第十三章 もう一人の友
亀山社中の戸口に、一人の男が立っていた。
旅の埃が残る着物に、使い込まれた草履。背はさほど高くないが、日に焼けた顔には精悍なものがあり、じっとしていても、いつでも歩き出せるような気配をまとっている。眉は濃く、相手を見る目は鋭い。しかし、その目つきとは裏腹に、口元には人懐こそうな笑みが浮かんでいた。
「坂本龍馬はおるか」
男は戸口にいた社中の若者に尋ねた。
「あいにく龍馬さんは出かけちょります。いつ戻るかは聞いちょりませんが……中岡さん、急ぎの用ですか」
「いや、今日中に話せりゃええ。久しぶりに長崎まで来たき、顔でも見ておこうと思うただけじゃ。待たせてもらうても構わんか」
若者は快く男を招き入れた。
中岡慎太郎。
龍馬と同じ土佐に生まれ、国事に奔走している男だった。龍馬とは以前から面識があり、薩摩と長州の間を取り持つためにも、それぞれの立場で力を尽くしてきた。
中岡は部屋に入ると、そこに広がる光景を興味深そうに眺めた。
机には帳面が積まれ、壁際には船具が置かれ、何人もの男が荷のことや船の出入りについて話し合っている。武士の集まりとは思えないほど商いの話が多く、商家と呼ぶには人の身なりも話題も雑多だった。
「相変わらず妙なところじゃのう。ここへ来ると、武士が商人になったのか、商人が武士になったのか分からんなる」
中岡が笑うと、若者も笑った。
「龍馬さんに言わせりゃ、どっちでもええそうです」
「いかにもあいつの言いそうなことじゃ。昔から、世間が大事にしちゅう境目を、平気な顔で踏み越える男じゃった」
そう言いながら、中岡は部屋の奥へ目を向けた。
窓際に一人の男が座っている。
帳面を開き、何やら書き込みながら、向かいに座った男の話を聞いていた。時折顔を上げて質問をするものの、相手が答え始めると筆を止め、最後まで聞いている。
その横顔を見た中岡は、思わず声を上げた。
「何じゃ、龍馬。おまん、そこにおるじゃないか」
帳面を見ていた男が顔を上げた。
中岡はその顔を見て、笑いながら近づいた。
「人に留守じゃと言わせておいて、こんなところで帳面と睨めっこか。おまんが数字を数えゆうとは珍しいのう。よほど金に困ったか」
男は中岡を見上げた。
驚いたような顔をしたあと、少し困ったように笑う。
「……すまんが、おまんは誰じゃ」
中岡の足が止まった。
しばらく相手の顔を見つめ、それから眉を寄せた。
「何を言いゆう。中岡じゃ。中岡慎太郎。おまん、わしの顔を忘れたがか」
「いや、そうじゃのうて……」
男は帳面を閉じ、膝の上に置いた。
「おまんが誰か知らんいうことじゃ。わしは坂本龍馬じゃない」
中岡は一度、戸口の若者を振り返った。
若者は苦笑しながら頷いている。
中岡はもう一度、目の前の男を見た。
顔は龍馬だった。
少なくとも、そうとしか思えない。
けれど、どこか違う。
龍馬なら、自分を見つけた瞬間に大声を上げ、何か面白いことでも見つけたように笑っただろう。久しぶりに会えば、挨拶もそこそこに話を始め、こちらが何を言いに来たのか忘れさせることさえある。
目の前の男は、そうではなかった。
中岡が戸惑っていることを察し、こちらが納得するまで待とうとしている。
「……ほんまに龍馬じゃないがか」
「違う。才谷太郎いう。龍馬とは土佐におった頃からの幼馴染じゃ」
中岡はゆっくり息を吐いた。
「幼馴染……それで、そこまで似るもんかのう」
「わしに聞かれても困る。似ようと思うて似たわけじゃないき」
中岡はとうとう声を上げて笑った。
「そりゃそうじゃ! いや、驚いた。長崎へ来て龍馬が二人になっちゅうとは思わなんだ」
太郎もつられて笑った。
「わしは一人で十分じゃと思うちゅう。龍馬が二人もおったら、周りがたまらんじゃろ」
「違いない。日本中が騒がしゅうなる」
二人が笑っていると、社中の若者が茶を運んできた。
太郎は帳面を脇へ寄せ、中岡に座るよう勧めた。
「龍馬はしばらく戻らんかもしれん。急ぎの話なら誰かに伝えておくけど、そうでなければ茶でも飲んで待ったらどうじゃ」
「そうさせてもらおう。せっかくじゃき、おまんの話も聞きたい。龍馬とよう似ちゅう男が、どんな人生を歩いてきたのか気になる」
中岡はそう言って腰を下ろした。
太郎は茶碗を差し出しながら、少し首を傾げた。
「わしの話か。龍馬の昔話なら、いくらでもできるぞ」
「いや。龍馬の話も聞きたいが、今はおまんの話じゃ」
その言葉に、太郎はわずかに目を見開いた。
初めて会ったばかりの男が、龍馬のことではなく自分のことを聞きたがっている。
太郎は茶碗を置き、少し考えてから口を開いた。
*
「土佐を出た理由か」
太郎は窓の外へ目を向けた。
坂の向こうに、長崎の港が見えている。帆を下ろした船がいくつも並び、その間を小舟が行き来していた。
「大した理由ではないがじゃ。龍馬みたいに、世の中を変えたいいう大きな考えがあったわけでもない。ただ、土佐におると、自分がどこまで行けるか、生まれた時から決められちゅうような気がしてのう」
中岡は黙って聞いていた。
「誰が悪いいう話でもない。そういう世の中じゃと言われたら、それまでじゃ。けんど、わしはどうにも納得できんかった。自分が何をできる人間かも分からんうちに、おまんはここまでじゃと言われるのが嫌じゃった」
太郎は茶を一口飲んだ。
「それで土佐を出た。出たら何か分かるかと思うたけど、世の中そう簡単でもない。知らん土地へ行けば、知らんことばかりじゃ。食うために働いて、泊まるところを探して、時には騙されかけたこともある。それでも、土佐におった頃よりは自分の足で歩いちゅう気がした」
中岡は腕を組み、しばらく考えていた。
「……分かる気がするのう」
「おまんも土佐を出たがじゃろ」
「出た。けんど、わしの場合は武市先生のこともあったし、勤王の志もあった。何をするために出るか、少なくとも自分では分かっちゅうつもりじゃった」
中岡は茶碗を手に取りながら続けた。
「ただ、外へ出てみると、思うていたより世の中は広かった。土佐におる時には、藩の中のことが何より大きゅう見えたが、京へ出れば諸藩の思惑があり、長州へ行けば長州の苦しみがある。薩摩にも薩摩の考えがある。皆が同じ日本のことを考えゆうはずなのに、見ちゅう景色が違うがじゃ」
太郎は頷いた。
「それは商いでも似たようなもんじゃのう。売りたい者と買いたい者がおっても、互いの事情が分からんかったら話はまとまらん。片方だけ見ていても、何でうまくいかんのか分からんことがある」
「商い?」
「最近、少し手伝いゆう。港で荷の話を聞いたり、社中で帳面を見たり。まだ商人になると決めたわけじゃないけど、思うたより面白い」
中岡は興味を引かれたように身を乗り出した。
「ほう。龍馬も船や商いの話はようするが、おまんはまた違うところを見ちゅうようじゃのう」
「龍馬は船を見たら、どこまで行けるか考える。わしは何を積んで、誰が待ちゆうか考える。どっちが正しいいうことでもない。ただ、同じ船でも見るところが違うだけじゃ」
中岡はしばらく太郎を見ていた。
やがて、ゆっくり笑った。
「面白いのう。おまんら、顔は同じでも考え方は随分違う」
「子供の頃からじゃ。龍馬は先に走っていく。わしは後ろで何を見つけたがか聞く。あいつは面白いもんを見つけたら、説明する前に人を引っ張っていくから困る」
「それは今も変わらん。わしも何度引っ張り回されたか分からんぞ」
中岡は笑いながら膝を叩いた。
「この前も、真面目な話をしようと思うて会うたら、いきなり船の話を始めてのう。しまいには日本の将来を語り出した。こっちは最初に何を相談しようとしたか忘れそうになったわ」
「昔からそうじゃ。あいつと話す時は、先に用件を言わんと、話がどこへ飛んでいくか分からん」
二人は顔を見合わせて笑った。
初めて会ったばかりとは思えないほど、話が自然に続いていた。
*
話題が土佐へ戻ったのは、茶が二杯目になった頃だった。
「武市先生を知っちゅうか」
中岡が尋ねた。
太郎は茶碗を置いた。
「知っちゅう。子供の頃からの付き合いじゃ。龍馬ともよう一緒におった。道場で手合わせしたこともある」
「そうか……」
中岡の声が少し低くなった。
「わしも先生には随分世話になった。あの人がおらんかったら、今のわしはおらんかもしれん」
太郎は頷いた。
「半平太は昔から真っ直ぐじゃった。自分が正しいと思うたことを、最後まで曲げん男じゃったのう」
「そうじゃ。だからこそ、多くの者が先生についていった」
中岡は茶碗を見つめた。
「けんど、真っ直ぐなだけでは通れん道もある。今になって、そんなことを考える時がある」
太郎はすぐには答えなかった。
窓の外から、荷車の軋む音が聞こえてくる。
武市半平太の名を聞くと、太郎の頭にはいつも若い頃の姿が浮かんだ。竹刀を構えた時の隙のなさ。龍馬の軽口に眉をひそめながらも、どこか楽しそうだった横顔。自分たちより少し先を歩き、何かを教えようとしていた男。
その男がもういないということを、太郎は今でも時々不思議に思う。
「……わしはのう」
太郎はゆっくり口を開いた。
「半平太が間違うちょったとは思わん。けんど、ほかに道がなかったとも思いたくないがじゃ。あいつが生きちょったら、また違う考えに出会うこともあったかもしれん。腹を立てながらでも、人の話を聞くことがあったかもしれん」
中岡は顔を上げた。
「そうじゃのう」
「もう確かめようがないけどのう。じゃから、生きちゅうわしらは、まだいろんな道を考えてええと思う。あいつらのことを忘れんためにも、一つの考えだけに閉じこもらん方がええんじゃないか」
中岡は長い間、何も言わなかった。
やがて、深く息を吐いた。
「おまんは、不思議な男じゃのう」
「何がじゃ」
「わしは先生の話をすると、つい国のことや志のことばかり考えてしまう。けんど、おまんは先生が生きちょったら何を考えたか、どんな話をしたかを考えるんじゃな」
太郎は少し照れくさそうに笑った。
「わしにとっては、半平太は偉い先生になる前から半平太じゃったき。龍馬もそうじゃ。世間じゃ坂本龍馬いう男が何やら大きいことをしゆうらしいけど、わしにとっては昔からの龍馬じゃ」
中岡はその言葉を聞き、静かに頷いた。
「……そういう友がおるいうのは、ええことじゃ」
太郎は茶碗を持ち上げた。
「まあ、本人は時々面倒くさいけどのう」
中岡が吹き出した。
先ほどまでの沈んだ空気が、少しずつ和らいでいった。
*
夕方になって、龍馬が戻ってきた。
戸を開けるなり何やら大声で話していたが、部屋の奥に中岡を見つけると、驚いたように立ち止まった。
「おお、慎太郎! 来ちょったがか。何じゃ、先に言うてくれりゃ迎えに行ったに」
「迎えに来てもらうほどのことじゃない。おまんを待ちゆう間に、太郎と話しよったところじゃ」
「太郎?」
龍馬は二人を見比べた。
太郎の前には空になった茶碗があり、中岡はすっかりくつろいだ様子で座っている。
「何じゃ、もう知り合いになったがか」
「なったも何も、随分話したぞ。土佐のことも、武市先生のことも、商いのこともな。おまんの知らん話も聞かせてもろうた」
中岡がそう言うと、龍馬は太郎を見た。
「おまん、わしがおらん間に何を話したがじゃ」
「別に隠すような話はしちょらん。ただ、慎太郎は人の話を最後まで聞いてくれるき、話しやすかった」
「わしは聞かんみたいな言い方じゃのう」
「おまんは人の話を聞きながら、次に自分が何を喋るか考えちゅうじゃろ」
中岡が笑いながら口を挟んだ。
「それはわしも思う。龍馬、おまんがおらん方が話が進むこともあるぞ」
「二人がかりで言うことか!」
龍馬は大げさに肩を落とした。
その様子が可笑しくて、太郎も中岡も笑った。
龍馬は二人を交互に見ながら、やがて自分も笑い出した。
「まあ、ええわ。慎太郎がおまんと仲良うしてくれるなら、わしも嬉しい。太郎は口が堅いし、人の話をよう聞く。わしと違うて、落ち着いちゅうしのう」
「自分で言うがか」
「たまには褒めちょかんと、太郎はすぐ拗ねるき」
「拗ねたことなどないわ」
また笑いが起こった。
龍馬は二人の間へ腰を下ろし、ようやく本来の用件を尋ねた。
中岡は少し姿勢を正し、京で見聞きした諸藩の動きについて話し始めた。龍馬も表情を引き締め、時折質問を挟みながら聞いている。
太郎は二人の話を聞きつつ、空いた茶碗を片づけた。
政治の話は、まだ分からないことが多い。
けれど、中岡が話す時には、いつもその向こうに人の姿があった。
誰が何を考え、何を恐れ、何を守ろうとしているのか。
太郎には、その話し方が少し心地よかった。
*
それから幾日か過ぎた頃、太郎は港で中岡と再会した。
その日は朝から風が強く、海には小さな白波が立っていた。荷を運ぶ男たちは帽子を押さえながら行き来し、船の帆綱が風に鳴っている。
太郎は松吉と別れ、社中へ戻ろうとしていた。
「太郎!」
呼ばれて振り返ると、中岡が手を上げていた。
「おお、慎太郎。まだ長崎におったがか」
「明日には発つつもりじゃ。今日は船の都合を確かめに来た。おまんは仕事か」
「仕事いうほど立派なもんじゃない。松吉さんに頼まれて、荷の話を聞きに来ただけじゃ」
中岡は太郎の手にある帳面を見て笑った。
「随分板についてきたようじゃのう。初めて会うた時も帳面を見よったが、今日も帳面か」
「最近、これがないと落ち着かんようになってきた。龍馬には年寄りくさいと言われたけどのう」
「龍馬は帳面より先に走る男じゃき、比べても仕方ない」
二人は笑った。
中岡は港の方へ目を向け、少し考えるようにしてから言った。
「今日は龍馬はおらんのか」
「朝から出かけちゅう。いつ戻るかも聞いてない。何か用か」
「いや、特に急ぎの用はない。ただ、会えりゃ少し話そうと思うただけじゃ」
太郎は頷いた。
「そうか。なら、わしでよければ話くらい聞くぞ。龍馬がおらんと話ができんわけでもないじゃろ」
中岡は太郎を見た。
そして、ゆっくり笑った。
「そうじゃな。実を言うと、今日はおまんとも話したかったがじゃ」
「わしと?」
「この前の話が面白かった。武市先生のことも、商いのこともな。もう少し聞いてみたいと思うちょった」
太郎は少し驚いた顔をした。
それから、照れくさそうに笑った。
「変わった男じゃのう。わしの話なんぞ、龍馬みたいに面白うないぞ」
「面白いかどうかは、聞く方が決めることじゃ。おまんは人の話をよう聞くが、自分の話はあまりせんじゃろ。たまには聞かせてくれてもええと思うがのう」
太郎は中岡を見た。
中岡は穏やかな顔で待っている。
急かすでもなく、無理に聞き出そうとするでもない。
その様子を見ていると、太郎は自然に笑っていた。
「……腹、減っちょらんか」
「減っちゅう。朝からろくに食うてない」
「なら飯でも食おう。港の近くに、安うて旨いところがある。龍馬には教えたけど、あいつは量が少ないいうて文句を言いよった」
「それは楽しみじゃ。龍馬が文句を言うくらいなら、わしにはちょうどええかもしれん」
二人は港沿いの道を歩き始めた。
太郎が店の話をし、中岡が京で食べた飯の話をする。途中で中岡が土佐の味を懐かしがり、太郎も久しぶりに食べたいものをいくつか挙げた。
気づけば、政治の話も商いの話もしていなかった。
ただ、腹が減った二人の男が、旨い飯を探して歩いているだけだった。
*
京では、今井信郎が一枚の書付を読んでいた。
長崎から届いた報告には、坂本龍馬の周囲に出入りする人物の名がいくつか記されている。
亀山社中の者たち。
商人。
薩摩の関係者。
そして、中岡慎太郎。
今井はその名に目を止めた。
土佐を出た志士で、長州や薩摩とも関わりが深い男だという。
坂本龍馬との付き合いも長い。
もし坂本に似た男が本当にいるなら、中岡は何か知っているかもしれない。
今井は書付を持って佐々木只三郎のところへ向かった。
「佐々木様。坂本と親しい人物の名が、いくつか分かりました」
佐々木は報告を受け取り、目を通した。
「中岡慎太郎か。土佐の者だな」
「はい。坂本との関わりも深いようです。才谷という男のことを知っている可能性があります」
佐々木は紙を置いた。
「知っているかもしれん。だが、知っている者が正直に話すとは限らんぞ」
「承知しています」
「それに、坂本と才谷が別人だとしても、何のために同じ顔の男が動いているのか分からん。単なる偶然なのか、何かの企てなのか。そこを見誤るな」
今井は頷いた。
「まずは、誰がどちらを知っているのかを確かめます。坂本だけを追っていては、見落とすことがあるかもしれません」
佐々木はしばらく考え、静かに答えた。
「よかろう。ただし、余計な騒ぎは起こすな。人を調べる時ほど、こちらが何を知りたがっているかを悟られぬ方がいい」
今井は頭を下げた。
部屋を出ると、廊下には夕方の光が差し込んでいた。
今井は手にした書付を見下ろした。
坂本龍馬。
才谷梅太郎。
中岡慎太郎。
三つの名の間に、どのような関わりがあるのか。
まだ、分からなかった。
*
長崎の小さな飯屋では、太郎と中岡が向かい合って座っていた。
中岡は椀を置き、満足そうに息を吐いた。
「旨かった。龍馬が量に文句を言うたいうのも分かるが、味は申し分ないのう」
「じゃろ。あいつは腹が減っちゅうと、何を食うても足りん言うがじゃ。今度来たら、先に飯を二杯頼んでやろうと思うちゅう」
太郎が笑うと、中岡も笑った。
食事を終えたあとも、二人はすぐには立たなかった。
中岡は京へ戻ってからの予定を話し、太郎は長崎で聞いた商いの話をした。中岡は政治の動きが人々の暮らしにどんな影響を与えるかを語り、太郎は港で実際に困っている商人たちの話をした。
考え方は違う。
目指すところも違う。
それでも、二人の話は不思議と噛み合った。
「太郎」
中岡が茶碗を置いた。
「おまんと話しゆうと、わしが普段見落としちゅうものに気づかされる」
「わしも同じじゃ。慎太郎の話を聞くと、港で見ちゅうものが、もっと大きい世の中につながっちゅうんじゃと思う」
中岡は頷いた。
「国を変えるいうても、結局は人が暮らす世の中を変えるいうことじゃきのう。わしは時々、大きな話ばかりしすぎるのかもしれん」
「大きい話も必要じゃろ。わしには、そこまで考えることはまだできん。ただ、荷一つ動かすにも、何人もの人が関わっちゅう。それを忘れたら、うまくいくもんもいかんと思うだけじゃ」
中岡はしばらく太郎を見ていた。
「おまん、商人になったらええんじゃないか」
太郎は苦笑した。
「またそれか。最近、誰に会うても同じことを言われる」
「嫌なんか」
「嫌ではない。ただ、まだ決めとうない。せっかく土佐を出て、自分で歩けるようになったがじゃ。今度は自分が納得してから決めたい」
中岡は笑った。
「そうか。それなら急ぐことはない。わしはおまんが何になるかより、何を考えてそうなるかの方が気になる」
太郎はその言葉を聞き、少しだけ黙った。
やがて、照れくさそうに笑った。
「……慎太郎は、妙なことを言う男じゃのう」
「お互い様じゃ」
二人はまた笑った。
店を出る頃には、港の空が赤く染まり始めていた。
中岡は明日発つ船の話をし、太郎は次に長崎へ来た時も飯を食おうと誘った。
「次はわしが奢る」
中岡が言うと、太郎はすぐに首を振った。
「今日はわしが誘うたんじゃき、今日はわしが払う。次は慎太郎でええ」
「なら、次はもっと旨い店を探しておくか」
「高い店はやめてくれ。わしはまだ金持ちじゃない」
「わしもじゃ。安心せえ」
二人は笑いながら港へ向かった。
船の間を夕風が吹き抜け、どこかで男たちが仕事を終える声を上げていた。
別れ際、中岡は太郎の肩に軽く手を置いた。
「また会おう、太郎」
「おう。京へ戻っても、無茶するなよ」
「それは龍馬に言うてやれ」
「あいつには何度言うても効かんき、慎太郎に言うちゅうがじゃ」
中岡は声を上げて笑った。
「分かった。気をつける」
太郎も笑い、手を振った。
中岡が人混みの中へ消えるまで見送ってから、太郎は社中へ向かって歩き始めた。
港には、まだ仕事を続ける男たちがいた。
船の上では荷を片づける音が響き、遠くから誰かの笑い声が聞こえてくる。
太郎は歩きながら、今日の会話を思い返した。
龍馬の話もした。
土佐の話もした。
武市の話も、商いの話もした。
けれど、何より嬉しかったのは、中岡が自分に会いたいと言ってくれたことだった。
龍馬に用があったからではない。
坂本龍馬に似ているからでもない。
才谷太郎と話したかった。
それだけのことが、太郎には思いのほか嬉しかった。
社中へ戻ると、龍馬が帳面を広げたまま困った顔をしていた。
「おお、太郎。ちょうどよかった。この数字、どうも合わんがじゃ」
太郎は龍馬の向かいに腰を下ろし、帳面を覗き込んだ。
「どれ。……おまん、ここで同じ荷を二回数えちゅうぞ」
「ほんまか!」
「ほんまじゃ。慎太郎と飯を食うて戻ってきたら、またおまんの間違いを直すことになるとはのう」
龍馬は筆を置いた。
「慎太郎と飯を食うたがか」
「おう。港で会うたき、一緒に食うてきた。話もいろいろしたぞ」
「何の話じゃ」
「いろいろじゃ。おまんの話ばかりじゃないぞ」
太郎がそう言うと、龍馬は少し意外そうな顔をした。
それから、嬉しそうに笑った。
「そうか。そりゃええ」
太郎は帳面へ目を戻した。
「それより龍馬、この荷は明日出すがか。それなら、今のうちに数を直しておかんと、朝になって困るぞ」
「おう、頼む」
「頼むじゃない。おまんも覚えろ」
龍馬は笑いながら筆を取り直した。
太郎はその隣で、数字を一つずつ確かめていく。
窓の外では、長崎の町に灯りがともり始めていた。
坂を上る人の足音が遠くに聞こえ、港からは船をつなぐ縄の軋む音が届いてくる。
明日になれば、中岡はまた京へ向かう。
龍馬も、いずれどこかへ出かけるだろう。
太郎には、明日確かめなければならない荷があり、話を聞く約束をした商人もいる。
それぞれが自分の用事を持ち、それぞれの場所へ歩いていく。
太郎は帳面に書き込みながら、ふと顔を上げた。
「龍馬」
「何じゃ」
「慎太郎いう男、ええ奴じゃのう」
龍馬は筆を止め、太郎を見た。
そして、何だか自分のことを褒められたように笑った。
「じゃろ。わしもそう思う」
太郎は頷き、また帳面へ目を落とした。
その日の長崎の夜は、穏やかだった。




