第十七章 政を返す日
京の町に秋の風が吹き始めていた。
夏の間、強い日差しに照らされていた通りも、朝夕には冷え込むようになり、店先に並ぶ品物や往来する人々の装いにも少しずつ季節の変化が見えるようになっていた。
けれど、町を行き交う人々の表情は、季節が移り変わるほど穏やかではなかった。
幕府がどうなるのか。
諸藩はこれからどう動くのか。
京に集まる武士たちは、何をしようとしているのか。
誰もが何かを聞きたがり、しかし確かなことを知る者は少なかった。
茶屋では客が声を潜めて噂を交わし、宿では旅人が遠国からの知らせを語った。町を歩けば、武士たちが険しい顔で行き交い、夜になると戸を閉めるのが早くなる店もあった。
そんな京の町を、坂本龍馬と才谷太郎が並んで歩いていた。
太郎が長崎から京へ来たのは、龍馬に頼まれた用事があったからだった。
海援隊の仕事に関わる書付を届け、商人との約束を確かめる。それが済めば長崎へ戻るつもりだったが、龍馬に会うと、もう少し京に残ってくれと言われた。
何か手伝うことがあるのかと尋ねても、龍馬は曖昧に笑うばかりだった。
太郎はその笑い方をよく知っていた。
龍馬が何か大きなことを考えている時の顔だった。
「龍馬。おまん、また何か企んじゅうじゃろ」
太郎が尋ねると、龍馬は振り返って笑った。
「企むとは人聞きが悪いのう。ちょっと世の中のことを考えちゅうだけじゃ」
「おまんの『ちょっと』は、ちょっとで済んだためしがない。昔からそうじゃ。浜で船を眺めながら話し始めたと思うたら、気がつけば外国へ行く話になっちゅう」
「ええことじゃろ。浜におるだけでは、海の向こうは見えんきのう」
龍馬はそう言って笑ったが、太郎はすぐには笑わなかった。
少し前から、町を歩いている時に人の視線を感じることが増えていた。
坂本龍馬という名は、以前より広く知られるようになっている。
土佐を出た一人の浪士だった男が、薩摩や長州の者と交わり、海援隊を率い、今では土佐藩の後藤象二郎とともに政治の話をしている。
龍馬のことを知る者が増えるのは、不思議ではなかった。
ただ、その中には好意的な者ばかりではない。
太郎は道の向こうに立つ二人の男へ、さりげなく目を向けた。
男たちはこちらを見ているようにも思えたが、太郎が顔を向けると、何事もなかったように歩き始めた。
「龍馬。最近、町を歩く時は少し気をつけた方がええぞ」
太郎が小さな声で言うと、龍馬は視線を動かさずに頷いた。
「分かっちゅう。おまんも気をつけろ。わしと一緒に歩いちゅうだけで、余計な目を向けられることもあるじゃろ」
「それなら、おまんがもう少し目立たんようにすればええ」
「難しい相談じゃのう」
龍馬は苦笑した。
太郎は呆れたように息を吐いたが、その横顔を見ながら、少しだけ安心した。
龍馬も、何も考えずに歩いているわけではない。
それでも、この男は人と会うことをやめない。
話すことをやめない。
そうして世の中を動かそうとしている。
太郎はそのことを、誰よりもよく知っていた。
*
後藤象二郎は、机の上に広げた書付を見つめていた。
土佐藩が将軍に政権の返上を建言する。
言葉にすれば短い。
しかし、その一つの提案を実際の政治にするためには、越えなければならないものがいくつもあった。
土佐藩の考えをまとめること。
藩主であった山内容堂の意向を確かめること。
将軍徳川慶喜が、どのような判断を下すのかを見極めること。
そして、ほかの諸藩がどう受け止めるのか。
後藤はそのどれも、簡単なことではないと分かっていた。
机の向こうには龍馬が座っている。
後藤は書付を置き、ゆっくり顔を上げた。
「坂本。おまんは、この話がどれほど難しいか、本当に分かっちゅうがか」
龍馬は真面目な顔で頷いた。
「分かっちゅうつもりじゃ。将軍に政を返してもらういうのは、今までの仕組みを変えることじゃきのう。幕府の中にも反対する者はおるじゃろうし、諸藩が皆、同じ考えになるとも思うちょらん」
「それだけではない。政を返したあと、誰が国を治めるのか。どのような仕組みを作るのか。そこが定まらんうちに幕府の力だけが弱まれば、かえって世の中が乱れるおそれもある」
龍馬は頷いた。
「じゃから、その後のことを考えんといかんがじゃ」
後藤は少し眉を寄せた。
「おまんは、いつもそう言う。政を返すのは始まりであって、終わりではないと。だが、その始まりを作るために、こちらがどれほどの危険を負うかも考えてもらわんと困る」
龍馬は後藤を見た。
「後藤さん。わしは、あんたに簡単な仕事を頼んじゅうつもりはない。土佐藩の中で話をまとめ、将軍へ建白するところまで持っていくのは、わしにはできん。あんたの立場があるからこそ、できることじゃ」
後藤は黙って聞いていた。
「けんど、今のままではいかんとも思う。幕府を倒すことだけが目的になったら、その後に何を作るのかが置き去りになる。わしは、できるなら大きな戦を避けて、新しい仕組みへ進む道を探したい」
龍馬の声は落ち着いていた。
後藤はその顔を見つめた。
清風亭で初めて腹を割って話した頃から、この男は変わらない。
立場や身分にこだわらず、人と会い、考えを語る。
その考えが時に大胆すぎることもあるが、ただ夢を語っているだけではない。
後藤はそれを知っていた。
「坂本。おまんの言うことは分かる。だが、将軍が政を返すとしても、徳川家がその力をすべて失うわけではない。新しい政治の中で、徳川家がどのような立場になるかも問題じゃ」
「そうじゃろうな。けんど、そこも含めて話し合える仕組みを作らんといかん。誰か一人が力で決めるのではなく、諸藩や朝廷の関係を改めて考える必要があると思う」
後藤は深く息を吐いた。
「おまんと話しゆうと、できそうな気になる時がある」
龍馬は少し笑った。
「それはええことじゃ」
「いや、それが困るがじゃ。できそうだと思うことと、実際にできることは違う。わしはその間を埋めんといかん」
龍馬は笑みを収めた。
「頼む、後藤さん。わしも、できることはする」
後藤はしばらく黙っていた。
そして、机の上の書付をもう一度手に取った。
「……分かっちゅう。ここまで来た以上、わしも途中で投げ出すつもりはない」
その声には、迷いよりも覚悟があった。
*
太郎は別の部屋で、庭を眺めていた。
京へ来てから、龍馬が人と会う時間はますます長くなっている。
後藤との話し合いも、始まればいつ終わるか分からない。
太郎は持ってきた帳面を開き、長崎で頼まれていた仕事の続きを確かめていた。
船の予定。
荷の受け渡し。
支払いの期日。
京へ来ても、気になるのはそういうことだった。
庭の木々を揺らす風の音を聞きながら筆を動かしていると、廊下から足音が近づいてきた。
「太郎」
顔を上げると、中岡慎太郎が立っていた。
「慎太郎。おまんも来ちょったがか」
「後藤さんに用があってのう。おまんが来ちゅうと聞いたき、顔を見に来た」
中岡はそう言いながら部屋へ入り、太郎の向かいに腰を下ろした。
「長崎では世話になったのう。あれから商いの方はどうじゃ」
「相変わらずじゃ。荷を数えて、商人と話して、船の予定を確かめて……。おまんらのように国を動かす話はしちょらん」
中岡は笑った。
「それでええじゃろ。わしらが国のことを考えちゅう間にも、誰かが荷を運ばんと、町の暮らしは止まってしまう」
太郎は少し笑った。
「おまん、長崎へ来た時より商人に優しゅうなったのう」
「おまんの話を聞いたきかもしれん」
中岡はそう言って、太郎の帳面へ目を向けた。
「それにしても、よう書いちゅうのう。龍馬の帳面とは大違いじゃ」
「比べる相手が悪い。あいつの字は、書いた本人でも読めんことがある」
二人は笑った。
しかし、中岡はやがて真面目な顔になった。
「太郎。京へ来て、何か気づいたことはないか」
太郎は筆を置いた。
「気づいたこと?」
「町の様子じゃ。長崎とは違うじゃろ」
太郎は少し考えた。
「そうじゃのう。長崎では、船が来るか、荷が届くか、商いがどうなるかという話をよう聞く。けんど、京では将軍がどうするか、薩摩がどう動くか、土佐が何を考えちゅうか、そんな話ばかりじゃ」
中岡は頷いた。
「それだけ皆、これからのことが気になっちゅうがじゃろう」
「けんど、何が本当なのか分からん話も多い。町の商人も、先のことが見えんと困っちゅうようじゃ。荷を仕入れても、道がどうなるか分からん。金の値打ちがどうなるかも心配しちゅう」
太郎はそこで中岡を見た。
「慎太郎。政が変われば、そういうことも変わるがか」
中岡はすぐには答えなかった。
庭の方へ目を向け、少し考えてから口を開いた。
「変わるものもあるじゃろう。けんど、政を変えたからといって、明日から皆の暮らしが楽になるわけではない。むしろ、しばらくは落ち着かんかもしれん」
「そうか」
「じゃからこそ、何のために変えるのかを忘れたらいかんと思う。将軍が政を返したとしても、それで世の中が収まるとは限らん。徳川家がどれほどの力を持ち続けるか、諸藩がどう動くか。まだ分からんことが多い」
太郎は頷いた。
「おまんは、陸援隊のこともあるき、余計に気になるがじゃろうな」
「そうじゃ。わしは、できるなら戦は避けたい。けんど、もし戦になった時に、何もできんままではいかんとも思うちゅう」
中岡の声には、以前と変わらない強さがあった。
太郎はその顔を見ながら、長崎で二人が話したことを思い出していた。
海と陸。
龍馬には龍馬の道があり、中岡には中岡の道がある。
その違いは、今も変わっていなかった。
「慎太郎。わしには政治のことはよう分からん。けんど、皆が安心して商いできるようになればええと思う。船が動き、荷が届き、約束した金がきちんと払われる。そういうことが当たり前にできる世の中なら、悪うないじゃろ」
中岡は太郎を見た。
そして、静かに笑った。
「悪うないどころか、大事なことじゃと思う。わしらが何を変えようとしているのか、その先に暮らす人がおることを忘れたらいかんきのう」
太郎は少し照れくさくなった。
「おまんも龍馬も、最近ようわしを褒めるのう」
「褒めちゅうつもりはない。ただ、そう思うただけじゃ」
中岡は笑った。
太郎も笑った。
その時、廊下の向こうから人の声が聞こえた。
後藤と龍馬の話し合いは、まだ続いているようだった。
*
大坂では、大久保利通が西郷隆盛と向かい合っていた。
机の上には、諸藩の動きについての書付が広げられている。
土佐藩が大政奉還を建白する方向へ動いていることは、すでに二人の耳にも入っていた。
大久保は書付を置き、静かに口を開いた。
「吉之助さぁ。土佐の動きを、どう見ておられますか」
西郷は少し考えた。
「後藤どんも、よう動いちょるようじゃな。坂本どんの考えも、その中にあると聞いちょる」
「ええ。ですが、将軍が政を返したとして、それで幕府の力がなくなるわけではありません。徳川家が新しい政治の中で大きな力を持ち続けるなら、結局、これまでと変わらぬことにもなりかねません」
西郷は頷いた。
「その心配は分かる」
大久保は続けた。
「大政奉還という形だけで満足してしまえば、こちらが考えてきた改革は進まなくなるかもしれません。徳川家がどこまで譲るのか、見極めねばなりません」
西郷は黙って聞いていた。
やがて、ゆっくり口を開いた。
「坂本どんは、戦をせずに道を開けるなら、その方がよかと思うちょるのじゃろう。おいも、無駄な血は流したくなか」
「私も同じです。しかし、戦を避けたいと思うことと、戦を避けられることは違います」
大久保の声は落ち着いていた。
「今は、どちらの道も考えておく必要があります」
西郷は頷いた。
「そうじゃな。将軍がどう決めるか。それを見てからでも、考えねばならんことは多か」
大久保は少し間を置いた。
「坂本という男は、不思議な男です」
西郷は顔を上げた。
「何がじゃ」
「これほど大きなことを考えながら、自分が新しい政治の中でどのような地位につきたいのか、まるで見えません」
西郷は少し笑った。
「龍馬どんらしか」
「あなたはそう言って笑いますが、こちらとしては判断に困ります。地位を望む者なら、その望みを見れば考えも分かる。金を望む者なら、金の動きを見ればいい。ですが、坂本はそういうものに執着しているようには見えません」
西郷はしばらく考えた。
「何にもならんつもりかもしれんな」
大久保は眉を寄せた。
「それが困るのです。何を望んでいるのか分からぬ者とは、どこで折り合いをつければよいのかも分かりません」
西郷は笑った。
「なら、本人に聞いてみればよか」
「聞いても、海へ出るなどと言いかねません」
大久保がそう答えると、西郷は声を上げて笑った。
「それも龍馬どんらしか」
大久保は小さく息を吐いた。
「まったく、あなたまで坂本の肩を持たれては困ります」
西郷は笑みを残したまま、机の上の書付へ目を向けた。
土佐が動き、薩摩が動き、長州もまた自分たちの考えを持っている。
同じ未来を見ているわけではない。
それでも、時代は確かに動き始めていた。
*
京では、後藤象二郎が土佐藩の立場から働きかけを続けていた。
大政奉還の建白は、龍馬一人の思いつきで進むものではなかった。
土佐藩の中で議論が重ねられ、山内容堂の意向が大きな意味を持った。
将軍徳川慶喜もまた、幕府の置かれた状況を見極めながら、自らの判断を迫られていた。
諸藩の動きは複雑だった。
薩摩と長州は、それぞれ幕府に対する考えを持ち、土佐の動きを慎重に見ていた。
幕府の中にも、今の仕組みを守ろうとする者がいれば、新しい形を模索する者もいた。
誰もが同じ答えを持っているわけではなかった。
それでも、話し合いは続いた。
書付が運ばれ、人が行き来し、考えがぶつかり合った。
龍馬はその間も、人と会い続けていた。
後藤は土佐藩の立場から動き続けた。
中岡は京で陸援隊の仕事を進めながら、諸藩の動きを見つめていた。
太郎は、そうした人々の動きを少し離れたところから見ていた。
政治の中心に立つことはなかったが、町の空気が変わっていくのは感じていた。
商人たちは先の見えない状況を気にしていた。
船乗りたちは、これからどの港へ向かうことになるのかを話していた。
宿の主人は、京へ来る武士が増えたことを喜びながらも、争いが起きることを恐れていた。
太郎はそうした人々の話を聞き、時折帳面へ書き留めた。
国の仕組みが変わるということは、遠いところで誰かが何かを決めるだけではない。
その決定は、いずれ町の人々の暮らしにも届く。
太郎はそのことを、少しずつ実感していた。
*
慶応三年十月。
将軍徳川慶喜は、政権を朝廷へ返上することを申し出た。
翌日、その申し出は朝廷に受け入れられた。
長く続いてきた幕府の政治が、大きな転換点を迎えたのである。
知らせは京の町へ広がった。
人々は驚き、喜び、あるいは戸惑った。
これで戦を避けられるのではないかと期待する者がいた。
幕府がなくなれば世の中がどうなるのかと不安を抱く者もいた。
政権を返したとはいえ、徳川家が持つ力は依然として大きい。
これから新しい政治をどのように作るのか、その答えはまだ出ていなかった。
太郎が知らせを聞いたのは、京の宿で帳面を整理していた時だった。
戸が勢いよく開き、龍馬が入ってきた。
いつもより足取りが速く、その顔には興奮が見えた。
「太郎」
太郎は筆を置いた。
「どうしたがじゃ。そんなに慌てて」
龍馬は一度息を整え、それから笑った。
「将軍が、政を返した」
太郎は龍馬を見た。
「……何じゃと?」
「大政奉還じゃ。慶喜公が政権を朝廷へ返すと申し出て、それが受け入れられた」
太郎はしばらく動かなかった。
言葉の意味は分かる。
けれど、それがどれほど大きな出来事なのか、すぐには実感できなかった。
「龍馬。それは……おまんが、後藤さんとずっと話しよったことじゃろ」
「ああ」
「将軍が、ほんまに政を返したがか」
「そうじゃ」
太郎はゆっくり立ち上がった。
そして、龍馬の肩を両手でつかんだ。
「やったのう、龍馬!」
龍馬は驚いたように目を見開き、それから笑った。
「おう」
「おまんがずっと言いよったことじゃろ。戦をせずに世の中を変える道があるかもしれんと。後藤さんも、土佐藩の人らも、皆が動いて……とうとう、ここまで来たがじゃな」
太郎は嬉しそうに笑った。
龍馬も笑っていた。
だが、その笑みにはどこか考え込むようなところがあった。
太郎はそれに気づいた。
「龍馬。何じゃ、その顔は。嬉しゅうないがか」
「嬉しいに決まっちゅう。けんど、太郎。これで全部が終わったわけではないがじゃ」
太郎は少し呆れたように息を吐いた。
「またそれか。おまんは、昔から何か一つできたと思うたら、すぐ次のことを考え始めるのう」
龍馬は苦笑した。
「そうかもしれん。けんど、政を返したからといって、徳川家の力がなくなるわけではない。新しい政治を誰がどう作るのか、そこを決めんといかん。諸藩の考えも違うき、まだ難しいことは山ほどある」
太郎は黙って聞いていた。
龍馬の言うことは、分からないわけではなかった。
けれど、今は別のことを言いたかった。
「龍馬。難しいことが残っちゅうのは分かった。けんど、今日くらいは喜んでもええじゃろ」
龍馬は太郎を見た。
「おまんがどれだけ走り回ったか、わしは知っちゅう。後藤さんと何度も話して、いろんな人に会うて、夜遅うまで考えよった。まだ終わりじゃないとしても、今日は大きな一歩じゃろ」
太郎は笑った。
「じゃから、今日は笑え。明日のことは、明日また考えればええ」
龍馬はしばらく太郎を見つめていた。
そして、ようやく声を上げて笑った。
「そうじゃな。おまんの言う通りじゃ」
太郎も笑った。
「そうと決まれば、酒じゃ。慎太郎も呼ぼう。後藤さんも来られるなら呼びたいところじゃが、あの人はまだ忙しいじゃろうな」
「後藤さんは、しばらく休めんじゃろう。けんど、慎太郎なら顔を出せるかもしれん」
龍馬はそう言って、窓の外へ目を向けた。
京の空は、夕暮れの色に変わり始めていた。
*
その夜、三人は小さな部屋で酒を酌み交わしていた。
中岡は知らせを聞いた時の様子を話し、龍馬は後藤や土佐藩の人々がどれほど動いてきたかを語った。
太郎は二人の話を聞きながら、時折酒を注いだ。
久しぶりに、三人だけで落ち着いて話す時間だった。
「それにしても、ようここまで来たのう」
中岡が杯を置いた。
「将軍が政を返すなど、少し前なら考えられんかった。土佐の働きも大きかったし、慶喜公も自分なりに先を見て決めたのじゃろう」
龍馬は頷いた。
「そうじゃな。誰か一人の力でできたことではない。後藤さんも、容堂公も、ほかの諸藩の者たちも、それぞれ考えて動いた結果じゃ」
太郎は二人を見た。
「けんど、これで少しは戦を避けられるようになったがじゃろ」
中岡は静かに答えた。
「そう願いたい。けんど、まだ安心はできん。政を返しても、徳川家が大きな力を持ち続けることをどう考えるか。そこは諸藩によって違う。これからの話し合い次第では、争いが起きる可能性もある」
太郎は頷いた。
「そうか。難しいのう」
「難しい。じゃが、今日の出来事が大きな意味を持つことは間違いない」
中岡はそう言って、龍馬を見た。
「龍馬。おまんはこれからどうするつもりじゃ」
龍馬は少し考えた。
「まずは、新しい政治の仕組みを考えんといかん。将軍が政を返したあと、国をどう治めるか。そこが決まらんと、せっかくの話も先へ進まん」
「それは分かる。わしが聞きたいのは、その後じゃ」
中岡は少し笑った。
「おまん自身は、新しい政で何になるつもりながか」
太郎も興味を持って龍馬を見た。
龍馬は二人の顔を見比べ、それからあっさり答えた。
「何にもならんつもりじゃ」
太郎は思わず杯を置いた。
「何じゃと?」
中岡も驚いたように眉を上げた。
「おまん、これだけ動いておいて、新しい政には入らんつもりか」
龍馬は笑った。
「今のところはのう。もちろん、まだせんといかんことはある。けんど、それが済んだら、わしは海へ出たい」
太郎は龍馬を見つめた。
「海へ?」
「そうじゃ。日本の中だけ見ちょったら、分からんことが山ほどある。外国へ行って、いろんなものを見たい。船を動かし、商いをして、もっと広い世界を知りたいがじゃ」
中岡はしばらく龍馬を見ていたが、やがて笑った。
「まったく、おまんらしいのう。わしらが京で何をするか考えちゅう時に、おまんはもう海の向こうを見ちゅうがか」
龍馬は頷いた。
「おまんには陸援隊がある。太郎には、太郎のやりたいことがある。わしにも、わしの道があるがじゃ」
太郎は少し笑った。
「おまん、わしが商いに興味を持っちゅうのを知って、また船に誘うつもりじゃろ」
「悪い話ではないじゃろ。おまんが荷のことを考え、わしが船を動かす。二人で外国へ行けば、面白いことができるかもしれん」
太郎は首を振った。
「まずは、今ある仕事をきちんとせんといかん。おまんの話に乗ったら、また何年も先のことまで決められてしまう」
中岡は笑った。
「太郎は慎重じゃのう」
「慎重で悪いか。誰かが止めんと、龍馬はどこまでも話を広げるき」
龍馬も笑った。
「それでええ。おまんはおまんの考えで決めればええ」
太郎は頷いた。
その言葉が、素直に嬉しかった。
龍馬は自分を必要としてくれている。
けれど、自分の道を決めるのは自分でいい。
中岡もまた、自分の考えで陸援隊を率いている。
三人は違う道を歩いている。
それでも、こうして同じ場所で酒を飲み、笑い合える。
太郎はその時間が好きだった。
*
同じ頃、京の別の場所では、今井信郎が佐々木只三郎へ報告をしていた。
机の上には、これまで集めた書付が並んでいる。
坂本龍馬の動き。
才谷梅太郎という男の存在。
中岡慎太郎との関係。
そして、海援隊と陸援隊。
今井は一枚の書付を指さした。
「坂本は、土佐藩の後藤象二郎と頻繁に会っていたようです。大政奉還をめぐる動きにも関わっていたと見られます」
佐々木は黙って聞いていた。
「才谷梅太郎も京へ来ています。長崎では海援隊の仕事をしていたようですが、坂本と行動をともにすることもあります」
佐々木は顔を上げた。
「二人は、やはり別人なのか」
「はい。複数の証言から、同時に別の場所にいたことは確かめられています。ただ、どのような関係なのか、まだ分からないところがあります」
今井は少し間を置いた。
「以前、才谷が坂本の名で人と会っていたという話もありました。しかし、その目的については、まだ確かなことが分かっておりません」
佐々木は書付へ目を落とした。
「顔が似ているだけなら、珍しいこともある。だが、わざわざ名を使い分けているなら、理由があるはずだ」
「はい。引き続き調べます」
佐々木は頷いた。
「今は京の動きが大きく変わろうとしている。坂本一人のことだけに気を取られるわけにはいかん。中岡の陸援隊も、どのような者が集まっているのか確かめておけ」
今井は頭を下げた。
「承知しました」
佐々木は書付を閉じた。
「ただし、確かなことが分かるまでは、余計な動きをするな。似た男が二人いるというだけで、こちらが勝手に話を大きくするわけにはいかん」
今井は頷いた。
部屋を出る前に、机の上の書付へもう一度目を向けた。
坂本龍馬。
才谷梅太郎。
二つの名は、別々の人物として記されている。
しかし、その関係を説明できるだけの材料は、まだ揃っていなかった。
*
夜が更ける頃、太郎は宿の外へ出た。
酒の席はまだ続いていたが、少し風に当たりたくなったのである。
京の町は静かだった。
遠くで人の声が聞こえるものの、昼間のような賑わいはない。
太郎は空を見上げた。
雲の切れ間から、月が見えていた。
しばらくすると、背後から足音が近づいてきた。
「こんなところにおったがか」
龍馬だった。
「おまんこそ、慎太郎を置いてきたがか」
「酒を取りに行くと言うたら、勝手に飲んで待っちゅうと言われた」
太郎は笑った。
「それなら、早う戻らんと全部飲まれるぞ」
龍馬は笑い、太郎の隣へ立った。
二人はしばらく黙って町を眺めていた。
やがて太郎が口を開いた。
「龍馬。今日のこと、わしはまだよう分かっちょらんのかもしれん」
龍馬は太郎を見た。
「何がじゃ」
「将軍が政を返したいうことは分かる。大きな出来事じゃいうことも分かる。けんど、それで明日から何が変わるのか、わしにはまだ想像がつかん」
龍馬は頷いた。
「わしにも、全部が分かるわけではない。これから何が起きるかは、誰にも決められんところがある」
太郎は少し考えた。
「長崎で商いをしゆう時は、荷が届くかどうか、金が払われるかどうか、そういうことが気になる。京へ来ても、町の人らがこれからどうなるか心配しちゅうのを聞くと、やっぱり同じことを考えるがじゃ」
龍馬は黙って聞いていた。
「おまんらが国を変えようとしゆうのは、そういう人らの暮らしにも関わることなんじゃろ。なら、わしも無関係ではないがじゃな」
龍馬は静かに笑った。
「そうじゃ。国いうのは、将軍や大名だけのものではない。そこに暮らす人がおって、初めて国になる。おまんが見ちゅうものも、わしらが考えちゅうこととつながっちゅうがじゃ」
太郎は頷いた。
そして、少し笑った。
「それなら、わしはわしの見えるところから考えてみる。おまんらのように大きな話はできんけど、商いのことなら、少しずつ分かるようになってきたき」
龍馬は嬉しそうに笑った。
「それでええ。おまんにはおまんの道がある」
太郎は龍馬を見た。
「おまんにも、おまんの道がある。慎太郎にもな」
「そうじゃな」
二人はしばらく黙っていた。
やがて龍馬が口を開いた。
「太郎。酒がなくなる前に戻ろうや」
太郎は笑った。
「結局、それか」
「慎太郎に全部飲まれたら困るきのう」
「おまんら、どちらも人の酒を当てにするところは同じじゃ」
龍馬は笑った。
太郎も笑った。
二人は並んで宿へ戻り始めた。
部屋からは、中岡の笑い声が聞こえていた。
太郎はその声を聞きながら、少し足を速めた。
政が返された日。
国の仕組みが大きく変わろうとしている夜。
それでも、三人が顔を合わせれば、いつものように酒を飲み、冗談を言い合う。
太郎はその時間を、何よりも大切に思っていた。
部屋の戸を開けると、中岡が杯を持ち上げた。
「遅いぞ、二人とも。酒がなくなるところじゃった」
龍馬は笑いながら答えた。
「それなら、もう一本頼もうや」
太郎は呆れたように笑った。
「おまんら、誰が払うと思うちゅうがじゃ」
中岡は悪びれずに答えた。
「今日は祝いの日じゃ。細かいことは言うな」
太郎は首を振った。
「それなら、明日は二人にしっかり働いてもらうぞ」
三人は笑った。
夜は、まだ少し続きそうだった。




