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第十二章 追う者

 京には、人の噂が溜まる場所がある。

 茶屋。

 宿。

 酒屋。

 船着場。

 人が集まり、飯を食い、酒を飲み、誰かの名を口にする場所には、その本人が知らないうちにいくつもの姿が残っていく。

 坂本龍馬という男も、そうだった。

「妙だな」

 今井信郎は、目の前に置かれた紙から顔を上げた。

 部屋の向こうでは佐々木只三郎が黙って別の書付を読んでいる。

「何がだ」

「坂本です」

 今井は紙を指で押さえた。

「同じ頃に、違う場所で見たという話がある」

 佐々木はすぐには答えなかった。

 書付から目を離さないまま、先を促す。

「続けろ」

「京で会ったという者がいる。同じ頃、大坂で見たという者もいる。日にちが多少曖昧なものはありますが、それを差し引いても移動が早すぎる」

「人の記憶など、そんなものだろう」

「私も最初はそう思いました」

 今井は別の紙を引き寄せた。

「ところが、話を聞くと妙な違いがある。京で会った坂本はよく喋った。こちらが一つ尋ねると、話が三つになって返ってきたそうです。ところが別の場所で会った坂本は、ほとんど自分から喋らず、相手の話を聞いていたという」

 そこで佐々木が初めて顔を上げた。

「同じ人間でも、その日の気分くらい変わる」

「ええ。ただ、もう一つあります」

 今井は紙を裏返した。

「船の話をした時、片方は船そのものの話ばかりした。大きさ、速さ、どこまで行けるか。もう片方は積み荷と値、それを誰が買うかを聞いた」

「それを同じ男ではないと言いたいのか」

「まだ何とも。ただ、妙だと思っているだけです」

 佐々木は今井の顔をしばらく見ていた。

「なら、妙だというところから始めろ。最初から答えを決めれば、見えるものも見えなくなる」

「はい」

 今井は紙へ視線を戻した。

 坂本龍馬。

 その名の横へ、小さく印をつけた。

     *

 調べ始めると、妙な話は思っていたより多かった。

 ある宿では、坂本は夜遅くまで酒を飲みながら喋っていたという。

 別の宿では、同じ坂本がほとんど酒を飲まず、帳面へ何かを書いていたという。

 ある商人は、

「坂本さんは、こっちが話す暇もないくらいでしたよ」

 と笑った。

 ところが別の商人は、

「いや、よく話を聞く人でした。私が喋ってばかりだったくらいです」

 と言った。

 今井はどちらにも、

「顔は?」

 と尋ねた。

 二人とも答えは同じだった。

「坂本龍馬ですよ」

 今井は、それ以上何も言わなかった。

 顔が同じ。

 だが、印象が違う。

 それだけならまだ、人間の記憶の揺れで説明できる。

 問題は、場所だった。

 坂本龍馬が京にいたはずの日に、大坂で見たという話がある。

 大坂にいたはずの頃に、別の土地で会ったという者もいる。

 どれも決定的ではない。

 一日くらいなら日付を取り違えることもある。

 見たという者が別人を坂本と思い込んだだけかもしれない。

 しかし、一つ一つなら無視できる小さな食い違いが、数を増やすと別の形に見えてくる。

 今井は、集めた紙を畳の上へ並べた。

 日付。

 場所。

 誰が見たか。

 何を話したか。

 どんな男だったか。

 それらを見比べていると、同じ名の下に二つの人間が隠れているような気がしてくる。

 片方はよく喋る。

 先へ先へと話を進める。

 船を見れば、その船でどこへ行けるかを考える。

 もう片方は、よく聞く。

 相手の言葉を待つ。

 船を見れば、何を積んでいるかを考える。

 今井は腕を組んだ。

「……二人?」

 口にしてから、自分で首を振った。

 馬鹿馬鹿しい。

 同じ顔をした人間が、同じ名を使い、別々の場所を歩いている。

 そんな話を真面目に考える方がおかしい。

 紙を重ねようとした。

 その時、一枚の書付に目が止まった。

 坂本ではない名が書かれていた。

 才谷梅太郎。

 今井の手が止まった。

     *

「才谷?」

 佐々木はその名を口の中で転がすように繰り返した。

「はい。長崎の方で、そう名乗る男がいるらしい」

「坂本と何の関係がある」

「そこがまだ分かりません。ただ、坂本とよく似た男だという話があります」

「似た男?」

「顔が」

 佐々木は黙った。

 今井も黙った。

 部屋の外を誰かが通り過ぎる。

 足音が遠ざかってから、佐々木は静かに尋ねた。

「どの程度似ている」

「見た者によっては、同じ人間だと思うほど」

「なら坂本の変名ではないのか」

「その可能性もあります」

 今井はそこで一度言葉を切った。

「ただ、それでは説明できない話がある」

「何だ」

「同じ頃に、坂本と才谷を別々に見たという者がいる」

 佐々木の目が細くなった。

 今井は続けた。

「まだ伝聞です。見間違いかもしれませんし、話が混ざっているだけかもしれない。ただ、坂本龍馬という男の足取りを追うと、時々一人では説明しづらいところが出てくる。その穴に、この才谷という名を置くと……少しだけ形が合う」

「少しだけ、か」

「今のところは」

 佐々木はしばらく考えていた。

 やがて紙を指で叩く。

「坂本を追え」

「才谷ではなく?」

「両方だ。だが、別の人間だと決めるな。同じ人間だとも決めるな。坂本が才谷を名乗っているだけかもしれん。誰かが坂本の名を使っているだけかもしれん。顔が似ているという話そのものが間違いかもしれん」

「分かりました」

「まず事実だけ集めろ」

 今井は頷いた。

 紙を畳む。

 才谷梅太郎。

 まだ、それだけの名だった。

     *

 長崎では、その頃も太郎は荷の帳面を見ていた。

「これ、数が違うぞ」

「え?」

「こっちには二十と書いちゅうけど、昨日わしが見た時は十八じゃった。二つ増えたなら誰かが持ってきたはずじゃろ」

 社中の男が慌てて別の帳面を開く。

「ああ、これだ。今朝二つ追加されてる」

「ならこっちにも書いちょけ。船に積む時になって数が合わんいうて騒ぐことになるぞ」

「太郎さん、細かいなあ」

「細かいところで間違うから、あとで大きいことになるがじゃ」

 太郎はそう言いながら、自分でも少し笑った。

 以前なら、こんなことをして一日を過ごす自分など想像していなかった。

 龍馬について長崎へ来た。

 船を見た。

 荷を見た。

 人の話を聞いた。

 気づけば、帳面の数字が合わないことに腹を立てている。

 人生とは分からないものだと思う。

「才谷さん!」

 外から声がした。

 太郎は顔を上げる。

「誰じゃ」

「松吉さんです」

「今行く」

 筆を置いて立ち上がる。

 社中の男が笑った。

「忙しいですね、才谷さん」

「おまんらがわしを使うからじゃろ」

「でも来るでしょう」

 太郎は戸口で振り返った。

「……まあのう」

 そう答えて外へ出た。

     *

 松吉は港で待っていた。

「すみません、また相談がありまして」

「最近おまん、わしを便利な道具か何かと思うちょらんか」

「道具に酒は奢りませんよ」

「まだ奢ってもろうてないぞ」

「じゃあ今日、話がまとまったら」

「先に言うとくけど、わしがまとめるわけじゃないぞ。話を聞くだけじゃ」

「分かってます。それで十分です」

 二人は歩き出した。

 港にはいつものように荷が積まれ、船から降りた男たちが声を掛け合っている。

 太郎は松吉の話を聞きながら歩いた。

 今度は油の話だった。

 欲しい者がいる。

 売りたい者もいる。

 ただし、量が合わない。

 太郎は途中で何度か尋ねた。

 全部必要なのか。

 いつまでなのか。

 別の相手はいないのか。

 松吉が一つずつ答える。

 その話を聞きながら、太郎の頭の中で少しずつ人と物の位置が並び始める。

 その時だった。

「才谷さん」

 後ろから声がした。

 太郎は振り返った。

 知らない男が立っていた。

 年は太郎より少し上に見える。

 旅装だった。

「……わしか」

「ええ。才谷梅太郎さんでしょう」

 太郎は男の顔を見た。

 知らない。

「そうじゃけど。どこかで会うたか」

「いや。初めてです」

 男は笑った。

「坂本龍馬さんによく似ていると聞いていたもので、本当なのか見てみたくなりまして」

 太郎の表情から、わずかに笑みが消えた。

 松吉が横で二人を見比べている。

「龍馬を知っちゅうがか」

「名前だけです。有名な方ですから」

「どこで、わしのことを聞いた」

「長崎じゃ、才谷さんも有名ですよ」

 男はそう言って笑った。

 それ以上は何も言わず、

「お邪魔しました」

 と頭を下げ、そのまま人混みの中へ消えていった。

 太郎はしばらく、その背中を見ていた。

「知り合いじゃないんですか」

 松吉に聞かれ、太郎は首を振った。

「知らん」

「でも才谷さんの名前を知ってましたね」

「……そうじゃのう」

 太郎は男が消えた方を見る。

 もう姿はない。

 胸の奥に小さなものが残った。

 怖いというほどではない。

 ただ、気持ちが悪かった。

「どうしました?」

「いや。油の話じゃったな。続けてくれ」

 太郎は歩き出した。

 松吉もすぐ隣へ並ぶ。

 話を聞きながらも、太郎の頭の隅には先ほどの男が残っていた。

 才谷梅太郎。

 その名を知っていた。

 坂本龍馬に似ていることも。

 それだけなら、長崎で聞いたという説明でも不思議ではない。

 自分はもう、港で何人もの人間と話している。

 亀山社中にも出入りしている。

 噂になることくらいあるだろう。

 太郎はそう考えた。

 考えて、ひとまず胸の奥へしまった。

     *

「龍馬」

 その夜、太郎は宿へ戻ってきた龍馬へ昼間の話をした。

 龍馬は着物を脱ぎかけたまま手を止めた。

「知らん男が、おまんの名前を知っちょった?」

「名前だけなら別にええ。最近は港でも才谷で通っちゅうし、社中に聞けば誰でも知っちゅう。ただ、わしがおまんに似ちゅうことまで知っちょった。そこが少し気になった」

 龍馬は着物を掛け、太郎の向かいへ座った。

 いつものように笑って流すかと思ったが、そうはしなかった。

「どんな男じゃった」

「普通じゃ。旅の途中みたいな格好で、年はわしらより少し上くらい。京の言葉でも土佐の言葉でもなかった。顔は……」

 太郎は思い出そうとした。

「特に変わった顔でもない。だから余計覚えにくい」

「何を聞かれた」

「何も。才谷梅太郎か確認されて、坂本龍馬に似ちゅうと聞いたから見たかった言うただけじゃ」

 龍馬は少し考えた。

「それだけなら、本当に物好きな男かもしれん」

「わしもそう思う。ただ、前におまんも大坂におったか聞かれた言うちょったじゃろ。あれと続くと、少し気持ち悪い」

 龍馬は頷いた。

 太郎は続ける。

「寺田屋のこともある。おまんの名前は、前より目立つようになっちゅう。誰かが調べてもおかしゅうないと思う」

「わしも、そう思う」

 龍馬は腕を組んだ。

「けんど、今のところ何を調べられゆうかも分からん。わしのことなのか、おまんのことなのか、それとも本当にただの噂なのか。分からんうちから逃げ回るわけにもいかんじゃろ」

「逃げろとは言うてない。ただ、少しは用心せえいう話じゃ」

「おまんまで桂さんみたいなこと言うようになったのう」

「桂さんが正しいがじゃ。おまんは用心せん」

 龍馬は苦笑した。

 薩長の盟約が成ったあと、寺田屋で襲われた龍馬を案じ、桂小五郎からも用心するよう言われたことがある。龍馬自身、心配されていることは分かっているのだろうが、それで急に慎重な人間になれるなら、太郎も苦労はしていない。

「分かった。気をつける」

「ほんまか」

「ほんまじゃ」

「おまんの『ほんま』は信用できん」

「酷いのう」

 太郎はため息をついた。

 それから、少し迷って口を開いた。

「龍馬。しばらく、わしはおまんとして動かん方がええと思う」

 龍馬は黙って太郎を見る。

「前にも話したけど、今度はほんまにじゃ。わしが才谷太郎として知られるようになってきた。おまんは坂本龍馬として、前よりいろんなところへ行くようになった。今また混ぜたら、余計おかしなことになる」

 太郎はそこで一度言葉を止めた。

「それに、わしは今の方がええ」

「今?」

「才谷さん言うて呼ばれて、荷の話聞いて、社中で帳面見て、誰かが困ったら話聞く。まだこれを続けるかどうかも分からんけど……少なくとも、今はこっちの方がおもろい」

 龍馬の顔に、ゆっくり笑みが浮かんだ。

「そうか」

「何じゃ、その顔」

「いや。ええことじゃと思うて」

「笑うな」

「笑うじゃろ。おまん、土佐を出た時、自分がどこまで行けるか見たい言うちょったじゃないか。今、ちょっと見え始めたがじゃろ」

 太郎は返事をしなかった。

 そうなのかもしれない。

 だが、それを龍馬に言われると妙に腹が立つ。

「偉そうに言うな。おまんもまだ何になるか分からん男じゃろ」

「わしは坂本龍馬になる」

「もうなっちゅうわ」

 二人は顔を見合わせた。

 少し間があって、同時に笑った。

     *

 京では、今井がまた一枚の紙を手にしていた。

 長崎から届いた話だった。

 才谷梅太郎。

 亀山社中へ出入り。

 商人との付き合いあり。

 坂本龍馬と酷似。

 だが、坂本本人とは別に行動しているとの話あり。

 今井は何度も読み返した。

 前なら、ここで「坂本の変名」と考えただろう。

 だが最後の一行が邪魔をする。

 別に行動している。

 紙を持ったまま、佐々木の前へ行った。

「佐々木様」

「何だ」

「才谷の話が入りました」

 佐々木は紙を受け取った。

 静かに読む。

「どう思う」

 尋ねられ、今井は少し考えてから答えた。

「まだ断定はできません。ただ……もし、この話が正しいなら」

 今井は畳の上に以前の書付を並べた。

 京。

 大坂。

 長崎。

 それぞれの場所に残る、坂本龍馬の足跡。

 そして、才谷梅太郎という名。

「一人を追っていたから、話が合わなかったのかもしれません」

 佐々木は何も言わない。

 今井は二枚の紙を並べた。

 片方に、

 坂本龍馬。

 もう片方に、

 才谷梅太郎。

 そう書く。

「二人いると考えれば、合う話が増えます」

「増えるだけだ」

「はい」

「全部ではない」

「はい」

「なら、まだ答えではない」

 今井は頷いた。

 佐々木はしばらく二つの名を見つめていた。

「確かめろ」

「どうやって」

「同じ日に、別の場所で見つければいい」

 今井は顔を上げた。

 佐々木は淡々と続けた。

「噂ではなく、人の記憶でもない。同じ日に、坂本龍馬と才谷梅太郎が別々の場所にいる。それを確かめれば、少なくとも一つは分かる」

「二人いる」

「それだけだ。それ以上は、そのあと考えろ」

 今井は二つの名前を見た。

 坂本龍馬。

 才谷梅太郎。

 同じ顔を持つという二人。

 まだ、どちらが何者なのかは分からない。

     *

 その頃、長崎では雨が降り始めていた。

 太郎は社中の軒下に立ち、空を見上げた。

「降ってきたのう」

 隣に龍馬が立つ。

「走るか」

「嫌じゃ。待てば止むかもしれん」

「いつ止むか分からんぞ」

「おまんは何でも走れば何とかなると思いすぎじゃ」

「走った方が早い」

「濡れる」

「着けば乾く」

「その考え方が嫌じゃ」

 龍馬が笑った。

 太郎も笑う。

 雨は石畳を濡らし、坂を細い水が流れていく。

 港では荷を守るため、男たちが慌ただしく筵を掛けていた。

「あ」

 太郎が声を上げた。

「何じゃ」

「あの荷、まだ外じゃ。濡れたら松吉さんが怒る」

 太郎は軒下から飛び出した。

「おい、待て!」

 今度は龍馬が後ろから追う。

「おまん、濡れる言うたばっかりじゃろ!」

「荷は別じゃ!」

「何が別じゃ!」

 二人は雨の中を走った。

 太郎が先。

 龍馬が後ろ。

 港の男たちが、そんな二人を見て笑っていた。

「才谷さん!」

 誰かが太郎を呼ぶ。

「龍馬さん!」

 別の誰かが龍馬を呼ぶ。

 二人はそれぞれ違う方を向き、それぞれに返事をした。

 そして、また同じ荷へ向かって走った。

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