第十一章 亀山社中
長崎には坂が多い。
港から少し離れれば道はすぐに傾き、石段を上がっても上がっても、その先にまた石段が現れる。土佐の山道とは違い、家々の間を縫うように坂が続くせいか、太郎には長崎の町そのものが山の斜面にしがみついているように見えた。
「龍馬、まだか」
「もうちょっとじゃ」
「さっきも聞いた」
「さっきよりは近うなった」
「当たり前じゃ。歩いちゅうがじゃき」
前を行く龍馬が笑った。
太郎は額の汗を拭いながら、その背中を睨んだ。
「おまん、わしをどこへ連れて行くつもりじゃ。港を見るいう話じゃなかったがか」
「港も見る。船も見る。人も見る。ほんで今日は、もう一つ見せたいもんがある」
「先に言え」
「先に言うたら面白うないじゃろ」
「わしは面白さを求めて坂を上りゆうわけじゃない」
龍馬はまた笑い、そのまま何段か先へ上がったところで振り返った。
太郎との距離が少し開いていることに気づくと、そこで足を止める。
昔なら、そのまま先へ行っていただろう。
太郎は何も言わず追いついた。
二人はまた並んで歩き始めた。
*
「ここじゃ」
龍馬が立ち止まった。
太郎は建物を見上げ、それから龍馬を見る。
「……何じゃ、ここ」
「亀山社中」
龍馬は、いかにも大層なものを見せるように胸を張った。
太郎はもう一度建物を見る。
そして、もう一度龍馬を見た。
「名前は立派じゃのう」
「名前だけみたいに言うな」
「いや、もっとこう……でかい屋敷か何かを想像した」
「これからでかくするがじゃ」
「また『これから』か」
太郎が呆れていると、中から声が飛んできた。
「龍馬さん! 帰ってきたなら手ぇ貸してください! 荷の数が合わん!」
「ほら。忙しそうじゃろ」
「自慢するところか」
二人が中へ入ると、そこには太郎が想像していたより多くの人間がいた。
紙を広げて何かを書いている者、荷の数を確かめている者、船の話をしている者。部屋の隅には縄や道具が置かれ、誰かの着物が無造作に掛けられている。
商家のようでもあり、武士の集まりのようでもあり、どちらとも違う。
太郎はしばらく黙って中を見回した。
「何するところじゃ、ここ」
「何でもする」
「一番信用できん答えじゃのう」
「船を動かす。物を運ぶ。商いもする。人もつなぐ。必要なら藩とも話す。外国人とも話す。日本のことも考える」
「やっぱり何でもじゃないか」
「じゃろ?」
「褒めてない」
その時、一人の男がこちらへ歩いてきた。
「龍馬さん、ちょうどよかった。さっきの荷なんですが――」
男は途中で止まった。
龍馬を見る。
太郎を見る。
もう一度、龍馬を見る。
「……龍馬さん?」
「おう」
「……どっちが?」
龍馬が吹き出した。
太郎は額を押さえた。
「やっぱりこうなるがか」
*
最初は笑い話で済んだ。
龍馬が太郎を幼馴染だと紹介すると、社中の者たちは驚きながらも面白がり、二人を横に並ばせては似ているだの似ていないだのと好き勝手に言った。
「黙っちょったら分からんぞ」
「いや、龍馬さんの方が落ち着きがない」
「歩き方も違う」
「目が違うんじゃないか」
「どこが?」
「分からん」
「分からんがか」
太郎は好きにさせていた。
こういうことには、もう慣れている。
ところが、龍馬が外へ出たあとも何人かが太郎を「龍馬さん」と呼び、そのたびに訂正することになった。
「龍馬は出ていったぞ。わしは太郎じゃ」
「ああ、すまんすまん」
しばらくして別の男が、
「龍馬さん、これ見てもらえます?」
「じゃから太郎じゃ」
「そうじゃった」
さらに少しすると、
「龍馬さん――」
「太郎じゃ!」
部屋に笑いが起こった。
太郎も怒っているわけではなかったが、このままでは一日中同じことを言う羽目になりそうだった。
その日の夕方、戻ってきた龍馬へ太郎は開口一番に言った。
「おまん、ここの連中には話してええんじゃないか」
龍馬の表情が少し変わった。
「何をじゃ」
「わしがおまんの代わりをすることがあるいう話じゃ。顔が似ちゅうだけなら笑い話で済むけど、今まで何度かおまんとして動いちゅう以上、知らんままの方が危ないじゃろ」
龍馬はすぐには答えなかった。
太郎も急かさない。
外では誰かが荷を運んでいるらしく、板の上を歩く足音が聞こえていた。
「……わしも、そう思いよった」
龍馬はやがて言った。
「ここは人も物も動く。わし一人の話なら黙っちょってもええけど、誰かがおまんをわしと思うて大事な話を渡したり、逆におまんに言うたつもりのことをわしが知らんかったら、いつか間違いが起きる」
「もう何度か起きちゅうけどのう」
「それを言うな」
龍馬は頭を掻き、それから太郎を見る。
「ただ、一度話したら戻せんぞ」
「分かっちゅう」
「おまんのことも話すことになる」
「それも分かっちゅう。わしは隠れて生きたいわけじゃない。必要な人間には知ってもらった方がええと思う」
その言葉に、龍馬は少しだけ目を細めた。
「なら、話そう」
*
その晩、龍馬は社中の主だった者たちを集めた。
太郎も隣に座った。
最初に龍馬が説明した。
土佐に幼馴染がいたこと。
顔がよく似ていること。
京で再会したこと。
人に間違えられたことから、何度かやむを得ず龍馬として人に会ったこと。
話している途中で、太郎は何度か口を挟みたくなったが、我慢した。
ところが龍馬が、
「まあ、簡単に言えば、わしが二人おるようなもんじゃ」
と言ったところで、さすがに太郎は止めた。
「違う。そこを簡単にするな」
皆の視線が太郎へ向いた。
太郎は一度息を吐いた。
「顔が似ちゅうだけじゃ。わしは坂本龍馬じゃない。才谷太郎いう別の人間じゃ。ただ、最初は間違えられたことで仕方なく龍馬の代わりをした。それが何度か続いて、龍馬として会うた人間もおるし、龍馬として聞いた話もある。じゃから、ここでそれを隠したままにする方が危ないと思うた」
一人が腕を組んだ。
「つまり、俺たちが昨日龍馬さんと話したと思っていた相手が、太郎さんだった可能性もある?」
「ある」
「一昨日は?」
「知らん。どこで会うた」
「港で」
「それはたぶん龍馬じゃ。わしは一昨日、松吉さんのところにおった」
別の男が笑った。
「ややこしいなあ」
「わしもそう思う」
太郎が答えると、また笑いが起きた。
だが龍馬は笑わなかった。
「じゃから、これからは大事な話をする時は、ちゃんと相手を確かめてくれ。顔だけで決めんことじゃ。ほんで太郎も、ここではなるべく太郎としておる。わしの代わりをさせるために連れてきたわけじゃない」
太郎は横にいる龍馬を見た。
その言い方が、少し嬉しかった。
「わしも、できればその方がええ。龍馬の真似するより、自分でおる方が楽じゃき」
「おまん、わしの真似が下手じゃしのう」
「おまんの真似を上手くなりたいと思うたことは一度もない」
「酷いのう」
今度は龍馬も笑った。
張りつめていた空気が少し緩んだ。
*
それから太郎は、亀山社中へ顔を出すことが増えた。
最初のうちは龍馬と一緒だったが、やがて一人で来ることも珍しくなくなった。
社中の者たちも、しばらくすると二人を間違えなくなった。
理由はそれぞれだった。
「龍馬さんは入ってくる時からうるさい」
「太郎さんはまず部屋を見る」
「龍馬さんは話の途中で立つ」
「太郎さんは話が終わるまで座っちゅう」
「龍馬さんは金の話をすると顔を逸らす」
「それは見分け方じゃなくて悪口じゃろ」
龍馬が抗議すると、部屋中が笑った。
太郎も笑いながら帳面へ目を戻した。
目の前には、運ぶ予定の荷が書かれている。
どこから来るのか。
どこへ送るのか。
どれくらいあるのか。
船にはどれだけ積めるのか。
誰が受け取るのか。
港で小さな商いの相談を受けていた時より、動く物も金も大きかった。
だが太郎には、不思議と同じものに見えた。
人が何かを欲しがる。
別の場所に、それを持っている人間がいる。
その間に海があり、船があり、金があり、人がいる。
規模が違うだけで、物が動く理由そのものは変わらない。
「これ、帰りは何を積むがじゃ」
太郎が尋ねると、一人が顔を上げた。
「帰り?」
「行きの荷しか書いてない。船を戻すなら何か積めるじゃろ。空で戻すより、その方がええんじゃないか」
男は帳面を覗き込み、それから別の者を呼んだ。
話が始まる。
太郎は口を挟まず、二人の話を聞いた。
必要なところだけ尋ねる。
誰が欲しがっているのか。
いつまでなのか。
量はどれくらいか。
それを聞いているうちに、また話の間に道が見えてきた。
「太郎さん」
「何じゃ」
「これ、やっぱり向いちゅうんじゃないですか」
太郎は少しだけ黙った。
少し前、長崎の港を龍馬と歩いた時に、龍馬に同じことを言われたのを思い出した。
「……最近、よう言われる」
「自分ではどう思うんです?」
太郎は帳面へ目を落とした。
「まだ分からん。ただ、嫌いではない」
それだけ答えた。
*
龍馬が亀山社中にいる時間は、次第に短くなっていった。
来ないわけではない。
むしろ顔を出せば、誰よりも大きな声で話し、誰かを捕まえては船の話をし、別の誰かには政治の話をし、気づけば三つの話を同時に進めている。
だが、長崎の外へ出ることも増えた。
京。
薩摩。
長州。
下関。
龍馬が動くたび、人が動いた。
手紙が来た。
返事が出た。
人の名が増えた。
太郎は時々、その様子を少し離れたところから見ていた。
昔、砂浜に「世界」と書いた少年がいた。
その頃の龍馬にとって世界とは、海の向こうにある何かだった。
今は違う。
海の向こうだけではない。
薩摩と長州。
幕府と諸藩。
外国と日本。
商人と武士。
船と陸。
人と人。
龍馬は、その全部の間を走ろうとしている。
相変わらず、先ばかり見ている。
けれど昔と違うのは、時々立ち止まることを覚えたことだった。
*
ある夕方、龍馬が久しぶりに社中へ戻ってきた。
戸を開けるなり、
「腹減った!」
と叫んだので、太郎は顔も上げずに言った。
「帰って最初に言うことがそれか」
「大事なことじゃろ。人間、腹が減ったら何もできん」
「朝飯食わずに海へ来よった子供が、よう言うわ」
龍馬は笑いながら太郎の隣へ腰を下ろした。
「何しゆう」
「荷の帳面。明日出す分と、戻りに積めそうな物を見よった」
「すっかり社中の人間みたいじゃのう」
「勝手に入れるな。わしは手伝いゆうだけじゃ」
「でも皆、太郎がおらんと困る言いよったぞ」
太郎の手が少し止まった。
「……誰が」
「皆じゃ」
「皆いう答えは信用できん」
「ほんまじゃ。わしがおらんでも何とかなるけど、太郎がおらんと荷の話が分からん言う奴までおった」
「それはおまんが帳面見んからじゃろ」
「そうとも言う」
龍馬は悪びれずに笑った。
太郎は呆れながらも、帳面へ視線を戻した。
だが、少ししてから小さく言った。
「……困る、か」
「何じゃ」
「何でもない」
太郎は筆を動かした。
必要とされる。
それは不思議な言葉だった。
龍馬の代わりだからではない。
顔が似ているからでもない。
才谷太郎がここにいると助かる。
そういう意味で誰かに必要とされることを、太郎はこれまであまり考えたことがなかった。
土佐では、生まれた場所で人の立つ位置が決まっているように感じていた。
だから出た。
自分がどこまで行けるのか見たかった。
その答えがここにあるとは、まだ思わない。
ただ少なくとも、ここでは誰も太郎に「おまえはここまでだ」とは言わなかった。
できることがあれば、やればいい。
分からないなら聞けばいい。
失敗したら、次を考える。
それだけだった。
太郎には、その単純さが心地よかった。
*
「太郎」
夜。
二人は社中を出て、坂を下っていた。
港の灯りが遠くに見える。
「何じゃ」
「おまん、ここ好きじゃろ」
太郎はすぐには答えなかった。
石段を一つ下りる。
もう一つ。
「……嫌いではない」
「またそれか」
「まだ好き言うほど長うおらん」
「面倒くさい男じゃのう」
「おまんが何でもすぐ決めすぎるがじゃ。船が欲しい、外国へ行きたい、日本を変えたいいうて、思いついたらその日のうちに走り出すじゃろ。わしは少し考えてから決めたい」
龍馬は笑った。
「それでええんじゃないか。わしが走って、おまんが考える。ちょうどええ」
「また二人で一人みたいなこと言い出したら殴るぞ」
「言わん言わん。おまんは太郎じゃ」
「ならええ」
二人は並んで坂を下った。
しばらくすると龍馬が、思い出したように言った。
「そういや今日、京から来た男に妙なこと聞かれたぞ」
「何を」
「この前、大坂におったかって」
太郎の足が少しだけ遅くなった。
「おまん、行ったがか」
「行ってない。その日は長崎におった」
「じゃろ。わしもそう言うた」
龍馬は特に気にした様子もなく歩いている。
太郎は少し考えた。
「……わしじゃな」
「たぶんのう。前におまんがわしとして会うた誰かが、話したがじゃろ」
「そうかもしれん」
それだけの話だった。
これまでも似たようなことは何度かあった。
京都でも、大坂でも、人の記憶の中で二人の足跡が混ざったことがある。
太郎は歩きながら、ふと自分たちの影を見た。
坂道に二つの影が伸びている。
灯りの位置が変わるたび、近づいたり、離れたり、時には一つに重なって見えた。
「龍馬」
「何じゃ」
「もう、わしがおまんの代わりするがは、ほんまに必要な時だけにしよう」
龍馬は少し驚いたように太郎を見たが、すぐに頷いた。
「わしもそう思う。寺田屋みたいなこともあったしのう。今はおまんにも、おまんのやることがある」
太郎はその言葉を聞きながら、前を向いた。
「やるこというほど、まだ何も決めてないけどのう」
「決めんでもええじゃろ。おまんは考えてから決める男じゃき」
「珍しく分かっちゅうじゃないか」
「何年一緒におると思うちゅう」
「途中、何年もおらんかったけどな」
「それを言うな」
太郎が笑った。
龍馬も笑った。
坂を下りきれば、長崎の港が広がっている。
船があり、荷があり、人がいる。
そのどこかから、
「才谷さん!」
と声がした。
太郎は立ち止まり、声のした方へ振り向いた。
「おう!」
少し離れたところで、荷を抱えた男が手を上げている。
「明日、ちょっと相談したいことがあるんです!」
「昼過ぎなら社中におると思う。急ぎなら朝でもええぞ!」
「分かりました!」
男は手を振って去っていった。
太郎も手を上げて返す。
隣で龍馬が笑っていた。
「何じゃ」
「いや。才谷さんも忙しそうじゃのうと思うて」
「誰のせいで忙しいと思うちゅう」
「わしのせいか?」
「半分くらいはな」
「残り半分は?」
太郎は港を見た。
船から荷が降りている。
誰かが数を読み上げ、別の誰かがそれを書き留めている。
明日になれば、また別の船が来る。
別の荷が動く。
別の誰かが困って、誰かに相談する。
太郎は少し考えてから答えた。
「……わしのせいじゃろ」
龍馬は何も言わなかった。
ただ、嬉しそうに笑った。
二人はまた歩き出した。
港へ向かって。
並んで。
同じ顔をした二人の男が、それぞれ別の名を呼ばれる町を歩いていた。




