第十六章 海と陸
長崎の港に、夏の気配が近づいていた。
朝のうちは海から涼しい風が吹いてくるものの、日が高くなるにつれて石畳が熱を帯び、荷を運ぶ男たちの額には汗が浮かぶ。異国の船から聞こえる言葉と、荷車を引く者たちの掛け声が入り混じり、港は相変わらず落ち着く暇もなかった。
海援隊と名を改めてから、龍馬たちの仕事は以前にも増して忙しくなっていた。
いろは丸を失った痛手は大きく、その後の交渉にも多くの時間を費やしている。土佐藩の支援を受けるようになったとはいえ、金も船も無尽蔵にあるわけではない。海援隊の名を頼って訪ねてくる商人が増えた分だけ、引き受ける仕事を慎重に見極める必要もあった。
太郎は港の倉の前で、積み上げられた荷を数えていた。
以前なら、荷の数が合わなければ誰が間違えたのかを確かめ、帳面を直して終わりにしていた。しかし今は、その荷がどこから来て、誰の手を経て、どこへ運ばれるのかまで気になるようになっていた。
いろは丸の件で聞いた商人の言葉が、まだ胸に残っていたのである。
荷が届くのを待つ者がいる。
その当たり前のことを、太郎は以前より重く考えるようになっていた。
「才谷さん、こちらの荷なんですが」
若い隊士が帳面を抱えて近づいてきた。
「数は合うちょります。ただ、届け先から日を早められんかと頼まれまして。船の都合を考えると、難しいと思うんですが」
太郎は帳面を受け取り、しばらく眺めた。
「先方は、どうして急いじゅうがじゃ」
「そこまでは聞いてません。早く欲しいとだけ言われました」
「なら、まず理由を聞いてみよう。急ぐわけが分かれば、ほかの荷と順番を変えられるかもしれん。無理なら無理と伝えんといかんけど、何も聞かんうちに断るのは早いじゃろ」
隊士は頷き、帳面を受け取った。
「分かりました。先方に聞いてきます」
その背中を見送りながら、太郎は倉の前に積まれた荷へ目を向けた。
物を運ぶというのは、ただ右から左へ動かすことではない。
誰かが必要としている時に、必要なものを届ける。
そのためには、荷の数だけではなく、人の事情も知らなければならない。
太郎がそんなことを考えていると、背後から聞き慣れた声がした。
「相変わらず、よう働きゆうのう」
振り返ると、中岡慎太郎が立っていた。
旅装のままの姿で、日に焼けた顔には少し疲れが見える。それでも目には以前と変わらない力があり、太郎の顔を見ると嬉しそうに笑った。
「慎太郎。いつ長崎へ来たがじゃ」
「今朝じゃ。船を降りてから、まずここへ来た」
「龍馬なら、今日は土佐藩の者と話じゃぞ。戻るのは夕方になるかもしれん」
太郎がそう言うと、中岡はわざと呆れた顔をした。
「おまんは、わしが龍馬に会うためにしか長崎へ来んと思うちゅうがか」
「違うがか」
「違うとは言わんが、今日はおまんにも会いたかったがじゃ」
太郎は少し笑った。
「それなら、わしが荷を数え終わるまで待っちょれ。ちょうど昼飯を食おうと思うちょったところじゃ」
「ええとも。腹も減っちゅう。もっとも、おまんの奢りなら、なおありがたい」
「長崎へ来るたびに人の財布を当てにするな。龍馬と同じことを言い出したら、付き合いを考え直さんといかん」
中岡は声を上げて笑った。
その笑い声を聞いて、太郎も自然に笑顔になった。
*
二人は港から少し離れた店へ入った。
昼時を過ぎていたため、客はまばらだった。開け放たれた戸口から海風が入り、奥の台所では湯気が上がっている。
飯を頼むと、中岡は旅の荷を足元へ置き、肩を軽く回した。
「京から来たがか」
太郎が尋ねると、中岡は頷いた。
「ああ。途中で何人かに会うてきた。最近は人を訪ねて歩くことが多うてのう。行く先々で話が長くなり、なかなか思うように進まん」
「おまんも人の話が長いと言うようになったがか。龍馬と話しゆう時は、お互い様じゃろ」
「龍馬の話は別じゃ。あいつは一つの話をしよったはずが、いつの間にか三つも四つも先の話になっちゅう。聞く方は追いかけるだけで疲れる」
太郎は笑った。
「それは昔からじゃ。子供の頃、浜で船を見ながら話し始めたら、最後には外国へ行って何をするかまで決めちょった。わしは夕飯までに帰れるかどうかの方が気になっちょったのに」
中岡はその様子を想像したのか、楽しそうに笑った。
「それで、おまんは龍馬に何と言うたがじゃ」
「腹が減ったき帰ろう、と言うた」
「龍馬は?」
「まだ話が終わっちょらんと言いよった。けんど、わしが先に歩き始めたら、結局ついてきた」
中岡は笑いながら茶を飲んだ。
「昔から、うまいこと釣り合うちょったがじゃな」
太郎は首を傾げた。
「そうかのう。わしは振り回されてばかりじゃった気がする」
「それでも、今も一緒におる」
中岡が何気なく言ったその言葉に、太郎は少し考えた。
確かに、土佐を離れてから別々の道を歩き、京で再会し、長崎まで来た。
だが、今の自分は龍馬について歩いているだけではない。
そう思えるようになったのは、つい最近のことだった。
運ばれてきた飯を前に、太郎は中岡へいろは丸の話をした。
船が沈んだ知らせを聞いた時のこと。
乗組員たちの話を聞いて回ったこと。
積み荷の記録を確かめるうちに、帳面の数字だけでは分からないものがあると気づいたこと。
中岡は箸を動かす手を時折止めながら、黙って聞いていた。
「商いいうのは、面白いもんじゃと思うちょった。今もそう思う。けんど、物を運ぶ約束一つにも、いろんな人が関わっちゅう。船が沈んだら、船を持っちゅう者だけでは済まん。荷を待つ人も、仕事を失う人もおるかもしれん」
太郎は茶碗を置いた。
「それを知って、少し怖うなった。けんど、不思議なもんでのう。怖うなったからこそ、もっと知りとうなったがじゃ」
中岡はしばらく太郎を見ていた。
そして、静かに頷いた。
「前に会うた時とは、少し顔つきが違うのう」
「顔は龍馬と同じままじゃろ」
「そういうことではない。おまんが何かを考えちゅう時の顔じゃ。前は、自分が何をするか探しゆうように見えた。今は、やってみたいことが少し見えてきたように思う」
太郎は照れくさくなり、茶を飲んだ。
「まだ何になるか決めたわけではないぞ」
「それでええじゃろ。わしも、おまんに早う決めろと言うつもりはない。ただ、前より楽しそうに仕事の話をするようになったと思うたがじゃ」
太郎は中岡を見た。
この男は、龍馬の幼馴染としてではなく、自分自身の変化を見てくれている。
それが嬉しかった。
「慎太郎。おまんはどうじゃ。京で人を訪ねて歩きゆういうことは、何か始めるつもりながか」
中岡は箸を置いた。
その表情から、先ほどまでの笑みが少し消えた。
「そうじゃ。今日は、その話もしたかった」
*
飯を終えた二人は、港へ戻らず、町外れの坂を上った。
高いところまで来ると、長崎の港が一望できた。湾の奥には大小の船が浮かび、その向こうに緑の山並みが重なっている。
中岡はしばらく景色を眺めていたが、やがて石垣に腰を下ろした。
「龍馬は海援隊を作った。船を動かし、商いをし、人を育てる。あいつのやり方は、あいつらしいと思う」
太郎も隣へ座った。
「おまんは、違うことを考えちゅうがか」
「違う道じゃが、目指す先はそう遠くないと思うちゅう。わしは今、京で仲間を集めようとしている。土佐を出た者もおれば、これからの国の形を考えちゅう者もおる。そういう連中が、いざという時にまとまって動けるようにしたい」
太郎は中岡の横顔を見た。
以前から、中岡が国の行く末について真剣に考えていることは知っていた。
しかし、今日はその考えが以前より具体的になっているように感じた。
「戦をするためか」
太郎が尋ねると、中岡はすぐには答えなかった。
港から吹き上げてくる風が、二人の着物の裾を揺らした。
「戦をしたいわけではない」
やがて中岡は、ゆっくり口を開いた。
「わしも、話し合いで世の中が変わるなら、その方がええと思う。戦になれば、人が死ぬ。家を失う者も出る。そんなことは、できるだけ避けたい」
太郎は頷いた。
中岡は続けた。
「けんど、こちらが話し合いを望んでも、相手が同じように考えるとは限らん。世の中を変えようとすれば、それを止めようとする者もおる。いざという時に何もできんままでは、守りたいものも守れん。じゃから、備えが要ると思うちゅう」
太郎はしばらく考えた。
「龍馬は、なるべく刀を抜かずに進もうとする。おまんは、刀を抜かんで済むように考えながらも、抜かねばならん時に備える。そういうことか」
「そうじゃな。もっとも、龍馬も刀を抜くことを何も考えちょらんわけではないし、わしも戦だけで世の中が変わると思うちゅうわけではない。そこは、簡単に分けられん」
中岡は笑った。
「ただ、わしは陸で動く者たちをまとめたい。龍馬が海に目を向けるなら、わしは京やその周りで動ける仲間を作る。海援隊とは違う形になるじゃろう」
太郎は港を見下ろした。
船がゆっくりと湾を横切っている。
「海と陸か」
「ああ」
「名前は決めちゅうがか」
中岡は少し笑った。
「陸援隊と呼ぼうと思うちゅう」
太郎は中岡を見た。
「海援隊に陸援隊。分かりやすいのう」
「分かりやすい方がええ。何をするために集まったのか、名前を聞いて少しでも伝われば、それで十分じゃ」
太郎は頷いた。
中岡が自分の道を考え、そのために人を集め始めている。
それは龍馬の後を追うことではなかった。
中岡慎太郎という男が、自分の信じるやり方で進もうとしているのだ。
「慎太郎。おまん、忙しゅうなるのう」
「今でも十分忙しいが、これからはもっとじゃろうな」
「それなら、長崎へ来た時くらい、ゆっくり飯を食え。龍馬と話し始めたら、また夜まで終わらんぞ」
中岡は笑った。
「今日はおまんと話せたき、もう十分じゃ。龍馬とは後で会えばええ」
太郎も笑った。
しばらく二人は港を眺めていた。
やがて中岡が、ふと思い出したように口を開いた。
「太郎。おまんが商いを始めるなら、京へも来てみんか。あそこにはあそこで、長崎とは違う人の流れがある。今は何かと落ち着かんが、人が集まるところには、必ず物も集まる」
太郎は少し考えた。
「京か。行ってみたい気持ちはある。けんど、今は長崎で覚えたいことがまだあるきのう」
「それなら、今すぐ来いとは言わん。おまんが自分で行こうと思うた時に来ればええ」
中岡はそう言って立ち上がった。
「わしも、京でやることが山ほどある。お互い、自分の仕事を片づけんといかんな」
太郎も立ち上がった。
港へ下る坂道を、二人は並んで歩き始めた。
*
その夜、龍馬が戻ってきた時には、すでに中岡と太郎が酒を飲み始めていた。
海援隊の者たちも何人か加わり、部屋には賑やかな声が満ちていた。
「おお、慎太郎! いつ来たがじゃ」
龍馬が戸口に立つと、中岡は杯を持ったまま振り返った。
「朝からおったぞ。おまんこそ、どこをほっつき歩きよった」
「後藤さんと話をしよった。土佐のことも、これからのことも、考えんといかんことが多うてのう」
龍馬はそう言いながら、空いている場所へ腰を下ろした。
太郎はその顔を見て笑った。
「おまん、また飯を食うのを忘れちょったろ」
「よう分かったのう。腹が減って仕方ないがじゃ」
「顔を見れば分かる。さっきから人の皿ばかり見ちゅう」
龍馬は悪びれずに笑い、近くにあった料理へ手を伸ばした。
中岡はその様子を見て、呆れたように首を振った。
「海援隊の隊長になっても、食い意地だけは変わらんのう」
「隊長になったからこそ、しっかり食わんといかん。考えることが多いき、腹も減るがじゃ」
「それなら、少しは人の分を残せ」
太郎がそう言うと、部屋に笑いが起きた。
龍馬は料理を口へ運びながら、中岡に京の様子を尋ねた。
中岡は最近会った人々のことや、京での動きを話した。
龍馬は時折質問を挟み、真剣に耳を傾けた。
やがて話は、中岡が考えている新しい組織のことへ移った。
「陸援隊か」
龍馬は杯を置いた。
「ええ名前じゃのう。海援隊と並べたら、何やら日本中を動き回れそうじゃ」
中岡は笑った。
「名前だけで動けるなら苦労はせん。人を集め、考えを合わせ、いざという時にどう動くかを決めておかんといかん。京には京の難しさがある」
龍馬は頷いた。
「そうじゃろうな。海援隊も同じじゃ。船を持てば何でもできると思うちょったら大間違いじゃった。金も要るし、人も要る。おまけに船が沈めば、相手と何度も話し合わんといかん」
太郎は龍馬を見た。
「それを聞くと、海援隊の隊長も楽ではないのう」
「楽なわけがない。わしがどれだけ苦労しゆうか、おまんはもっと知るべきじゃ」
「十分知っちゅう。おまんの帳面を直す苦労も含めてのう」
中岡が笑った。
「龍馬、おまんの帳面はそんなにひどいがか」
「少し字が走るだけじゃ」
「少しどころではない。数字が何を書いたか分からん時がある。わしが聞きに行くと、おまん自身が忘れちゅうことまであるがじゃ」
龍馬は苦笑した。
「太郎は細かいところまでよう覚えちゅうき、助かる」
「褒めても、明日から自分の帳面は自分でつけてもらうぞ」
中岡は二人のやり取りを楽しそうに聞いていた。
やがて酒が進み、ほかの隊士たちが席を外すと、三人だけが残った。
開け放たれた窓から夜風が入り、遠くで港の船が軋む音が聞こえていた。
龍馬は中岡へ向き直った。
「慎太郎。おまんが陸で人を集めるなら、これから京では何かと顔を合わせることになるじゃろうな」
「そうじゃろう。考えが違うところもあるかもしれんが、その時は話せばええ。わしも、おまんと何もかも同じ考えで動くつもりはない」
龍馬は頷いた。
「それでええ。皆が同じことを考えちょったら、見落とすものも増える。違う考えを持つ者がおるから、話す意味があるがじゃ」
太郎は二人の顔を見比べた。
龍馬は海を渡り、人や物をつなごうとしている。
中岡は陸で仲間を集め、国の行く末に備えようとしている。
二人のやり方は違う。
けれど、互いを否定しているわけではなかった。
「おまんら、昔から知り合いじゃったわけでもないのに、よう話が合うのう」
太郎が言うと、中岡は笑った。
「合うところもあれば、合わんところもある。そこが面白いがじゃ」
龍馬も頷いた。
「太郎、おまんとわしもそうじゃろ。顔は似ちゅうが、考えることは随分違う。それでも、こうして一緒におる」
太郎は少し笑った。
「わしは、おまんの帳面がもう少しまともなら、もっと気楽に一緒におれると思うぞ」
龍馬が声を上げて笑った。
中岡もつられて笑った。
しばらくして、龍馬がふと真面目な顔になった。
「太郎。おまんは、これからどうするつもりじゃ」
太郎は杯を置いた。
「またその話か。今日は慎太郎にも聞かれたぞ」
「ほう。何と答えたがじゃ」
「今は商いのことを、もっと知りたいと答えた。いろは丸の件で、分からんことが山ほどあると気づいたきのう。物を運ぶだけではなく、その先におる人のことまで考えられるようになりたい」
龍馬は黙って聞いていた。
中岡も、静かに頷いていた。
「まだ何になるかは決めちょらん。けんど、何を知りたいかは、前より少し分かってきた気がする」
太郎はそう言って、二人を見た。
「おまんらのように、国をどうするかという大きな話は、わしにはまだよう分からん。けんど、船が沈んだ時に困る人の顔は見た。荷が届くのを待っちゅう人の話も聞いた。わしは、そういうところから考えていきたい」
龍馬はゆっくり頷いた。
「それでええと思う。国いうても、そこに暮らしゆう人がおらんかったら、何の意味もないきのう」
中岡も続けた。
「わしらが何を変えようとしているのか、その先に誰がおるのか。そこを忘れたらいかんのじゃろうな。太郎の話を聞くと、時々そういうことを考えさせられる」
太郎は照れくさくなり、杯を持ち上げた。
「何じゃ、おまんら。今日はやけに真面目じゃのう」
龍馬は笑った。
「たまにはええじゃろ」
「たまにしてくれ。二人揃うて難しい話を始めたら、わしは酒を飲む暇もない」
中岡は声を上げて笑い、龍馬も笑った。
三人の笑い声が、夜の部屋に広がった。
*
翌朝、中岡は京へ戻る支度を始めた。
龍馬は早くから人と会う約束があり、先に出かけていた。
太郎は中岡の荷を運ぶのを手伝いながら、港まで見送ることにした。
朝の長崎は、まだ暑さが厳しくなかった。
坂道を下る途中、中岡は太郎に京の様子を話し、太郎は長崎での仕事のことを話した。
港へ着くと、出発の支度をしている船の周りには多くの人が集まっていた。
中岡は荷を持ち直し、太郎へ向き直った。
「世話になったのう。久しぶりに、よう笑うた」
「こちらこそじゃ。おまんが来ると、龍馬の話し相手が増えるき助かる」
中岡は笑った。
「それだけか」
「いや。わしも、おまんと話せて楽しかった。陸援隊のこと、うまく進むとええのう」
中岡は頷いた。
「簡単にはいかんじゃろうが、やってみるつもりじゃ。おまんも、商いのことをもっと知りたいと言うちょったな。次に会う時には、また面白い話を聞かせてくれ」
太郎は笑った。
「何を売るか決めたら、まずおまんに教えようか」
「それは楽しみじゃ。酒なら買うぞ」
「おまんには高う売る」
「友達価格ではないがか」
「友達じゃき、倍じゃ」
中岡は声を上げて笑った。
「それなら、わしも陸援隊の者を連れて値切りに行くぞ」
「大勢で来られたら困るき、少しは安うせんといかんのう」
二人は笑った。
やがて出発の時刻が近づいた。
中岡は船の方へ歩きかけたが、途中で振り返った。
「太郎」
「何じゃ」
「また会おう」
太郎は頷いた。
「おう。京へ行くことがあったら、顔を出すき」
「待っちゅうぞ」
中岡は手を上げた。
太郎も手を上げた。
やがて中岡は船へ乗り込み、出発の支度を始めた。
太郎はしばらく岸壁に立ち、船の上で忙しく動く人々を眺めていた。
中岡はこれから京へ戻り、自分の考える組織を形にしていく。
龍馬は海援隊を率い、海を渡りながら国の行く末を考えている。
太郎は二人のように大きな構想を持っているわけではなかった。
けれど、今はそれを恥ずかしいとも思わなかった。
自分には、自分の見ているものがある。
それを確かめながら進めばいい。
太郎はそう思った。
*
京へ戻った中岡は、仲間を集める仕事を進めた。
土佐を離れた者たちを中心に、志を同じくする人々が少しずつ集まってくる。
彼らの考えは必ずしも一つではなかった。
幕府に対する思いも、これからの国の形についての考えも、それぞれ違っていた。
中岡は一人ずつ話を聞き、時には意見をぶつけ合いながら、集まりを形にしていった。
やがて、その組織は陸援隊として動き始めることになる。
ある日、若い志士が中岡に尋ねた。
「中岡さん。海援隊の坂本龍馬とは、どのような方なんですか」
中岡は少し考えた。
「そうじゃな。話し始めると止まらん男じゃ。海の向こうのことまで考えちゅうくせに、目の前の飯を食うのを忘れる。人の話を聞かんように見えて、案外、肝心なところではよう聞いちゅう」
若者は不思議そうな顔をした。
「それは、立派な方なんでしょうか」
「立派かどうかは、会うてみればええ。ただ、面白い男であることは間違いない」
中岡は笑った。
そして、長崎で会った太郎のことを思い出した。
顔は龍馬によく似ているのに、話し方も物の見方も違う男。
誰かの話を聞く時、急いで答えを出そうとせず、相手が言葉を探すのを待てる男。
いろは丸の事件を経て、商いの面白さだけではなく、難しさも知り始めた友人。
「龍馬の周りには、いろんな男がおる。船を動かす者もおれば、荷を数える者もおる。それぞれ違うことを考えちゅうが、同じ場所で仕事をしゆう」
若者は頷いた。
「中岡さんも、その仲間なんですか」
中岡は少し笑った。
「仲間じゃと思うちゅう。ただ、わしにはわしの仕事がある。龍馬と同じことをするために集まるわけではないきのう」
中岡は立ち上がり、机の上に広げた書付を手に取った。
「さて、こちらも仕事を始めよう。人を集めるだけでは組織にはならん。集まった者たちが何をするのか、きちんと考えんといかん」
若者は慌てて姿勢を正した。
中岡はその様子を見て笑い、書付を広げた。
*
一方、京の別の場所では、坂本龍馬をめぐる調べが続いていた。
今井信郎は机の上に並べた書付を見つめていた。
坂本龍馬。
才谷梅太郎。
中岡慎太郎。
それぞれの名は、すでに何度も調べている。
長崎で坂本に似た男が動いていること。
その男が才谷梅太郎と呼ばれていること。
中岡慎太郎が、その男と親しくしていること。
今井は、これまで集めた話を順に確かめていた。
部屋へ入ってきた佐々木只三郎は、机の上の書付へ目を向けた。
「まだその件を調べているのか」
今井は顔を上げた。
「はい。坂本の周りの人間が、以前より動きを広げています。海援隊が土佐藩の支援を受けるようになり、中岡も京で人を集め始めています。才谷梅太郎という男も、長崎で海援隊に関わっているようです」
佐々木は書付を一枚手に取った。
「それで、坂本と才谷は別人なのか」
「顔がよく似た別人だという話はあります。ただ、実際にどこまで似ているのか、どのような関係なのかは、まだ確かめきれておりません」
今井は慎重に答えた。
「もし別人なら、これまで坂本の動きとして伝わってきた話の中に、才谷のものが混じっている可能性があります」
佐々木は頷いた。
「あり得る話だ。だが、似た男が二人いるというだけで、何か企みがあると決めつけるわけにもいかん」
「はい。今のところ、才谷が坂本の名を使って何かを進めているという確かな証拠はありません」
佐々木は書付を机へ戻した。
「なら、引き続き調べろ。坂本の動きだけではなく、周りの者が何をしようとしているのかも見ておけ。ただし、こちらから騒ぎを起こすな。今は確かなことを集めるのが先だ」
今井は頭を下げた。
「承知しました」
佐々木が部屋を出ていくと、今井は再び書付へ目を落とした。
海援隊。
陸援隊。
二つの名が、紙の上に並んでいる。
坂本龍馬と中岡慎太郎。
それぞれが違う場所で人を集め、動き始めている。
そして、その二人と親しい才谷梅太郎という男。
今井は筆を取り、これまでの記録に新しい情報を書き加えた。
*
長崎では、太郎がいつもの仕事に戻っていた。
中岡を見送ったあと、港の倉へ立ち寄ると、若い隊士が困った顔で待っていた。
「太郎さん。昨日の荷なんですが、届け先から返事が来ました」
「どうじゃった」
「急いでいたのは、向こうの職人たちが仕事を始めるためだったそうです。予定より早く届けば助かるが、無理なら別の段取りを考えると言っていました」
太郎は頷いた。
「そうか。それなら、こちらの船の都合をもう一度確かめてみよう。無理に急がせて別の荷を遅らせてもいかんき、全体を見て決めようや」
隊士は安心したように頷いた。
太郎は帳面を開き、船の予定と荷の数を確かめ始めた。
その途中で、懐に入れていた小さな帳面を取り出した。
いろは丸の件以来、仕事の中で気づいたことを書き留めるようにしているものだった。
そこには、以前に書いた言葉が残っている。
――商いというもの、思うたより面白し。
――人の話を聞けば、物の流れが見えることあり。
――物の流れの先には、人の暮らしあり。
太郎はその頁を眺め、少し考えた。
そして、新しい頁を開いた。
今日聞いた届け先の事情を書き、船の予定を書き、その横に小さく印をつけた。
急ぐ理由が分かれば、運び方を考えられる。
ただ早く運べばいいわけではない。
ほかの荷を待っている人もいる。
太郎は筆を置き、帳面を閉じた。
その時、倉の向こうから声がした。
「太郎! ちょっと来てくれ!」
龍馬だった。
太郎は顔を上げた。
「何じゃ。また帳面の数字が合わんがか」
「違う違う。今度は船のことで相談があるがじゃ」
太郎は笑った。
「おまんの『ちょっと』は、ちょっとで済んだためしがないのう」
「今日は本当にちょっとじゃ」
「それなら、先に何の話か言うてみい」
龍馬は少し考えた。
「……話し始めたら、長うなるかもしれん」
太郎は呆れて笑った。
「ほら見い」
龍馬も笑った。
太郎は帳面を懐へしまい、龍馬の方へ歩き出した。
京では、中岡慎太郎が陸援隊の仕事を進めている。
長崎では、坂本龍馬が海援隊を率いている。
太郎はそのどちらの隊長でもなかった。
けれど、港には今日も運ばれる荷があり、約束を待つ人がいた。
太郎は龍馬の隣へ並ぶと、船の相談を聞き始めた。
海から吹いてくる風が、二人の間を通り抜けていった。




