第三章 再会
妙なことが続いていた。
「坂本さん、この前はどうも」
大坂の町を歩いていた時。
見知らぬ男にそう声をかけられた。
龍馬は足を止めた。
「……わしか?」
「何を言ってるんです。この前、京で会ったじゃないですか」
「京?」
「ええ」
「いつ」
男が日を言った。
龍馬は指を折った。
一日。
二日。
三日。
顔を上げる。
「わし、その頃は江戸じゃ」
「え?」
「勝先生のところにおった」
「……」
「人違いじゃないか」
「いや」
男は龍馬の顔をじっと見る。
一歩近づく。
龍馬も顔を寄せる。
「近いのう」
「坂本さんですよね」
「坂本龍馬じゃ」
「ほら」
「何が、ほら、じゃ」
男は首を捻りながら去っていった。
龍馬も。
首を捻った。
「何じゃ」
*
それだけなら。
人違いで済んだ。
だが。
「坂本さん」
「おう」
「先日はありがとうございました」
「……何を」
「何って」
「わし、おまんと会うたか」
「え?」
別の日。
今度は京だった。
また知らない男だった。
「三日ほど前に」
「三日前?」
「ええ」
龍馬は空を見上げる。
三日前。
どこにいた。
思い出す。
「わし、その日は大坂じゃ」
「……またまた」
「何でわしが嘘つくがじゃ」
男が笑う。
「いやあ、坂本さん。冗談がお好きだ」
「冗談じゃない」
「じゃあ、あれは誰です」
「わしが聞きたい」
男は笑ったまま去っていった。
龍馬はその背中を見送る。
笑えなかった。
「……何じゃ」
妙だった。
*
さらに。
酒屋で。
「坂本さん、この前は随分静かでしたね」
「わしが?」
「ええ」
「静か?」
「ほとんど喋らなかったじゃないですか」
「……」
龍馬は真顔になった。
「それは絶対わしじゃない」
「そこですか」
「わしがそんなに黙るわけないじゃろ」
「自分で言いますか」
「言う」
店を出て。
龍馬は腕を組んだ。
歩く。
十歩ほど行く。
止まる。
「静かなわし……」
想像する。
「気持ち悪いのう」
また歩く。
だが。
胸の奥に。
小さな引っかかりが残った。
顔が似ている。
龍馬と間違われる。
だが。
龍馬より静か。
「……」
一人。
いる。
龍馬は足を止めた。
「いや」
首を振る。
「まさかのう」
太郎。
頭に浮かんだ顔を。
龍馬はすぐに打ち消した。
土佐を出たことは知っている。
だが。
どこへ行ったのかは知らない。
そもそも。
こんなところにいるはずがない。
「……でも」
龍馬は歩き出す。
「顔だけなら」
似ている。
子供の頃から。
何度も間違えられた。
『龍馬、さっき走っていかんかったか』
『わし、ずっとここにおったぞ』
『なら誰じゃ』
『太郎じゃないか』
昔は。
それだけのことだった。
「……まさかな」
龍馬は笑った。
だが。
その足は。
少しだけ速くなっていた。
*
京都。
寺田屋。
夕方から降り始めた雨が。
細い路地を濡らしていた。
龍馬は軒下へ滑り込むと、肩についた雫を手で払った。
「参ったのう」
笠を外す。
裾も濡れている。
草履から水が染みていた。
戸を開ける。
「ごめん」
中は暖かかった。
灯りが揺れている。
濡れた土と。
炊き物の匂い。
外の雨音が。
戸を閉めた途端に少し遠くなった。
「あら」
声がした。
お登勢が出てくる。
「坂本さん」
「お登勢さん。久しぶりじゃ」
「……」
お登勢は。
妙な顔をした。
「何じゃ」
「いえ」
「顔に何かついちゅうか」
龍馬は頬を擦った。
「いや」
お登勢は龍馬を見る。
それから。
階段の方を見る。
また龍馬を見る。
「……坂本さん?」
「そうじゃ」
「本当に?」
「何じゃ、その聞き方」
龍馬は笑った。
「偽物に見えるか」
「いえ……」
お登勢は。
もう一度。
階段を見る。
「何じゃ」
「坂本さんなら」
「うん」
「もう二階にいらっしゃいますけど」
龍馬の手が止まった。
笠から。
一滴。
水が落ちた。
「……何?」
「ですから」
お登勢は階段を指した。
「坂本さんなら、少し前に戻ってこられて」
「……」
「二階に」
龍馬は。
ゆっくり。
階段を見た。
狭い階段。
上は暗い。
「誰が」
「坂本さんが」
「わしはここじゃ」
「ですから困ってるんです」
「……」
「私も」
お登勢は龍馬と階段を交互に見る。
「どういうことなんでしょう」
龍馬は笠を置いた。
手が滑り。
笠が床へ落ちた。
「あ」
拾おうとする。
だが。
途中でやめた。
「二階?」
「ええ」
「いつから」
「少し前から」
「一人?」
「ええ」
「何しゆう」
「お茶を」
「茶?」
「飲んでます」
龍馬の眉が寄る。
「わしより落ち着いちゅう」
「そういう問題ですか」
龍馬は階段へ向かった。
一段。
上る。
止まる。
「……」
「坂本さん?」
後ろからお登勢の声。
「何でもない」
もう一段。
古い板が。
ぎし、と鳴る。
一段。
また一段。
龍馬は。
なぜか。
急げなかった。
胸が。
妙に騒いでいる。
「……まさか」
小さく呟く。
頭では。
違うと言っている。
そんな偶然があるか。
土佐から消えた男が。
京の寺田屋にいる。
しかも。
自分と間違えられて。
茶を飲んでいる。
「……いや」
龍馬は。
口元を緩めた。
「ありそうじゃのう」
太郎なら。
なぜか。
ありそうな気がした。
*
二階。
廊下。
龍馬は歩いた。
雨音が。
屋根越しに聞こえる。
一つの部屋から。
灯りが漏れている。
龍馬は。
その前で止まった。
手を上げる。
戸へ触れる。
そのまま。
動かなかった。
何を躊躇している。
自分でも分からない。
違ったら。
笑えばいい。
いつもの人違いだ。
だが。
もし。
「……」
龍馬は戸を開けた。
*
男が。
座っていた。
茶碗を手に。
窓の外を見ている。
横顔。
髪。
肩。
座り方。
少し。
猫背になっている。
「……」
龍馬は。
息を止めた。
男が。
戸の音に気づいた。
ゆっくり。
顔を向ける。
茶碗が。
途中で止まった。
「……」
二人は。
何も言わなかった。
雨だけが。
聞こえていた。
男の目が。
少しずつ。
大きくなる。
龍馬の口が開く。
だが。
声が出ない。
何年ぶりか。
数えようとして。
やめた。
そんなもの。
どうでもよかった。
「……龍馬?」
男が言った。
その声で。
全部が戻った。
浜。
海。
砂。
梅。
竹刀。
枝。
弥太郎の声。
『帰ってこい』
『帰ってくる』
『必ず』
『待っちょれ』
龍馬の顔が。
歪んだ。
「……太郎」
茶碗が。
畳へ置かれた。
少し乱暴だった。
茶がこぼれる。
太郎が立ち上がる。
龍馬も。
部屋へ入った。
一歩。
二歩。
どちらが先だったか。
分からなかった。
「おまん!」
龍馬が太郎の胸ぐらを掴んだ。
「何じゃ!」
太郎も龍馬の腕を掴む。
「どこ行っちょった!」
「おまんこそ!」
「わしは帰ったぞ!」
「知るか!」
「待っちょれ言うたろ!」
「帰ってくる言うたろ!」
「帰った!」
「遅い!」
「江戸じゃぞ!」
「知らん!」
「修行じゃ!」
「知るか!」
二人の顔が。
近い。
睨む。
数秒。
「……」
「……」
龍馬の手から。
力が抜けた。
太郎も。
腕を離す。
「……太郎」
「何じゃ」
龍馬が。
太郎の肩を叩いた。
一度。
二度。
「……ほんまに」
三度目は。
叩かなかった。
そのまま。
肩を掴んだ。
「ほんまに、おまんか」
太郎は。
龍馬の顔を見た。
「……そうじゃ」
龍馬が。
笑った。
笑ったまま。
太郎を抱いた。
「うわっ」
太郎の身体がよろける。
「龍馬!」
「太郎!」
「痛い!」
「生きちょった!」
「生きちゅうわ!」
「どこ行っちょった!」
「さっき聞いた!」
「何で連絡せん!」
「おまんの居場所が分からん!」
「勝先生のところじゃ!」
「誰じゃ!」
「勝海舟じゃ!」
「知らん!」
「知らんがか!」
「知るか!」
太郎が龍馬を押し返した。
龍馬が笑う。
太郎も。
怒った顔のまま。
笑った。
「……変わらんのう」
太郎が言った。
「おまんも」
「わしは変わった」
「どこが」
「背が伸びた」
「わしもじゃ」
二人が並ぶ。
龍馬が太郎の頭へ手を置く。
太郎が払い落とす。
「触るな」
「わしの方が高い」
「同じじゃ」
「わしじゃ」
「髪じゃろ」
「髪も身長じゃ」
「違う」
「細かいのう」
龍馬は。
また笑った。
笑いながら。
太郎の顔を見た。
似ている。
昔より。
さらに。
似ていた。
子供の頃は。
顔が似ているだけだった。
今は。
背丈も。
身体つきも。
遠目なら。
自分でも。
間違えるかもしれない。
「……なるほど」
「何じゃ」
「おまんか」
「何が」
「大坂」
「何の話じゃ」
「京でもじゃ」
「じゃから何が」
「わし、最近よう人に会うんじゃ」
「知らん」
「会ったことない奴に」
「……」
太郎が。
目を逸らした。
龍馬がそれを見る。
「おまん」
「何じゃ」
「わしと間違えられたな」
「……何回か」
「何回」
「知らん」
「何で言わん」
「誰に!」
龍馬が。
口を閉じた。
「……わしか」
「おまんの居場所が分からん言うちゅう!」
「そうじゃった」
「馬鹿か」
「久しぶりに会うて馬鹿言うな」
「久しぶりじゃなくても馬鹿じゃ」
「おまん、口悪うなったのう!」
廊下から。
足音がした。
お登勢が。
恐る恐る顔を出した。
「……あの」
二人が同時に振り返る。
「何じゃ」
「何です」
お登勢が。
固まった。
龍馬。
太郎。
交互に見る。
「……」
二人も。
お登勢を見る。
「……」
お登勢が額へ手を当てた。
「頭が痛くなってきました」
*
その夜。
二人は向かい合って飯を食った。
最初は。
話が止まらなかった。
「江戸がのう――」
「待て。先にわしじゃ」
「何で」
「おまんばっかり喋りゆう」
「久しぶりじゃき」
「わしもじゃ」
「なら喋れ」
「喋ろうとしたらおまんが――」
「で、土佐を出てからどこへ行った」
「ほら!」
太郎が箸を置いた。
「人の話を聞け!」
「聞いちゅう」
「まだ話してない!」
「じゃあ話せ」
「今からじゃ!」
龍馬が笑う。
太郎は。
溜息をついた。
だが。
その顔も。
嬉しそうだった。
飯が減る。
酒が減る。
灯りが。
少しずつ小さくなる。
話題が。
昔へ戻る。
「武市さんには会うた」
龍馬が言った。
太郎の箸が。
止まった。
「……そうか」
「以蔵にも」
「元気じゃったか」
「うん」
龍馬は頷く。
「以蔵、剣が上手うなっちょった」
「そうか」
太郎の顔に。
小さな笑みが浮かんだ。
「よかったのう」
「わしが教えたきな」
「枝で?」
「何で皆そこを言う」
「枝じゃったろ」
「最初の先生じゃ」
「武市さんに言うたか」
「言うなと言うた」
「以蔵に?」
「うん」
「言うじゃろ」
「言わんじゃろ」
「以蔵じゃぞ」
「じゃきじゃ」
太郎が笑った。
龍馬も笑う。
しばらくして。
太郎の笑みが消えた。
「龍馬」
「何じゃ」
「土佐へ」
少し。
間が空く。
「帰ったがじゃな」
龍馬の箸が止まった。
「……帰った」
「そうか」
「浜にも行った」
太郎は。
目を伏せた。
「梅も見た」
指先が。
わずかに動いた。
「……そうか」
「太郎」
龍馬は箸を置いた。
膝へ手を置く。
「わしを待つと言うちょったが、帰った時はおらんかった」
太郎が。
顔を上げる。
「何があったじゃ」
雨が。
まだ降っていた。
太郎は。
すぐには答えなかった。
残った飯を。
箸で少し寄せる。
食べるわけでもなく。
また戻す。
「……土佐を出た」
「それは知っちゅう」
「うん」
「何でじゃ」
太郎は。
箸を置いた。
両手を膝へ置く。
背を伸ばす。
それから。
また少し。
力を抜いた。
「おまんが江戸へ行ったあと」
「うん」
「しばらくは待っちょった」
龍馬は何も言わない。
「浜にも行った」
「……」
「梅も見た」
龍馬の目が。
少し動いた。
「帰ってくる言うたき」
「……うん」
「待てばええと思うちょった」
太郎は。
自分の手を見る。
「けんど」
指が。
ゆっくり握られる。
「土佐におるのが、しんどうなった」
「……」
「下の者は」
太郎は言葉を探した。
「何をしても下じゃ」
龍馬が眉を寄せる。
「働いても」
「うん」
「剣を覚えても」
「うん」
「ものを知っても」
太郎は。
顔を上げた。
「生まれたところから、動けん」
龍馬は黙った。
「わしは」
太郎が続ける。
「おまんみたいに、世の中を変えたいとか」
「……」
「そんな大きなことは思わんかった」
「うん」
「ただ」
膝の上の手が。
少し動く。
「自分がどこまで行けるか」
太郎は。
窓の外を見る。
「見てみとうなった」
龍馬の目が。
わずかに見開かれた。
『見えんき、見に行く』
昔。
浜で。
自分が言った言葉。
「それで出たがか」
「それだけじゃない」
太郎は首を振る。
「腹も立っちょった」
「何に」
「色々じゃ」
「色々?」
「色々は色々じゃ」
「そこ聞きたい」
「長うなる」
「夜は長い」
「おまんが全部聞いたら朝になる」
「ええじゃないか」
「わしが眠い」
「昔からよう寝るのう」
「おまんが寝んだけじゃ」
太郎が。
少し笑った。
その笑みが消える。
「だから」
龍馬を見る。
「おまんにはすまんかったが、土佐を出た」
「……」
「待つ言うたのに」
龍馬は。
太郎を見た。
怒っていたはずだった。
土佐へ帰った時。
誰もいない浜で。
何度も。
太郎を責めた。
待っちょれ言うたろ。
どこへ行った。
何で何も言わん。
けれど。
今。
目の前にいる太郎を見ると。
その言葉は。
もう出なかった。
「……わしも」
龍馬が言った。
「何じゃ」
「遅かった」
「……」
「帰る言うたのに」
龍馬は。
頭を掻いた。
「随分待たせた」
「……うん」
「すまん」
太郎が。
少し驚いた顔をした。
「何じゃ」
「おまんが謝るとは」
「わしも謝るぞ」
「珍しい」
「たまには」
「明日、雪じゃな」
「雨じゃ」
「雪になる」
「そこまでか!」
太郎が笑う。
龍馬も。
笑った。
*
夜が更けた。
雨が。
少し弱くなった。
二人は縁側へ出た。
軒先から。
雫が落ちる。
庭の石が濡れている。
龍馬は柱へ背を預けた。
太郎は。
縁側へ腰を下ろす。
「で」
龍馬が言った。
「何じゃ」
「これからどうする」
太郎は。
庭を見る。
「分からん」
「わしと一緒じゃ」
「嫌じゃ」
「何で」
「おまんの『分からん』と一緒にするな」
「同じじゃろ」
「違う」
「何が」
「おまんは分からん言いながら走る」
「うん」
「わしは考える」
「考えすぎじゃ」
「おまんが考えなさすぎじゃ」
「ちょうどええのう」
「何が」
「二人で一人じゃ」
太郎が。
龍馬を見る。
「気持ち悪いこと言うな」
「ひどい」
龍馬は笑った。
それから。
少しだけ真面目な顔になった。
「太郎」
「何じゃ」
「わしと来んか」
太郎は。
すぐには答えなかった。
龍馬も。
急かさなかった。
「どこへ」
ようやく太郎が聞く。
「色々」
「一番信用できん答えじゃ」
「京も」
龍馬は指を折る。
「大坂も」
もう一本。
「江戸も」
「遠いのう」
「長崎も」
「もっと遠い」
「海も」
「海?」
「船じゃ」
龍馬の目が。
少年のように光った。
「勝先生がのう――」
「待て」
「何じゃ」
「また始まる」
「まだ何も言うてない」
「顔で分かる」
「勝先生はすごいぞ」
「分かった」
「まだ説明してない!」
「明日聞く」
「今聞け」
「眠い」
「太郎!」
太郎が笑う。
龍馬も。
つられて笑った。
笑いが収まる。
太郎は。
庭へ目を戻した。
「……行ってもええ」
龍馬が止まる。
「ほんまか」
「ただし」
「何じゃ」
「わしはおまんじゃない」
「知っちゅう」
「おまんが行くところ全部について行くとも言わん」
「うん」
「わしは」
太郎は自分の手を見る。
「わしのやることを探す」
龍馬は。
太郎の横顔を見る。
第二章。
勝のところを出た夜。
考えた。
太郎なら。
自分と同じものを面白がるのか。
自分と同じ道を選ぶのか。
答えは。
今。
目の前にあった。
「それでええ」
龍馬が言った。
太郎が顔を向ける。
「ほんまか」
「うん」
龍馬は。
笑った。
「おまんは太郎じゃき」
太郎は。
少しだけ目を細めた。
「……そうじゃ」
「ただ」
「何じゃ」
「困ったことがある」
「もう嫌な予感がする」
「名前じゃ」
「名前?」
「おまん、その顔で才谷太郎のまま歩き回ったら」
龍馬は自分の顔を指差した。
「またわしと間違えられる」
「それはおまんのせいじゃない」
「何でわしのせいじゃ!」
「顔が似ちゅう」
「おまんもじゃ!」
「わしは先にこの顔じゃったかもしれん」
「同い年じゃろ!」
「生まれた日は」
「知らん!」
太郎が笑った。
「じゃあどうする」
「名前を変えよう」
「簡単に言うのう」
「仮じゃ、仮」
龍馬は部屋へ戻った。
太郎が。
仕方なさそうに後を追う。
*
龍馬は机の前へ座った。
紙を引き寄せる。
筆を取る。
「名字は」
「才谷じゃ」
「それは残す?」
「何で変える」
「そうじゃのう」
龍馬は紙へ書いた。
才谷。
太郎は。
その筆先を見る。
「字、下手じゃのう」
「うるさい」
「江戸で習わんかったか」
「剣を習いに行ったがじゃ」
「字も習え」
「読めればええ」
「後で困るぞ」
「何に」
「知らん」
「なら言うな」
龍馬が。
才谷の下へ。
太郎。
と書く。
「才谷太郎」
「そのままじゃないか」
「そうじゃのう」
「馬鹿か」
「考えゆう!」
龍馬は筆を持ったまま。
首を傾げた。
「太郎は残すか」
「別にええ」
「なら」
龍馬の筆が。
止まる。
「……」
「何じゃ」
「いや」
龍馬が。
太郎を見る。
それから。
ふっと笑った。
「梅」
太郎の顔から。
笑みが消えた。
「……何で」
「好きじゃったろ」
「昔の話じゃ」
「今は嫌いか」
「嫌いじゃない」
「ならええ」
龍馬は。
紙へ筆を下ろした。
一画。
また一画。
ゆっくり。
梅。
太郎は。
その字を見ていた。
土佐。
冬。
まだ寒い道。
枝へ手を伸ばした龍馬の手を。
叩いた。
『触るな』
『何でじゃ』
『咲いちゅうき』
あの頃は。
名前になるなど。
考えもしなかった。
「梅太郎」
龍馬が言った。
「……」
「才谷梅太郎」
紙を。
太郎の方へ向ける。
太郎は。
じっと見た。
龍馬の。
少し癖のある字。
「どうじゃ」
「……変じゃ」
「ええ名前じゃろ」
「自分で言うな」
「嫌か」
太郎は。
すぐには答えなかった。
指を伸ばす。
紙の上。
梅。
その字の少し上で。
指が止まる。
「……梅か」
「うん」
「まだ寒うても」
龍馬が。
太郎を見る。
「春が来る」
太郎は。
小さく笑った。
「覚えちょったがか」
「覚えちゅう」
「意外じゃ」
「わしは何でも覚えちゅう」
「銭落とした回数は?」
「二回」
「三回じゃ」
「細かい!」
太郎が笑った。
龍馬も笑う。
「まあ」
太郎は。
もう一度。
紙を見る。
「悪うない」
「じゃろ」
「才谷梅太郎」
「うん」
太郎は。
声に出してみた。
「才谷梅太郎」
自分のものではないようで。
でも。
どこか。
懐かしかった。
「決まりじゃ」
龍馬が筆を置く。
「勝手に決めるな」
「嫌ならやめるか」
「……」
太郎は紙を取った。
丁寧に。
二つに折る。
「いや」
懐へ入れる。
「これでええ」
龍馬が。
嬉しそうに笑った。
「梅太郎」
「呼ぶな」
「何でじゃ」
「まだ慣れん」
「梅太郎」
「やめろ」
「梅太郎!」
「うるさい!」
太郎が龍馬の肩を押した。
龍馬が笑いながら逃げる。
狭い部屋の中。
二人が。
昔のように。
騒ぐ。
階下から。
「静かにしてください!」
お登勢の声が飛んできた。
二人は。
同時に止まった。
「……」
「……」
顔を見合わせる。
「おまんのせいじゃ」
「龍馬じゃろ」
「梅太郎じゃ」
「その呼び方やめろ!」
「ほら騒いだ」
「おまんが――」
「静かに!」
「はい!」
二人の声が。
ぴたりと重なった。
*
翌朝。
雨は上がっていた。
寺田屋の外。
濡れた道に。
朝の光が反射している。
龍馬は荷を肩へ掛けた。
太郎も。
自分の荷を持つ。
「行くか」
「どこへ」
「まず飯」
「さっき食ったろ」
「足りん」
「おまん、昔より食うようになったのう」
「身体が大きゅうなったき」
「同じじゃ」
「わしの方が大きい」
「髪じゃ」
「まだ言うか」
二人は。
歩き出した。
龍馬が。
いつものように。
少し先へ出る。
数歩。
歩いて。
止まった。
振り返る。
太郎が。
後ろにいる。
「何じゃ」
「いや」
龍馬は。
太郎が追いつくのを待った。
「何じゃ、本当に」
「何でもない」
太郎が隣へ来る。
龍馬は。
もう一度。
歩き出した。
今度は。
二人。
並んで。
歩いた。
「龍馬」
「何じゃ」
「勝海舟いう人」
「おう!」
「どんな人じゃ」
龍馬の顔が。
一瞬で明るくなった。
「聞くか!」
「……やっぱりやめる」
「遅い!」
龍馬の手が動く。
船の大きさを示す。
海を指す。
見えもしない異国を指差す。
太郎は。
最初は黙って聞いていた。
やがて。
質問を一つする。
龍馬が。
十返す。
「多い」
「何が」
「一つ聞いただけじゃ」
「大事なところじゃ!」
「弥太郎みたいになってきたぞ」
龍馬が。
急に黙った。
「……それは嫌じゃ」
「じゃろ」
二人は笑った。
京の町を歩いていく。
昨日まで、坂本龍馬は一人だった。
才谷太郎も、一人だった。
今日から二人は同じ道を歩く。
けれど。
同じ人間になるわけではない。
一人は。
坂本龍馬。
もう一人は。
才谷太郎。
そして。
必要な時だけ。
才谷梅太郎。
この朝、龍馬の少し後ろではなく、
太郎は龍馬の隣を歩いていた。
笑い声は昔のように・・・。




