第十五章 沈んだ船
海援隊という新しい名がついてからも、長崎の港の朝は変わらなかった。
夜明けとともに船乗りたちが動き始め、荷を積んだ小舟が岸壁と沖の船を行き来する。帆柱の間を抜けてくる風には潮の匂いが混じり、石畳には前夜の雨がまだ残っていた。
太郎はいつものように港へ出て、松吉と荷の受け渡しについて話していた。
海援隊の名が使われるようになってから、仕事の相談は少しずつ増えていた。土佐藩の支援を受けることになったと聞き、それまで様子を見ていた商人たちが声を掛けてくるようになったのである。
ただし、名前が変わったからといって、すべてが順調に進むわけではなかった。
「信用してもらえるようになったのはありがたいんですが、その分、約束も増えましたからね」
松吉は帳面を閉じながら苦笑した。
「今までは無理じゃと言えば済んだ話でも、土佐藩が後ろについているなら何とかなるだろうと言われるんです」
太郎は頷いた。
「名前が大きゅうなると、できることも増えるけど、できんと言いにくうなるがじゃな」
「そういうことです。商いというのは、信用がつけば楽になるかと思ったら、今度はその信用を守る仕事が増えるんですよ」
太郎はその言葉を面白く思った。
信用は、何かを手に入れれば自然についてくるものではない。約束を一つずつ守ることで生まれ、守り続けなければ失われる。
松吉と別れたあとも、その言葉が頭に残っていた。
坂道を上って海援隊の詰所へ戻ると、戸口に人が集まっていた。
いつもなら賑やかな男たちが、誰も笑っていない。
太郎は足を速めた。
「どうしたがじゃ」
若い隊士が振り返った。
顔色が悪かった。
「太郎さん……いろは丸が、沈んだそうです」
太郎は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
いろは丸。
海援隊が借り受け、運航していた船だった。
「沈んだ……? どういうことじゃ。嵐にでも遭うたがか」
「紀州藩の船とぶつかったそうです。明光丸いう、大きな船と……」
若者はそこで言葉を詰まらせた。
太郎はその肩越しに部屋の中を見た。
机の上には書付が広げられ、何人もの男が集まっている。龍馬はその中心に立ち、届いた知らせを読んでいた。
太郎が近づくと、龍馬は顔を上げた。
その表情は険しかったが、声は落ち着いていた。
「太郎。ちょうどええところへ戻った。いろは丸が備後の鞆の浦の近くで明光丸と衝突した。船は沈んだが、乗っちょった者たちは助かったそうじゃ」
太郎は大きく息を吐いた。
「……そうか。人は助かったがじゃな」
「おう。それだけは何よりじゃ」
龍馬は書付を机に置いた。
「けんど、船は戻らん。荷も失うた。どういうぶつかり方をしたのか、どちらにどんな責任があるのか、確かめんといかん」
太郎は書付へ目を落とした。
短い報告の中に、沈没までの経緯が記されている。
しかし、そこに書かれているのは、まだ事件の一部分にすぎなかった。
「龍馬。乗っちょった者たちから、直接話を聞けるがか」
「聞くつもりじゃ。わしも現地へ向かう。紀州藩を相手に話をせんといかんきのう」
太郎は頷いた。
「なら、わしにも手伝わせてくれ。船のことは詳しゅうないけど、荷の記録なら確かめられる。誰が何を積み、どこへ運ぶつもりじゃったのか。分かるところから調べたい」
龍馬は太郎を見た。
それから、静かに笑った。
「頼む。おまんがおってくれると助かる」
太郎はその言葉を聞き、すぐに帳面を探し始めた。
船が沈んだという事実は変えられない。
だが、まだ確かめられることはある。
そう思った。
*
備後の鞆の浦では、衝突をめぐる話し合いが始まっていた。
紀州藩の明光丸は、いろは丸よりはるかに大きな船だった。
小さな船が大きな船とぶつかれば、どちらが大きな損害を受けるかは想像に難くない。
しかし、損害の大きさと責任の所在は、必ずしも同じではなかった。
龍馬は海援隊の者たちとともに、衝突時の状況を確かめた。
船がどちらへ進んでいたのか。
どのような灯火を掲げていたのか。
互いの船をいつ認めたのか。
衝突を避けるために、どのような動きをしたのか。
乗組員たちの話を聞くうちに、事故の輪郭は少しずつ見えてきた。
けれど、話は簡単ではなかった。
紀州藩にも言い分がある。
海援隊にも言い分がある。
それぞれが自分たちの見たことを語っても、同じ出来事が同じように見えていたとは限らない。
龍馬はそのことを承知していた。
相手が紀州藩だからといって引き下がるつもりはなかったが、ただ声を荒らげれば解決するとも思っていなかった。
船を動かす以上、海の上には守るべき決まりがある。
藩の大小や身分の上下だけで責任を決めていては、これから先、誰も安心して海を渡れない。
龍馬はそう考えていた。
一方、太郎は少し離れた場所で、乗組員たちの話を聞いていた。
最初に声を掛けたのは、若い船乗りだった。
日に焼けた顔には疲れが残り、袖口には擦り切れた跡があった。
「怖かったじゃろ」
太郎が尋ねると、若者は苦笑した。
「怖いなんてもんじゃありません。ぶつかった時は、船がひっくり返るかと思いました。水が入ってくるのを見て、荷のことなんか考えられませんでしたよ」
「それでええ。命が助かっただけでも何よりじゃ」
太郎はそう答え、少し間を置いてから続けた。
「無理に思い出さんでもええ。ただ、落ち着いたら、何があったか教えてくれんか。誰かを責めるためじゃない。わしらも、何を失うたのか、何が起きたのかを知っておきたいがじゃ」
若者は太郎の顔を見た。
「坂本さん……では、ないんですよね」
「違う。才谷太郎じゃ。顔が似ちゅうき、よう間違えられるけどのう」
太郎が笑うと、若者も少し笑った。
それから、衝突した時のことを話し始めた。
太郎は途中で口を挟まず、聞いたことを帳面に書き留めていった。
同じ話を別の乗組員にも聞いた。
ある者は船の揺れをよく覚えていた。
ある者は大きな音を覚えていた。
別の者は、誰がどこにいたかを詳しく話した。
細かなところでは、記憶が食い違うこともあった。
太郎はそれを無理に一つの話へまとめようとはしなかった。
分からないところは分からないまま書き残した。
そして、誰の話にも共通していたことを、別の頁にまとめた。
話を聞き終えた時には、帳面の数頁が文字で埋まっていた。
*
積み荷について調べ始めると、太郎は思っていた以上に難しい問題にぶつかった。
船に何を積んでいたのか。
それぞれどれほどの値がつくのか。
どこまでが確かな記録で、どこからが後になって申し立てられたものなのか。
関係者の話は必ずしも一致しなかった。
太郎は帳面を広げ、記録の出どころを一つずつ確かめた。
誰が書いたものか。
いつ書かれたものか。
実際に荷を見た者がいるのか。
その中で、ある商人の言葉が太郎の胸に残った。
男は失われた荷の話をしながら、何度も同じ場所を指さしていた。
「この荷は、ただ売ればええいうもんではなかったんです。向こうでは、届くのを待っている者がおりました。約束した日に届かんとなれば、先方も次の仕事ができません」
太郎は頷いた。
「それは分かる。荷が届かんことで、ほかの仕事にも影響が出るがじゃな」
男は少し苛立ったように息を吐いた。
「値段を聞かれるのは仕方ありません。賠償の話をするなら、いくらの損か確かめんといかんでしょう。けど、荷の値段だけ分かればええんですか。船が沈んだことで困るのは、荷を持っていた者だけじゃありません」
太郎は筆を止めた。
男の言うことは、もっともだった。
これまで太郎は、荷をどう運べば無駄が少ないか、どこへ運べば商いがまとまるかを考えてきた。
荷が動くことを、面白いと思っていた。
だが、荷が動かなくなった時のことを、十分に考えたことはなかった。
「……すまん。わしは値を確かめることばかり考えちょった」
太郎はそう言って、男に向き直った。
「待っちゅう人のことも聞かせてくれんか。賠償の額にそのまま入れられるかは分からん。けんど、何が起きたのかを知るためには、そこまで聞いておきたい」
男は太郎を見つめた。
それから、ゆっくり話し始めた。
太郎は筆を動かした。
数字を書き、名前を書き、日付を書いた。
そして、帳面の端に小さく書き添えた。
――荷を待つ者あり。
それは金額ではなかった。
しかし、太郎には忘れてはならないことのように思えた。
*
龍馬が太郎の帳面を見たのは、その日の夜だった。
宿の一室で、二人は向かい合って座っていた。
机の上には書付が積まれ、灯火が紙の端を淡く照らしている。
龍馬は一頁ずつ目を通し、時折指を止めた。
「よう聞いてきたのう。これだけの人間に話を聞くのは、骨が折れたじゃろ」
「皆、疲れちゅうきのう。思い出したくないこともあったろうし、無理には聞けんかった。ただ、話してくれる者の言葉は、なるべくそのまま残したかった」
龍馬は頷いた。
「それでええ。人の記憶は、どうしても違うところが出る。最初から話を合わせようとしたら、かえって分からんなる」
太郎は少し安心した。
それから、積み荷の頁を開いた。
「龍馬。荷のことなんじゃが、まだ確かめきれんものがある。帳面に書かれちゅうものでも、実際に積まれたかどうか、証言が足りんものがあるき。わしは、分からんものを分かったことにはしたくない」
龍馬は真剣な顔で聞いていた。
「それは大事なことじゃ。こちらが損をしたのは確かでも、確かめられんことまで確かじゃと言えば、向こうに突かれる。交渉では、言うべきことを言うためにも、足元を固めんといかん」
太郎は頷いた。
少し迷ってから、昼間の商人の話をした。
荷が届くのを待っていた人々のこと。
荷を失った者だけではなく、その先にも困る者がいること。
そして、自分がこれまで、商いの面白さばかりを見ていたこと。
「龍馬。船が沈んだいうことは、船一隻がなくなっただけじゃないがじゃ。あの船が運ぶはずじゃったものを待ちゆう人もおる。わしは、その人らのことも忘れとうない」
龍馬は黙って太郎を見ていた。
しばらくして、静かに答えた。
「そうじゃのう。わしは紀州藩との話をどう進めるか、そればかり考えちょった。もちろん、それもせんといかん。けんど、何のために交渉するのかを忘れたら、ただ相手に勝つための話になってしまう」
龍馬は帳面へ目を落とした。
「船を動かすいうのは、人を動かすことでもある。太郎、おまんの話を聞いて、改めてそう思うた」
太郎は少し笑った。
「わしも、まだ分からんことばかりじゃ。荷の値段を確かめるだけでも、こんなに難しいとは思わなんだ」
「分からんことを分からんと言えるのは、悪いことじゃない。そこから調べればええ」
龍馬は帳面を閉じた。
「それに、おまんが調べたことは役に立つ。誰が何を見て、何を覚えちゅうか。そういう記録があれば、話し合いも進めやすい」
太郎は帳面を受け取った。
「なら、もう少し調べてみる。明日、別の者にも話を聞く約束をしたき」
「頼む。ただし、無理はするなよ」
太郎は龍馬を見た。
「おまんにだけは言われとうない」
龍馬は笑った。
太郎も笑ったが、机の上の書付を見つめる龍馬の横顔には、いつもより深い疲れが見えた。
大きな相手と交渉するというのは、簡単なことではない。
太郎はそのことも、少しずつ分かり始めていた。
*
交渉は鞆の浦だけでは終わらなかった。
長崎へ場所を移してからも、紀州藩と海援隊の間では話し合いが続いた。
龍馬は海上での航行の決まりや、衝突の際の責任について議論を重ねた。
相手は大藩だった。
紀州藩にも面目があり、簡単に責任を認めるわけにはいかない。
海援隊も、沈んだ船と失われた荷について、黙って引き下がることはできなかった。
その間、後藤象二郎も土佐藩の立場から交渉に関わった。
後藤にとって、これは単なる船の事故ではなかった。
土佐藩が支援するようになったばかりの海援隊が、紀州藩を相手にどのような対応をするのか。
その結果は、海援隊だけでなく、土佐藩の信用にも関わってくる。
後藤は龍馬から話を聞くたびに、相手の出方とこちらの主張を慎重に見極めた。
「坂本。おまんの言い分は分かる。だが、相手にも藩の面目がある。正しいことを言うだけで話がまとまるなら、苦労はせん」
後藤はそう言いながら、机の上の書付を指さした。
「こちらが譲れんところと、話し合いの余地があるところを分けて考えんといかん。すべてを一度に認めさせようとすれば、相手も引くに引けんようになる」
龍馬は頷いた。
「分かっちゅう。けんど、紀州藩が大きいからいうて、こちらの損を小さく扱われるのは困る。船を動かす者同士なら、藩の大小に関係なく、責任を考えるべきじゃ」
「その考えは悪くない。むしろ、これからの世には必要になるじゃろう。だが、必要な考えを相手に受け入れさせるには、言い方も順序もある」
後藤は少し笑った。
「おまんは人を動かすのが上手いが、時々、相手が動く前に先へ行ってしまう」
龍馬は苦笑した。
「それは太郎にもよう言われる」
「才谷か。そういえば、あの男も今回の件を調べちゅうそうじゃな」
「おう。乗組員や商人の話を聞いて、記録をまとめちゅう。わしには見えんところまで、よう調べてくれちゅう」
後藤は興味を示した。
「その帳面を、一度見せてもらえんか」
龍馬は頷いた。
「本人に聞いてみよう」
*
太郎が後藤の前に帳面を広げた時、後藤は最初から最後まで丁寧に目を通した。
途中で何度か質問をしたが、太郎が答えるまで急かすことはなかった。
積み荷の記録については、特に細かく尋ねた。
「この品は、実際に船へ積んだことを確かめられちゅうがか」
「そのように話す者はおります。ただ、わしが確かめた範囲では、まだ記録と証言が十分に揃うちょりません。ここには、そのまま書いてあります」
後藤は頷いた。
「では、この数字は確定した損害ではないということじゃな」
「はい。申し立てられた額と、確かめられたことは分けておきたいと思いました。後で違うことが分かれば、直せるようにしてあります」
後藤は頁をめくった。
乗組員の証言がまとめられたところでは、同じ出来事について異なる記憶が並べて書かれていた。
「こちらは、話が食い違うちゅうのう」
「はい。どちらが正しいか、わしにはまだ分かりません。無理に一つにまとめたら、かえって何が本当か分からんなると思いまして」
後藤はしばらく帳面を見つめた。
やがて、静かに閉じた。
「才谷。おまん、よくこれだけ調べたのう」
太郎は少し頭を下げた。
「皆が話してくれたおかげです。わしは聞いて書いただけですき」
「その聞いて書くいうことが、案外難しいがじゃ。人は自分に都合のええ話を聞きたがる。自分の考えに合わん話が出てくると、聞かんふりをすることもある」
後藤は太郎を見た。
「おまんは、分からんことを分からんまま残しちゅう。それがええ。交渉の場では、都合のええ話だけを並べても、いずれ行き詰まる」
太郎は静かに頷いた。
後藤は続けた。
「それに、荷の値だけではなく、その先の商いについても書いてある。賠償の額を決める資料として、そのまま使えるものばかりではないが、何が失われたのかを考えるには役に立つ」
太郎は少し驚いた。
自分が帳面の端に書いた言葉を、後藤が見落とさなかったことが嬉しかった。
「後藤様。わしは今回のことで、商いを少し甘う見ちょったと気づきました。荷が動くことばかり考えて、動かんようになった時のことを、あまり考えちょりませんでした」
後藤は頷いた。
「商いも政治も、うまくいっちゅう時は誰でも威勢のええことを言える。難しいのは、思うようにいかん時にどうするかじゃ。そこで逃げずに考えられる者は、そう多くない」
太郎はその言葉を聞き、少し考えた。
土佐にいた頃、後藤象二郎は自分とは遠い世界の人物だった。
今も、その立場の違いがなくなったわけではない。
けれど、こうして話していると、後藤が何を考えているのか、少しずつ見えてくる気がした。
藩の面目。
政治の駆け引き。
人を動かすための判断。
そのどれも、太郎にはまだ十分に分からない。
しかし、後藤もまた、自分の背負っているものの中で考え続けているのだと思った。
「才谷」
後藤が声を掛けた。
「次も、おまんに頼むことがあるかもしれん」
太郎は顔を上げた。
後藤は少し笑った。
「船や商いのことを調べる時には、こういう帳面をつけられる者が要る。坂本とは違う働き方じゃが、それも立派な仕事じゃ」
太郎は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。その時は、才谷太郎としてお受けします」
後藤は一瞬、太郎の顔を見た。
そして、以前の会話を思い出したように笑った。
「そうじゃったのう。おまんは坂本龍馬の代わりではない。才谷太郎じゃった」
太郎も笑った。
その言葉を、今度は後藤の方から言ってもらえたことが嬉しかった。
*
いろは丸をめぐる交渉は、長い時間を要した。
主張はぶつかり、話し合いは何度も重ねられた。
やがて紀州藩側が賠償に応じる方向で決着がついたものの、沈んだ船が戻ってくるわけではなかった。
失われた荷についても、すべてが元通りになるわけではない。
太郎はそのことを、以前より重く受け止めるようになっていた。
ある夕方、長崎の港で松吉と顔を合わせた。
「いろは丸の件、大変だったそうですね」
松吉はそう言いながら、太郎の顔を見た。
「才谷さん、少し痩せましたか」
「そうかのう。帳面と睨めっこしすぎたかもしれん」
太郎は笑ったが、松吉は真面目な顔をしていた。
「船が沈むいうのは、商人にとっても他人事ではありません。荷が届かんこともありますし、船を出した者が損をすることもあります。商いは、いつも思い通りにいくわけではないですから」
太郎は頷いた。
「そうじゃのう。わしは今まで、荷をどう動かすかばかり考えちょった。けんど、荷が動かんようになった時に、どうするかも考えんといかん。待っちゅう人がおることを、忘れたらいかんのじゃな」
松吉は少し笑った。
「才谷さん、ますます商人らしいことを言うようになりましたね」
「またそれか」
「ええ。何度でも言いますよ」
二人は笑った。
松吉と別れたあと、太郎は港の端まで歩いた。
夕暮れの海には、何隻もの船が浮かんでいた。
帆を畳んでいる船。
荷を積んでいる船。
これから出港する船。
どの船にも、乗る者がいる。
荷を預ける者がいる。
帰りを待つ者がいる。
太郎はその光景を眺めながら、懐から帳面を取り出した。
これまでの頁には、商いについて気づいたことがいくつも書かれている。
――商いというもの、思うたより面白し。
――人の話を聞けば、物の流れが見えることあり。
太郎はその下に、新しく一行を書き加えた。
――物の流れの先には、人の暮らしあり。
書き終えると、しばらくその文字を見つめた。
そして、帳面を閉じた。
*
「太郎!」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、龍馬が港の方から歩いてきた。
その顔には疲れが残っていたが、いつもの笑みが戻っていた。
「こんなところにおったがか。皆が探しちょったぞ」
「おまんらは、何かあるたびにわしを探すのう。今日は帳面の数字でも合わんがか」
「違う違う。今日は飯じゃ。ようやく皆で落ち着いて食えるき、太郎も来いと言いよる」
太郎は笑った。
「また飯か。海援隊は食うことばかり考えちゅうがじゃないか」
「腹が減っては船も動かせんじゃろ」
龍馬はそう言って、太郎の隣へ立った。
二人はしばらく海を眺めた。
夕日が水面に細長く伸び、船の影がゆっくり揺れている。
「龍馬」
太郎が口を開いた。
「今回のことで、わしは少し商いが怖うなった」
龍馬は太郎を見た。
太郎は海から目を離さずに続けた。
「今までは、物が動くのが面白かった。誰かが欲しいものを、別の誰かが持っちゅう。それをつなげば、皆が喜ぶ。そんなふうに考えちょった。けんど、船が沈めば、荷を失う者がおる。約束を守れん者もおる。わしが思うちょったより、ずっと多くの人が一つの商いに関わっちゅうがじゃな」
龍馬は黙って聞いていた。
「面白いだけでは済まん。そう思うたら、少し怖うなった」
太郎はそこで龍馬を見た。
「けんど、やめたいとは思わんがじゃ。むしろ、もっと知りとうなった。何が起きた時に、どうすれば人が困らんで済むのか。全部は無理でも、少しでも何かできんか。そういうことを考えてみたい」
龍馬はゆっくり頷いた。
「ええことじゃと思う」
そして、少し笑った。
「怖いと思うたからこそ、見えるものもあるがじゃろ。わしも船を動かすのが好きじゃが、海が怖うないわけではない。何が起きるか分からんから、学ばんといかん。考えんといかん。それでも海へ出たいと思うき、船に乗るがじゃ」
太郎はその言葉を聞き、静かに笑った。
「おまんも、たまにはええことを言うのう」
「たまには余計じゃ」
二人は笑った。
龍馬は太郎の肩を軽く叩いた。
「太郎。おまんが今回調べてくれたことは、わしらの役に立った。けんど、それ以上に、おまん自身が何かを見つけたなら、わしは嬉しい」
太郎は頷いた。
「わしもじゃ。まだ商人になると決めたわけではないけど、少なくとも、もう少しこの仕事を続けてみたいと思うちゅう」
「それでええ。急ぐことはない」
龍馬はそう言うと、港から町へ続く坂道へ目を向けた。
「さて、戻ろうや。皆が腹を空かせて待ちゆう」
太郎は帳面を懐へしまった。
「おう。ただし、今日はおまんが払えよ。前の祝いの時も、結局皆で金を出し合うたじゃろ」
龍馬は少し困ったように笑った。
「隊長いうのは、何かと物入りでのう」
「都合のええ時だけ隊長を名乗るな」
龍馬が笑い、太郎も笑った。
二人は並んで歩き始めた。
港の仕事は、まだ終わっていなかった。
荷を運ぶ声が聞こえ、船をつなぐ縄が軋み、遠くで誰かが出港の支度をしている。
太郎はその音を聞きながら、懐の帳面にそっと手を当てた。
船がどこへ向かうのか。
何を積んでいるのか。
誰がそれを待っているのか。
以前よりも、知りたいことが増えていた。
坂道の途中で龍馬が何か面白い話を始めたので、太郎は顔を上げた。
話はまた、いつの間にか日本の将来へ飛んでいた。
太郎は笑いながら聞いていたが、途中で一つ質問をした。
龍馬は足を緩め、少し考えてから答えた。
二人は話を続けながら、長崎の町へ上っていった。




