を挟んでいる。
あれをやれ。
これはどうだ。
それならこっちへ行けばいい。
思いついたものを全部、相手の前へ並べてしまう。
太郎は違う。
人の間に立っているのに、自分が真ん中に立とうとしない。
「才谷さん」
また誰かが呼ぶ。
太郎が顔を上げる。
その呼び方に、もう何の違和感もないようだった。
龍馬はその姿を見ながら、昔二人で考えた名前を思い出した。
才谷梅太郎。
最初は、人に間違えられないために作った名前だった。
時には坂本龍馬の代わりをするためにも使った。
半分冗談のように生まれた名前だった。
だが今、あの名前を呼んでいる人間たちは、坂本龍馬の代わりとして太郎を呼んでいるのではない。
目の前にいる男に用があるから呼んでいる。
そのことが、龍馬には少し嬉しかった。
*
男たちと別れた太郎が龍馬に気づいたのは、しばらくしてからだった。
「おったなら声かけたらええじゃろ。黙って見られゆう方は気持ち悪いぞ」
「忙しそうじゃったき邪魔せん方がええと思うたがじゃ。それに、なかなか様になっちょったぞ、才谷さん」
龍馬がわざとそう呼ぶと、太郎は少し嫌そうな顔をしたものの、以前のようにすぐ否定はしなかった。
二人は港沿いを歩き出した。
「最近ほんまにそう呼ばれるようになった。最初は変な感じじゃったけど、今は呼ばれたら普通に返事してしまう。太郎でも才谷でもええし、梅太郎も……まあ、おまんが勝手につけたところがあるき少し腹は立つけど、前ほど嫌ではない」
「勝手につけた言うな。おまんも気に入って、あの紙を懐へ入れたじゃろ」
「あれは梅が気に入っただけじゃ。おまんの字は今でも気に入らん」
「結局そこへ戻るがか」
龍馬が笑った。
太郎も笑った。
港の向こうで船がゆっくり動き始めていた。
二人はしばらく黙ってそれを眺めながら歩いた。
「でものう、太郎」
龍馬がやがて口を開いた。
「今日のおまん見よったら、やっぱり商売に向いちゅうんじゃないかと思う。わしは船を見たら、あれでどこまで行けるかばっかり考えるけど、おまんは船に何を積んで、誰が持ってきて、誰が買うかを見るじゃろ。たぶん、そういう違いなんじゃないか」
太郎はすぐには答えなかった。
海を見る。
港を見る。
積まれた荷を見る。
人を見る。
朝から働き続けている男たちがいて、その向こうには品物を待っている誰かがいる。今日ここへ来た船も、荷を下ろせばまた別の何かを積み、違う港へ向かっていく。
太郎は自分の手を見た。
「……そうか」
小さく呟いた。
「わし、向いちゅうがか」
龍馬は笑った。
「たぶんのう。まあ、おまんのことじゃき、わしが向いちゅう言うたくらいでは決めんじゃろ」
「当たり前じゃ。自分のことくらい自分で考える」
「それでええ。おまんは太郎じゃき」
太郎は横目で龍馬を見る。
「分かっちゅう」
それから二人はまた海の方を向いた。
龍馬も、それ以上は何も言わなかった。
*
その夜。
龍馬が眠ったあと、太郎は一人で帳面を開いた。
今日動いた荷のこと。
値。
人の名前。
次に運ぶもの。
誰が何を欲しがっているか。
どこでは余り、どこでは足りないのか。
一つずつ書いていく。
以前なら、龍馬と共有するための出来事を書く帳面だった。
坂本龍馬として誰に会ったのか。
何を話したのか。
どんな約束をしたのか。
だが最近は、それとは関係のない記述が少しずつ増えていた。
港で聞いた話。
荷の値。
船賃。
商人の名前。
太郎自身が気になったこと。
筆を走らせていた太郎は、やがて手を止めた。
今日の酒の席で龍馬と話したことを思い出す。
商売に向いている。
そう言われた。
グラバーにも似たようなことを言われた。
自分では、まだ分からない。
太郎は少し考えてから、帳面の隅へ小さく書いた。
――商いというもの、思うたより面白し。
墨を含ませ直す。
その下へ、もう一行。
――人の話を聞けば、物の流れが見えることあり。
そこで筆を止めた。
商人になる。
そんなことは書かなかった。
店を持つとも、船を持つとも書かなかった。
まだ何も決めていない。
ただ、自分にもこういうことができるのかもしれない。
その程度だった。
太郎は書いた二行をしばらく眺め、墨が乾いてから帳面を閉じた。
灯りを消す。
暗くなった部屋の向こうから、長崎の港の音が微かに聞こえていた。
明日も船が来る。
荷が降りる。
人が動く。
誰かが何かを欲しがり、別の誰かが何かを余らせる。その間には、物だけではなく、人の思いや金や約束まで行き来している。
太郎は布団へ入り、目を閉じた。
自分がその流れの中で何をする人間になるのか。
それはまだ、太郎自身にも分からなかった。




