第十四章 それぞれの道
慶応三年、一月。
長崎の港には、年が改まっても相変わらず多くの船が出入りしていた。
外国船の高い帆柱が空を区切り、その間を和船が行き交う。荷揚げ場では男たちが声を掛け合い、濡れた石畳の上を荷車が軋みながら進んでいた。
太郎は港の一角で、松吉と向かい合っていた。
「それで、向こうはどう言いゆうがじゃ」
「値を下げてくれれば、もう少しまとめて引き取れるそうです。ただ、こちらも仕入れの値がありますから、そう簡単には下げられません」
松吉は困ったように笑い、手にした帳面を開いた。
太郎は数字を眺めてから、荷揚げ場の方へ目を向けた。少し離れたところでは、二人の男が俵を積み直している。船の出入りが多い日は、荷を置く場所一つ決めるのにも手間がかかった。
「値を下げる前に、運ぶ回数を減らせんか聞いてみたらどうじゃ。一度に全部は無理でも、向こうが受け取れる日に合わせて船を回せば、倉に置く手間が減るかもしれん」
「なるほど。値の話ばかりしていましたが、運び方の方にも余地がありそうですね」
「わしもまだ分からん。向こうの都合を聞いてからじゃ。ただ、安う売ることだけ考えていたら、どこかで誰かが損をする。続けて商いするつもりなら、そこも考えんといかんじゃろ」
松吉は感心したように頷いた。
「才谷さん、だんだん商人らしくなってきましたね」
太郎は苦笑した。
「最近、皆がそう言う。けんど、わしはまだ人の話を聞いて、思いついたことを言いゆうだけじゃ」
「それができる人は、案外少ないんですよ」
松吉はそう言って帳面を閉じた。
太郎は返事の代わりに笑い、社中へ戻ろうとした。
その時、坂道を駆け下りてくる若者の姿が見えた。
「太郎さん! ここにおったがですか!」
若者は息を切らしながら立ち止まった。
「龍馬さんが探しちょります。戻ったらすぐ来てくれと」
「また何か間違うたがか。昨日も荷の数が合わん言うて騒ぎよったぞ」
「いや、今日は帳面じゃないようです。土佐藩のお偉いさんが来ちゅうとかで、龍馬さんも何やら落ち着かん様子で……」
土佐藩。
その言葉を聞いた時、太郎の表情が少し変わった。
「……誰が来ちゅうがじゃ」
「後藤象二郎いう人だそうです」
太郎はしばらく黙っていた。
松吉がその顔を見て、不思議そうに尋ねる。
「知っている方ですか」
「名前は知っちゅう。土佐におった頃からのう」
太郎は港の方を一度振り返り、それから若者に向き直った。
「分かった。戻ろう」
坂道を上りながら、太郎は久しぶりに土佐の空気を思い出していた。
*
亀山社中へ戻ると、龍馬は部屋の奥に座っていた。
いつもなら誰かと大声で話している男が、珍しく黙って書付を眺めている。もっとも、太郎が入ってくるとすぐに顔を上げ、いつもの笑みを浮かべた。
「おお、太郎。よう戻った」
「後藤象二郎が来ちゅうと聞いたぞ。おまん、今度は何を始めるつもりじゃ」
龍馬は書付を畳み、隣へ座るよう手招きした。
「始めるいうより、話をしようと思うちゅう。土佐藩もようやく外のことを考え始めたらしい。後藤が長崎へ来ちゅうなら、会わん手はないじゃろ」
太郎は腰を下ろしたが、龍馬のように気楽な顔にはなれなかった。
「後藤は、吉田東洋の甥じゃろ」
「そうじゃ」
「半平太らを追い詰めた側の人間でもある。おまん、そのことを忘れたわけじゃないろうな」
龍馬は太郎を見た。
その目から笑みが消えた。
「忘れちゃあせん。半平太のことも、以蔵のことも、わしらが土佐で見てきたこともな。けんど、後藤が土佐藩を動かせる立場におることも事実じゃ。あいつと話すことで何かが動くなら、昔のことだけで背を向けるわけにはいかんと思う」
太郎は膝の上で手を組んだ。
龍馬の言うことは分かる。
土佐藩は大きな藩だった。その力を使うことができれば、龍馬の描く構想も今までとは違う形で進められるかもしれない。
しかし、太郎には簡単に割り切れないものがあった。
土佐を出たのは、身分によって人の立つ場所が決まることに息苦しさを覚えたからだった。
そして武市も以蔵も、もう土佐へ帰ってこない。
「……おまんは、ようそんなふうに考えられるのう」
太郎が呟くと、龍馬は少し困ったように笑った。
「わしも何も感じんわけじゃない。ただ、後藤がどんな男かは、会うて話してみんと分からん。太郎、おまんがいつも言いゆうことじゃろ。人の話は最後まで聞け、いうて」
太郎は龍馬を見た。
「わしの言葉を、そんな時だけ都合よう使うな」
「都合がええ時に使わんと、言葉がもったいないじゃろ」
龍馬が笑ったので、太郎もつい口元を緩めた。
けれど、すぐに真顔へ戻った。
「龍馬。会うことには反対せん。ただ、後藤が何を欲しがっちゅうかは、よう考えた方がええ。向こうも土佐藩を背負うて来ちゅうがじゃ。おまんの話を聞くだけで帰るとは思えん」
「分かっちゅう。じゃから、わしも向こうの話を聞くつもりじゃ」
龍馬はそう答えると、机の上の書付を手に取った。
そこには会談の場所と時刻が記されていた。
清風亭。
長崎の町中にある料亭だった。
*
後藤象二郎は、部屋へ入ってきた坂本龍馬を立ったまま迎えた。
よく整えられた身なりに、落ち着いた物腰。若くして藩政の中枢に身を置いてきた男らしく、相手の顔を見ただけで容易に腹の内を見せるような人物ではなかった。
しかし、その目には好奇心があった。
後藤は龍馬を一度見渡すと、静かに笑った。
「坂本龍馬。名前は随分前から聞いちょったが、こうして向かい合うのは妙な気分じゃのう」
「わしもじゃ。土佐におった頃には、こんなところで後藤様と酒を酌み交わすことになるとは思わなんだ」
龍馬は遠慮なく腰を下ろした。
後藤はその様子を見て、少しだけ眉を上げた。
「相変わらず、藩の上下など気にせん男らしい」
「気にしちょったら、ここまで来られんかったかもしれん。もっとも、礼儀を知らんわけではないき、失礼があったら言うてくれ」
「言うても直す気はあるまい」
「話による」
後藤は思わず笑った。
酒が運ばれてくると、二人はしばらく長崎の様子について話した。
外国商人の動き。
諸藩が買い求める船や武器。
海運に必要な人材。
龍馬が各地で見聞きしたことを話すうちに、後藤の表情は少しずつ変わっていった。
最初は脱藩浪士の話を聞くつもりだったのかもしれない。
しかし、目の前の男は単に世の中への不満を語るのではなかった。
どこに船があり、誰が動かせるのか。
薩摩と長州が何を求めているのか。
外国と向き合うために、日本に何が足りないのか。
龍馬は自分の足で歩いてきた土地のことを、そこにいる人間の顔が見えるように話した。
「なるほど。おまんが各地を歩き回っちゅう理由が、少し分かった気がする」
後藤は酒を置いた。
「土佐藩にも、船や商いの力が必要じゃ。藩の中だけを見ていては、これからの世の中に取り残される。わしもそう考えちゅう。だが藩には藩の仕組みがあり、金の使い道にも人の動かし方にも、簡単には変えられん事情がある」
龍馬は頷いた。
「それは分かる。けんど、仕組みを守るために何もできんようになったら、本末転倒じゃろ。船を持つだけでは足りん。動かせる人間がおらんと、港に浮かべちょくだけになる」
「その人間を、おまんは持っちゅうと言うがか」
「少なくとも、船を動かそうとする連中はおる。亀山社中の者たちは、藩の名前だけで集まったわけじゃない。自分たちで何かを始めたいと思うて集まった男たちじゃ」
後藤はしばらく考えた。
「だが、その男たちを動かすには金が要る。船も要る。信用も要る。おまんらだけで、いつまでもやっていけるとは限らんぞ」
「じゃから、こうして後藤様と話しゆう」
龍馬は笑った。
後藤も口元を緩めたが、すぐに真剣な顔へ戻った。
「土佐藩の力を借りたいということか」
「力を貸し合いたい、いうことじゃ。土佐には土佐の持っちゅうものがある。わしらには、わしらが外で見つけてきたものがある。互いに使えるものを使えば、今までできんかったこともできるかもしれん」
後藤は龍馬を見つめた。
その言い方が気に入ったのか、あるいは気に入らなかったのか、表情からは分からなかった。
やがて、後藤は静かに口を開いた。
「坂本。おまんは土佐藩を利用するつもりか」
龍馬は少し考えてから答えた。
「そうじゃと言えば、そうかもしれん。けんど、後藤様もわしらを利用しようと思うちゅうじゃろ。そうでなければ、脱藩した男とわざわざ会わんはずじゃ」
後藤の目が細くなった。
部屋には一瞬、静けさが落ちた。
それから後藤は、腹の底から笑った。
「面白い。なるほど、おまんの言う通りじゃ。わしは土佐藩のために使えるものを探しゆう。おまんは自分の志を進めるために、藩の力を必要としちゅう。互いに腹の内を隠しても仕方ないか」
「その方が話は早いと思う」
龍馬も笑った。
しかし、二人がすぐに意気投合したわけではなかった。
後藤は土佐藩の権限と責任を譲らず、龍馬は社中の者たちの自由を簡単には手放さなかった。金のこと、船のこと、藩の名を使うこと、外の人間と交渉すること。
話し合うべきことはいくらでもあった。
それでも、二人は席を立たなかった。
互いに相手を信用しきってはいない。
だが、相手が必要な人間であることは認め始めていた。
*
清風亭での会談から数日後、太郎は龍馬に連れられて、後藤象二郎と顔を合わせることになった。
太郎自身は、あまり気が進まなかった。
後藤に会う用事があるわけではないし、土佐藩の役人に自分の顔を見せる必要も感じなかった。
けれど、龍馬は社中の仕事を説明する中で太郎の名前を出したらしく、後藤が興味を持ったという。
「おまん、余計なことを言うたがじゃないろうな」
道を歩きながら太郎が尋ねると、龍馬は笑った。
「余計なことは言うちょらん。荷の話に詳しい男がおると言うただけじゃ」
「それだけで呼ばれるとは思えんぞ」
「顔が似ちゅうことも、ちょっと話した」
「それが余計なことじゃ!」
龍馬は笑いながら先を歩いた。
太郎は呆れて後を追ったが、やがて龍馬が立ち止まり、二人は並んで歩き始めた。
後藤は二人を見るなり、さすがに驚いた。
龍馬と太郎を交互に見比べ、しばらく言葉を失っていたが、やがて感心したように息を吐いた。
「これは……話に聞くより似ちゅうのう。坂本、おまんが二人おると言われても、知らん者なら信じるじゃろ」
太郎は軽く頭を下げた。
「才谷太郎と申します。龍馬とは幼い頃からの付き合いですが、顔が似ちゅうだけで、別の人間です」
後藤はその挨拶を聞き、少し笑った。
「なるほど。顔は似ちゅうが、話し方は違うようじゃな。坂本なら、初めからそんな丁寧な挨拶はせん」
「龍馬と一緒にせんでください。わしまで礼儀知らずと思われたら困ります」
後藤が笑い、龍馬も抗議するように声を上げた。
ひとしきり笑ったあと、後藤は太郎に社中での仕事を尋ねた。
太郎は、港で商人の話を聞き、荷の動きを調べ、必要があれば帳面を確かめていると答えた。
後藤は思ったより熱心にその話を聞いた。
どのような荷を扱うのか。
誰が運賃を決めるのか。
商人たちの間で何が問題になっているのか。
太郎は分かることだけを答え、分からないことは分からないと言った。
後藤はその様子を見て、腕を組んだ。
「おまん、なかなか面白い男じゃのう。坂本のように大きな話はせんが、物が動くところをよう見ちゅう」
「大きな話は龍馬に任せちょります。わしは目の前のことを見落とさんようにするだけです」
後藤は頷いた。
「それも大事なことじゃ。船を動かすには、大きな構想を持つ者も要るが、荷を確かめる者も要る。どちらが欠けても、商いは成り立たん」
太郎は少し意外に思った。
土佐藩の重役が、荷の数や商人の都合について、ここまで真面目に話を聞くとは思っていなかった。
後藤は茶碗を置き、今度は龍馬に目を向けた。
「それにしても、これほど似た男が二人おるとはな。別々の土地で動けば、一人ではできんこともできそうじゃ」
太郎の手が止まった。
後藤は軽い調子で続けた。
「例えば、坂本が京で人に会うている間に、才谷が別の土地で坂本として話を進める。事情を知る者だけで使い分ければ、便利なこともあるじゃろ」
龍馬が何か言おうとしたが、その前に太郎が口を開いた。
「後藤様。それは、わしにはできません」
後藤は太郎を見た。
太郎は膝の上に置いた手を動かさず、落ち着いた声で続けた。
「以前、龍馬と間違えられたことで、仕方なく代わりを務めたことはあります。けんど、それは自分でも危ないことじゃと思うようになりました。相手が誰と話しゆうか分からんまま大事な約束をすれば、あとで困る者が出てきます。まして藩や政治の話なら、間違うたでは済まんでしょう」
後藤は何も言わずに聞いていた。
「それに、わしは龍馬の代わりをするために土佐を出たわけではありません。荷の話でも商いの話でも、わしにできることがあるなら考えます。けんど、その時は坂本龍馬ではなく、才谷太郎に頼んでもらいたいがです」
部屋が静かになった。
太郎は後藤から目を逸らさなかった。
後藤はしばらく考えたあと、ゆっくり笑った。
「……なるほど。坂本、おまんの幼馴染は、なかなか頑固じゃのう」
龍馬は嬉しそうに笑った。
「子供の頃からじゃ。わしも何度言うても聞いてもらえんかった」
「おまんが無茶ばかり言うからじゃろ」
太郎がそう返すと、後藤はまた笑った。
しかし、次に口を開いた時、その声は少し真剣になっていた。
「才谷。おまんの言うことは分かった。確かに、相手を欺いて約束を重ねれば、後で信用を失うことにもなる。商いを考える男なら、なおさら嫌うやり方じゃろう」
太郎は頷いた。
「はい」
「では、坂本の顔を使わずに、おまん自身の名で何ができるか。それを見せてもらおうか」
太郎は少し驚いた。
後藤は続けた。
「土佐藩が海へ出ようとすれば、今まで知らんかったことをいくらでも覚えねばならん。藩の名があるだけで船が動くわけではない。商人の話を聞ける者も必要じゃ。おまんが本当にそういう仕事に向いちゅうなら、顔が似ちゅうことなど関係ない」
太郎は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。ただ、まだ自分が何をするかは決めておりません。頼まれたことを何でも引き受けるとは言えませんが、話は聞かせてもらいたいと思います」
後藤は満足そうに頷いた。
「それでええ。考えずに何でも引き受ける者より、何を引き受けるか考える者の方が、信用できることもある」
龍馬は二人の顔を見比べ、楽しそうに笑った。
「何じゃ、後藤様まで太郎を気に入ったがか。わしの幼馴染じゃき、そう簡単には譲れんぞ」
太郎は呆れて龍馬を見た。
「わしは物じゃない。勝手に譲るだの何だの言うな」
後藤が声を上げて笑った。
その笑い声を聞きながら、太郎は少しだけ肩の力が抜けるのを感じていた。
後藤象二郎。
土佐藩の重役。
かつて自分たちとは遠いところにいた男。
その人物と、こうして一人の人間として話をしている。
土佐にいた頃には、考えもしなかったことだった。
*
春が近づくにつれ、亀山社中の空気は変わり始めた。
土佐藩との話が進み、これまで曖昧だった金や船の扱いについても、改めて考えなければならなくなった。
龍馬は各地へ出かけ、後藤との連絡を取りながら、社中の者たちとも話を重ねた。
皆が新しい形を歓迎しているわけではなかった。
土佐藩の支援を受けられることは心強い。
だが、藩の名の下に入ることで、今までの自由が失われるのではないかという不安もあった。
ある晩、社中の者たちが集まった席で、一人が口を開いた。
「龍馬さん。土佐藩の世話になるいうことは、これからは藩の命令で動くことになるんですか。俺たちは、ただ土佐へ戻るためにここへ集まったわけじゃないでしょう」
龍馬はその男を見た。
すぐに答えることはせず、皆の顔を一度見渡した。
「そうじゃ。わしらは土佐へ帰るためだけに船を動かしゆうわけじゃない。けんど、今のままではできんこともある。船を増やすにも、人を育てるにも、金と信用が要る。土佐藩の力を借りることで、それができるなら考える価値はあると思う」
別の男が尋ねた。
「藩の考えと、俺たちの考えが違うた時はどうするんです」
「その時は話す。話しても駄目なら、また考える。何でも言うことを聞くつもりはないが、最初から相手を敵と思うても何も始まらん。わしらが何をしたいのか、ちゃんと伝えることが大事じゃろ」
太郎は部屋の隅で、そのやり取りを聞いていた。
龍馬はいつものように大きな構想を語っていたが、以前とは少し違っていた。
皆の質問を最後まで聞き、時には言葉を選びながら答えている。
昔なら、自分の考えを話し始めたら止まらなかった男が、今は相手が何を心配しているのかを確かめようとしていた。
太郎は少し嬉しくなった。
龍馬も、変わっている。
先へ進むことばかり考えていた少年が、今は一緒に進む者たちの足元にも目を向けている。
話し合いが終わったあと、龍馬が太郎の隣へ座った。
「どう思う、太郎」
「何がじゃ」
「土佐藩の力を借りることじゃ。おまんは、あまりええ顔をせんかったろ」
太郎は少し考えた。
「今でも、何も心配しちょらんわけじゃない。藩の名がつけば、今まで自由にできたことが難しゅうなるかもしれん。けんど、逆に今までできんかったことができるようになるなら、それも悪い話ではないと思う」
龍馬は黙って聞いていた。
「ただのう、龍馬。ここにおる連中は、土佐藩のためだけに働きたいわけじゃない。それぞれ自分の考えがあって集まっちゅう。おまんはそこを忘れたらいかんぞ」
「分かっちゅう」
「それならええ。わしも、できることがあれば手伝う。ただ、わしはまだ自分の先を決めてない。そこだけは、もう少し待ってくれ」
龍馬は笑った。
「待つとも。おまんは昔から、急がせると余計動かん男じゃき」
「分かっちゅうなら、初めから急かすな」
二人は顔を見合わせて笑った。
*
慶応三年、四月。
亀山社中は、土佐藩の支援を受ける新しい組織へと改められた。
海援隊。
その名が初めて社中の者たちに伝えられた時、部屋にはしばらく静けさがあった。
龍馬は皆の前に立ち、新しい組織について説明した。
海運と通商を行うこと。
航海術や語学を学び、海の向こうにも目を向けること。
藩の支援を受けながらも、隊としての仕事を進めていくこと。
そして、自分が隊長を務めること。
話を聞いていた男たちは、それぞれ違う表情をしていた。
新しい名前に胸を躍らせる者。
これからの仕事を心配する者。
藩の支援を喜ぶ者。
以前の社中がなくなることを、少し寂しく思う者。
太郎はその顔を一人ずつ見ていた。
名前が変わったからといって、そこにいる人間が急に別人になるわけではない。
昨日まで荷の数を数えていた男は、今日も荷の数を数える。
船の修理をしていた者は、今日も船を確かめる。
帳面の数字が合わなければ、誰かが困った顔をする。
それでも、何かが変わったことは確かだった。
これまで一つの部屋に集まっていた男たちの仕事が、土佐藩という大きな力と結びつき、さらに遠くへ広がろうとしている。
龍馬は皆を見渡し、最後に言った。
「海援隊いう名前になっても、わしらがやることの根っこは変わらん。船を動かし、人をつなぎ、今まで行けんかったところへ行く。土佐藩の力も借りるが、わしら自身が何をしたいかを忘れたら、名前だけ立派になっても仕方ない。皆で、これから何ができるか考えていこうや」
誰かが頷いた。
別の誰かが笑った。
やがて、部屋のあちこちから声が上がった。
太郎はその様子を見ながら、静かに笑っていた。
龍馬はまた一つ、自分の考えを形にした。
子供の頃、砂浜に大きく「世界」と書いた男が、今は本当に海の向こうへ手を伸ばそうとしている。
太郎は、そのことが嬉しかった。
*
その日の夕方、太郎は一人で港へ出た。
新しい名前がついたからといって、港の景色が変わるわけではない。
船はいつものように揺れ、荷を運ぶ男たちは声を掛け合っている。
太郎は岸壁に腰を下ろし、海を眺めた。
土佐を出た頃、自分が何になるのかなど考えていなかった。
ただ、生まれた場所で決められた生き方以外にも、何かあるのではないかと思っていた。
今も、その答えが見つかったわけではない。
けれど、長崎へ来てから多くの人と出会った。
松吉のような商人。
亀山社中の仲間たち。
勝海舟や西郷隆盛。
桂小五郎。
グラバー。
そして、中岡慎太郎。
それぞれ違う考えを持ち、違う場所で生きている。
誰もが同じ道を歩いているわけではない。
太郎はそのことを、以前より自然に受け入れられるようになっていた。
「こんなところにおったがか」
振り返ると、龍馬が立っていた。
「皆が探しちょったぞ。新しい名前になった祝いじゃいうて、酒を飲む話になっちゅう」
「おまんら、何かあるたびに酒を飲もうとするのう」
「何もなくても飲むがじゃ。今日は理由があるき、なおさらじゃろ」
龍馬は笑いながら太郎の隣へ腰を下ろした。
二人はしばらく海を眺めていた。
港には夕日が差し、船の帆柱が長い影を落としている。
「龍馬」
太郎が口を開いた。
「海援隊になって、おまんはこれからどうするつもりじゃ」
龍馬は少し考えた。
「船を動かす。商いもする。人も育てる。けんど、それだけでは足りんと思うちゅう。薩摩も長州も土佐も、幕府も、それぞれ自分の立場で物を言いゆう。このままでは、いつまでたっても話がまとまらん。日本そのものの仕組みを考え直さんといかん時が来ちゅうと思う」
太郎は頷いた。
「慎太郎も、似たようなことを言いよった。ただ、あいつはおまんとは少し違う道を考えちゅうようじゃのう」
「慎太郎は慎太郎で、よう考えちゅう男じゃ。わしと意見が違うこともあるが、あいつが真剣に国のことを思うちゅうのは分かる。これからも、あいつとはいろいろ話さんといかん」
龍馬は海の方へ目を向けた。
「海で動く者も要る。陸で動く者も要る。皆が同じことをする必要はないがじゃ」
太郎はその言葉を聞き、少し笑った。
「そうじゃのう。わしも、ようやくそれが分かってきた気がする」
「おまんはどうする」
龍馬が尋ねた。
太郎は海を見た。
波が岸壁に当たり、小さな音を立てている。
「……まだ決めてない」
そう答えてから、少し考え直した。
「いや、何も決めてないいうのは、ちょっと違うかもしれん。わしは今、商いのことをもっと知りたい。船がどこへ行き、何を運び、誰がそれを待っちゅうのか。そういうことを考えるのが面白い。じゃから、しばらくはそれを続けてみようと思う」
龍馬は静かに頷いた。
「ええじゃないか」
「ただ、海援隊の人間になるかどうかは、もう少し考える。おまんの幼馴染じゃから入るいうのは、どうにも違う気がするき」
「分かっちゅう。おまんはおまんの考えで決めたらええ」
太郎は龍馬を見た。
その言葉を聞いて、少し安心した。
龍馬は立ち上がり、着物の裾を払った。
「さて、戻ろうや。皆が待ちゆう。今日はわしが隊長になった祝いじゃき、太郎も一杯くらい付き合え」
太郎は立ち上がりながら笑った。
「おまん、隊長になった途端に偉そうじゃのう。酒を飲ませるのも隊長の仕事か」
「皆が楽しく飲めるようにするのも、大事な仕事じゃろ」
「それなら、まずおまんが飲みすぎんことじゃ。酔うて帳面に変なこと書かれたら、明日困るのはわしらじゃき」
龍馬は笑いながら歩き出した。
太郎も隣へ並んだ。
坂道へ差しかかると、龍馬は少し先へ進みかけたが、太郎が港の方を振り返っていることに気づき、足を止めた。
「何じゃ、まだ何か気になるがか」
「いや。明日、松吉さんと話す約束があったのを思い出しただけじゃ。荷の運び方を変えたら、少しは安うできるかもしれんいう話でのう」
龍馬は太郎の顔を見て笑った。
「海援隊の祝いの日まで商いのことを考えゆうとは、おまんも随分変わったのう」
「おまんに言われとうない。子供の頃から海の向こうのことばかり考えよった男が、今は海援隊の隊長じゃろ」
二人は顔を見合わせた。
龍馬が笑い、太郎も笑った。
坂を上り始めると、町の方から賑やかな声が聞こえてきた。
新しい名を得た海援隊の仲間たちが、二人を待っている。
龍馬には、これから進めたい大きな構想がある。
中岡には、中岡の考える国の形がある。
そして太郎にも、まだ形にならないながら、自分の手で確かめてみたいものができ始めていた。
太郎は坂道を上りながら、隣を歩く龍馬に尋ねた。
「ところで、今日の酒は誰が払うがじゃ」
龍馬は一瞬、足を止めた。
「……それは、皆で相談しようかのう」
太郎は呆れて笑った。
「隊長になっても、そこは変わらんがか」
龍馬は悪びれる様子もなく笑い、太郎の肩を軽く叩いた。
二人は笑いながら、仲間たちの待つ町へ戻っていった。




