第二章 太郎のいない土佐
帰ってきた。
土佐の海が見えた時、坂本龍馬が最初に思ったのは、それだった。
江戸は広かった。
人が多かった。
剣の強い者も、知らない考えを持つ者もいた。
そして海には、土佐では見たこともない異国の船が浮かんでいた。
江戸へ出る前。
龍馬にとって海の向こうは、ただ想像するしかない場所だった。
だが今は違う。
この海は続いている。
その先には本当に別の国があり、自分たちとは違う言葉を話す人間がいて、大きな船が海を越えてやって来る。
世界は、自分が思っていたよりずっと広かった。
そして。
土佐は。
思っていたより、ずっと小さかった。
「……帰ってきたぞ」
龍馬は荷を背負い直した。
潮の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
それから。
少し笑った。
「太郎」
返事はない。
当たり前だった。
龍馬は浜へ下りた。
昔。
二人で何度も座った場所へ向かう。
波打ち際には、子供が二人いた。
しゃがみ込み、何かを拾っている。
一人が走り出す。
もう一人が追いかける。
「……」
龍馬は足を止めた。
昔の自分たちを見ているようだった。
「こら!」
追いかけていた子供が転んだ。
もう一人が笑う。
転んだ子供が砂を投げる。
「はは」
龍馬は小さく笑った。
そして。
浜を見回した。
「……おらんのう」
太郎なら。
龍馬が帰ってくると聞けば、ここへ来る。
そう思っていた。
第一声は何だろう。
遅い。
たぶん、それだ。
龍馬は砂の上を歩いた。
昔、二人で世界を描いた場所など、もう分からない。
波が何度も消した。
風が何度も砂を運んだ。
「太郎!」
試しに呼んでみた。
子供たちが振り返った。
「……何じゃ」
龍馬は頭を掻いた。
「おまんらじゃない」
子供たちは怪訝そうな顔をして、また遊び始めた。
龍馬は歩き出した。
*
梅の木は。
残っていた。
「お」
龍馬は足を止めた。
懐かしい道だった。
枝へ手を伸ばしかけ。
途中で止める。
『触るな』
声が聞こえた気がした。
「……触ってない」
思わず答えた。
もちろん。
誰もいない。
龍馬は自分で可笑しくなった。
「何しゆうがじゃ、わしは」
梅の枝を見上げる。
花の季節ではない。
ただ葉が風に揺れている。
「帰ってきたぞ」
言ってみた。
やはり。
返事はなかった。
*
「才谷?」
町で尋ねると、男は少し考えた。
「ああ。太郎か」
「そうじゃ」
「おらんぞ」
龍馬の足が止まった。
「……何が」
「じゃき、太郎じゃ。土佐にはおらん」
「どこへ行った」
「知らん」
「いつじゃ」
「さあのう」
「何で出た」
「知らん」
「誰と行った」
「知らん」
「どこへ行く言うちょった」
「知らん言うちゅう!」
男が困った顔をした。
龍馬は口を閉じた。
「……すまん」
「何じゃ。坂本、おまん知らんかったがか」
「江戸におった」
「ああ、そうか」
男はそれ以上、大したことでもないように歩いていった。
龍馬だけが、その場に残った。
「……おらん?」
声にしても。
意味が分からなかった。
太郎は待つと言った。
自分は帰ると言った。
だから。
帰ってきた。
なのに。
「何じゃ、それ」
腹が立った。
何に腹が立っているのか、自分でも分からない。
太郎にか。
自分にか。
何も知らなかったことにか。
「待っちょれ言うたろ」
道端の石を蹴った。
石は思ったより飛ばず、ころころと転がった。
「……いや」
龍馬は立ち止まった。
約束したのは。
自分だった。
帰ってくる、と。
太郎はただ。
待っている、と答えた。
「何があったんじゃ」
龍馬は石を見つめた。
追いかけようにも。
どこへ行ったのか分からない。
「……太郎」
土佐へ帰ってきたのに。
一人だけ。
帰る場所から消えていた。
*
「龍馬」
その声だけは。
昔と変わらなかった。
龍馬は顔を上げた。
「武市さん」
武市半平太が立っていた。
最後に竹刀を交えた頃より、顔つきが変わった。
身体が大きくなったわけではない。
声が低くなったわけでもない。
ただ。
背負っているものが増えた。
そんなふうに見えた。
「戻ったか」
「戻った」
「江戸はどうじゃった」
「広かった」
「それだけか」
「人が多かった」
「子供みたいな感想じゃのう」
「ほんまじゃき仕方ない」
武市が笑った。
龍馬も笑う。
その瞬間だけ。
昔へ戻った気がした。
「一本やるか」
龍馬が言った。
武市は眉を上げる。
「帰ってきて最初にそれか」
「江戸で強うなったぞ」
「江戸へ行く前も同じことを言いよった」
「今度はほんまじゃ」
「前は嘘じゃったか」
「前もほんまじゃ」
武市が吹き出した。
「変わらんな、おまんは」
「武市さんも」
「わしは変わった」
その一言で。
空気が少し変わった。
「……そうか」
「ああ」
武市は龍馬を見る。
「龍馬」
「何じゃ」
「世の中が動きゆう」
龍馬の笑みが消えた。
「知っちゅう」
「なら話が早い」
武市は歩き出した。
「来い」
「どこへ」
「話をする」
「今?」
「今じゃ」
「わし、帰ってきたばっかりじゃぞ」
「世の中はおまんの帰りを待ってくれん」
「太郎も待ってくれんかった」
ぽろりと出た。
武市が足を止める。
「才谷か」
「知っちゅうがか」
「土佐を出たことだけは」
「どこへ」
「知らん」
「何でじゃ」
武市は少し黙った。
「龍馬」
「何じゃ」
「土佐におることが、皆にとって同じ意味ではない」
「……」
「残る者もおる」
武市は歩き出す。
「出る者もおる」
龍馬はその背中を見た。
そして。
追いかけた。
*
土佐勤王党。
その名を龍馬が聞いた時。
最初に浮かんだのは。
武市らしい。
だった。
「土佐を変える」
武市は言った。
「土佐だけか」
龍馬が尋ねる。
「まず土佐じゃ」
「その後は」
「日本じゃ」
龍馬は腕を組んだ。
「逆じゃないか」
「何が」
「日本を考えるなら、最初から日本を見ればええ」
「藩を持たん者が、どうやって日本を動かす」
「人じゃ」
「その人をまとめるものが藩じゃ」
「藩が邪魔することもある」
「じゃから変える」
「変えてから日本を見る?」
「そうじゃ」
「遅うないか」
武市の眉が動いた。
「龍馬」
「何じゃ」
「おまんは昔から――」
言葉を切る。
龍馬を見る。
そして。
苦笑した。
「わしの向こうを見ゆうな」
龍馬が瞬きをした。
思い出した。
道場。
竹刀。
喉元へ向けられた切っ先。
『おまんは、今のわしより先を見ようとしちょった』
「……覚えちょったがか」
「忘れるか」
武市は座り直した。
「じゃがな、龍馬」
「うん」
「先を見ることと、足元を見んことは違う」
「……」
「日本を動かしたいなら、まず今ここにおる者を動かさないかん」
龍馬は黙った。
正しい。
そう思った。
全部ではない。
だが。
間違ってもいない。
「一緒にやらんか」
武市が言った。
龍馬は武市を見る。
その目には。
昔と同じ強さがあった。
「……やる」
龍馬は頷いた。
こうして。
坂本龍馬は土佐勤王党へ加わった。
*
「以蔵」
久しぶりに見た岡田以蔵は。
腰に刀を差していた。
「……龍馬」
声は変わらない。
口数も。
変わらない。
「久しぶりじゃのう」
「……うん」
「元気か」
「……うん」
「それだけか」
「何が」
「久しぶりに会ったがじゃぞ」
「……久しぶり」
「今言うがか!」
以蔵は龍馬を見た。
やはり。
笑っているのか。
困っているのか。
分からない。
「……何じゃ」
「いや」
龍馬は笑った。
「以蔵じゃのうと思うて」
「……以蔵じゃ」
「知っちゅう」
龍馬は以蔵の腰を見る。
刀。
あの日は。
木の枝だった。
「以蔵」
「……何じゃ」
「まだ振りゆうか」
以蔵が少し首を傾ける。
やがて。
龍馬が何を言っているのか分かったらしい。
「……振りゆう」
「毎日?」
「……だいたい」
「さぼったか」
「……たまに」
「さぼっちゅうじゃないか!」
「龍馬もさぼったろ」
「わしは先生じゃぞ」
「……先生?」
「最初に教えた」
以蔵の口元が。
ほんの少し。
動いた。
「……枝で」
「枝でも先生は先生じゃ」
「……武市先生に怒られるぞ」
「言うなよ」
「……考えとく」
「おまん、そんなこと言うようになったがか!」
今度は。
確かに。
以蔵が笑った。
ほんの少しだけ。
龍馬も笑った。
変わっていない。
そう思った。
この時は。
*
だが。
日が経つにつれ。
龍馬には分からなくなっていった。
武市の言うことが間違っているとは思わない。
仲間たちの熱も分かる。
土佐を変えたい。
日本を変えたい。
異国の脅威に抗いたい。
龍馬自身も同じだった。
なのに。
どこか。
息苦しい。
「……違う」
夜。
龍馬は一人で歩いていた。
月が出ていた。
「何が違うんじゃ」
誰に聞くでもなく呟く。
答えはない。
いつの間にか。
浜へ来ていた。
「……」
龍馬は砂の上へ座った。
海を見る。
子供の頃。
ここにはいつも太郎がいた。
「太郎」
呼んでみる。
やはり返事はない。
「おまんがおったら」
龍馬は膝を立てた。
「何と言うたじゃろ」
武市の話。
勤王党の仲間たち。
藩。
幕府。
異国。
攘夷。
日本。
頭の中で。
いくつもの言葉がぶつかっている。
「武市さんの言うことも分かる」
波が寄せる。
「けんど」
引いていく。
「何か違う」
また寄せる。
「何が違う」
引いていく。
「……」
龍馬は砂を掴んだ。
指の間から落ちる。
「おまんなら、聞くじゃろな」
太郎の顔を思い浮かべる。
龍馬が喋る。
武市が喋る。
二人とも熱くなる。
その横で太郎が黙って聞いている。
そして。
『二人とも喋りすぎじゃ』
「……はは」
龍馬は笑った。
「言いそうじゃ」
でも。
いない。
笑いはすぐに消えた。
「どこにおるんじゃ」
海は答えなかった。
*
武市との話は。
少しずつ。
噛み合わなくなっていった。
「龍馬」
「何じゃ」
「なぜ長州へ行く」
「見たいきじゃ」
「何を」
「土佐の外を」
「江戸を見たろ」
「江戸だけが日本じゃない」
「今は土佐をまとめる時じゃ」
「じゃき、外を見る」
「話が逆じゃ」
「わしには逆に見えん」
武市が黙る。
龍馬も黙った。
昔なら。
竹刀を持てば済んだ。
勝った。
負けた。
もう一本。
それでよかった。
今は違う。
言葉でぶつかる。
どちらも引けない。
「龍馬」
武市が低く言った。
「おまんは何がしたい」
「……分からん」
「分からん?」
「分からんき、見たい」
「何を」
「全部じゃ」
武市の眉が寄る。
「土佐も」
龍馬は指を折った。
「長州も」
もう一本。
「薩摩も」
もう一本。
「幕府も」
「龍馬」
「異国も」
「龍馬!」
武市の声が響いた。
龍馬は口を閉じた。
「全部を見る時間などない」
「じゃあ」
龍馬は武市を見た。
「見んまま決めるがか」
「……」
「異国を追い払う。幕府をどうする。藩をどうする。日本をどうする」
龍馬は膝へ手を置き、前へ身を乗り出した。
「わしら、知らんことが多すぎるじゃろ」
「だからこそ、志が要る」
「志だけで船は動かん」
その言葉を口にした瞬間。
龍馬は。
弥太郎を思い出した。
『銭があれば船も買える』
あの頃。
何を馬鹿なことを、と笑った。
今は。
笑えなかった。
「武市さん」
「何じゃ」
「剣だけでは、世の中は動かん」
「分かっちゅう」
「志だけでもじゃ」
武市の目が細くなる。
「なら何が要る」
龍馬は答えようとした。
だが。
答えられなかった。
「……それを」
立ち上がる。
「探したい」
武市は龍馬を見上げた。
長い沈黙のあと。
「行くがか」
「うん」
「また」
「うん」
武市も立った。
「昔から、おまんは止まらんな」
「武市さんは止まりすぎじゃ」
「言うようになったのう」
「江戸帰りじゃき」
「関係あるか」
二人とも。
少しだけ笑った。
でも。
昔のようには笑えなかった。
*
龍馬が土佐を出ると決めた夜。
以蔵と会った。
「……行くがか」
「うん」
「どこへ」
「まだ分からん」
「……またか」
「またじゃ」
以蔵は黙った。
腰の刀へ手を置く。
龍馬はその手を見る。
「以蔵」
「何じゃ」
「剣は」
言いかけて。
止まった。
「……何じゃ」
「いや」
龍馬は首を振る。
「何でもない」
「……変な奴」
「おまんに言われとうない」
以蔵が龍馬を見る。
何か言いたそうだった。
昔と同じだ。
言葉になるまで時間がかかる。
龍馬は待った。
「……龍馬」
「うん」
「武市先生と」
「うん」
「もう一緒にやらんがか」
龍馬は空を見上げた。
「分からん」
「……分からんばっかりじゃな」
「分からんもんは分からん」
「……そうか」
「けんど」
龍馬は以蔵の肩を軽く叩いた。
「嫌いになったわけじゃない」
以蔵は黙っている。
「武市さんも」
肩から手を離す。
「おまんも」
「……」
「皆」
以蔵はしばらく龍馬を見ていた。
そして。
「……分かった」
それだけ言った。
龍馬が歩き出す。
数歩進む。
「龍馬」
足を止めた。
振り返る。
以蔵が立っている。
少年だった頃のあの日と。
同じだった。
あの日も。
龍馬が歩き出してから。
以蔵が呼び止めた。
龍馬は待った。
以蔵の口が開く。
「……気をつけろ」
龍馬は笑った。
「おう」
今度も。
それだけ返した。
*
土佐を出る朝。
龍馬は浜へ行った。
荷を背負っている。
江戸へ向かう時と同じだった。
ただ。
見送る者はいない。
龍馬は歩く。
波打ち際まで行き。
海を見る。
「太郎」
返事はない。
「わしを待つ言うちょったくせに」
苦笑する。
「帰ってきた時には、おらんかった」
足元の小石を拾った。
海へ投げる。
一度。
水面を跳ねた。
二度。
三度。
沈んだ。
「何があったんじゃ」
分からない。
だから。
いつか会ったら聞く。
龍馬はそう決めた。
「わしも行くぞ」
海へ言う。
「今度は江戸だけじゃない」
長州。
薩摩。
京。
大坂。
もっと先へ。
「どこかで会うたら」
龍馬は笑った。
「説教じゃ」
歩き出す。
少し行って。
振り返った。
誰もいない。
「……前見て歩け、か」
自分で言って。
今度は振り返らなかった。
*
土佐を出てからも。
龍馬は答えを探し続けた。
そして。
江戸で。
一人の男に会った。
勝海舟。
*
「坂本龍馬?」
「はい」
「土佐か」
「元、土佐です」
「元?」
「脱藩しました」
「威張って言うことかい」
「威張ってません」
「胸張ってるじゃないか」
龍馬は自分の胸を見た。
「癖です」
「変な奴だな」
「よう言われます」
勝は龍馬を見た。
龍馬も勝を見る。
思っていた男とは違った。
もっと偉そうな男を想像していた。
幕府の人間。
役人。
偉い男。
そんなものを全部背負っている人間だと思っていた。
だが。
目の前の男は。
妙に軽い。
それでいて。
目だけが鋭い。
「で」
勝が言った。
「何しに来た」
龍馬は口を開く。
だが。
勝の方が先だった。
「攘夷か?」
「……」
「異人を追っ払いたい?」
「それも――」
「それも?」
勝は身を乗り出した。
「じゃあ聞こう」
「はい」
「どうやって追っ払う」
龍馬が黙る。
「刀か?」
「……」
「大砲か?」
「……」
「船か?」
龍馬の目が動いた。
勝がそれを見る。
「船に食いついたな」
「……船を持っちゅうがですか」
「俺が?」
「幕府が」
「ある」
「どれくらい」
「そこからか」
「見たい」
「話がまだ終わってない」
「乗れますか」
「だから話を聞け!」
勝が笑った。
龍馬は。
弥太郎を思い出した。
『商売上手は話上手じゃ』
「何がおかしい」
「いや」
「今笑ったろ」
「昔、よう喋る奴がおりまして」
「俺がそいつに似てるって?」
「いや。勝先生の方が話が早い」
「先生?」
勝が眉を上げた。
「まだ弟子にした覚えはないぞ」
「なります」
「勝手に決めるな」
「駄目ですか」
「まず話を聞け」
「はい」
「本当に聞けよ」
「はい」
勝は呆れたように息を吐いた。
そして。
話し始めた。
世界のこと。
海のこと。
船のこと。
外国のこと。
日本のこと。
幕府だけではない。
土佐でもない。
長州でもない。
薩摩でもない。
もっと大きなもの。
龍馬は。
最初こそ質問を挟んだ。
やがて。
何も言わなくなった。
聞いていた。
ただ。
聞いていた。
勝が指で地図をなぞる。
龍馬の目が追う。
海。
港。
国。
航路。
話が進むほど。
龍馬の身体が前へ傾いていった。
そして。
ふいに。
昔の景色が重なった。
土佐。
地面へ線を引く岩崎弥太郎。
『物を積む』
『別の国へ持っていく』
『そこで売る』
浜辺。
太郎。
『海の向こうには何がある』
道場。
武市。
『おまんは、わしの向こうを見ちょった』
全部が。
一本の線でつながった。
「……これじゃ」
龍馬が呟いた。
勝が止まる。
「何が」
「これじゃ」
龍馬は立ち上がった。
「おい」
「勝先生!」
「近い!」
龍馬は勝の目の前まで来ていた。
「わしを弟子にしてください!」
「だからまだ――」
「船を教えてください!」
「座れ」
「海を教えてください!」
「座れ!」
「日本を――」
「坂本!」
「はい!」
「座れ!」
龍馬は座った。
「……」
「……」
勝が額を押さえた。
「土佐の奴はみんなこうなのか」
「わしだけかもしれません」
「だろうな」
勝は大きく息を吐いた。
龍馬はじっと待った。
「……まあ」
勝が言った。
「面白い奴ではある」
龍馬の顔が明るくなる。
「ほんなら!」
「まだ何も言ってない!」
*
勝のもとを出た時。
外はもう暗かった。
龍馬は歩いた。
十歩。
二十歩。
突然。
止まった。
「……太郎」
夜空を見上げる。
「おまんがおったら」
考えた。
「止めたかのう」
自分が。
土佐を出ることを。
武市から離れることを。
勝の話に夢中になることを。
「……」
龍馬は腕を組んだ。
太郎の顔を思い浮かべる。
『龍馬』
「何じゃ」
自分で答える。
『話は最後まで聞け』
「聞いたぞ」
『途中で何回も口挟んだじゃろ』
「……ちょっとだけじゃ」
『ほんで勝手に弟子になる言うたじゃろ』
「なった方がええと思ったき」
『またそれじゃ』
「何がじゃ」
『先に走る』
「……」
龍馬は笑った。
「言うのう」
通りを歩く人が、不思議そうに龍馬を見る。
龍馬は気にしない。
「でも」
再び歩き出す。
「おまんも来たじゃろ」
今度は。
迷わず言えた。
「勝先生の話を聞いたら」
歩く。
「船じゃぞ」
歩く。
「海じゃぞ」
足取りが速くなる。
「異国じゃぞ」
笑みが広がる。
「おまんも絶対――」
そこで。
龍馬は止まった。
本当に?
太郎なら。
本当に同じ道を選んだだろうか。
「……」
分からない。
太郎は龍馬ではない。
龍馬が面白いと思うものを。
太郎も面白いと思うとは限らない。
自分が走るから。
太郎も走る。
そう決めつけていたのは。
自分だったのかもしれない。
「おまんがおったら」
龍馬は小さく呟いた。
「わしは武市さんと、もっと話しちょったかもしれん」
夜風が吹いた。
「土佐を出んかったかもしれん」
一歩。
歩く。
「勝先生にも、会わんかったかもしれん」
もう一歩。
「逆に」
龍馬は笑った。
「おまんに蹴り出されて、もっと早う来ちょったかもしれん」
分からない。
永遠に。
分からない。
ただ一つだけ。
確かなことがあった。
太郎がいない間にも。
龍馬の人生は進んでいる。
止まってはくれない。
そして。
太郎の人生も。
どこかで。
龍馬の知らない方向へ進んでいる。
「……太郎」
龍馬は夜空を見上げた。
「次に会うた時」
少し考える。
「いっぱい話があるぞ」
武市のこと。
以蔵のこと。
土佐勤王党のこと。
脱藩したこと。
長州のこと。
そして。
勝海舟という、とんでもなく面白い男に会ったこと。
「おまんも」
龍馬は笑った。
「何しよったか、全部話せよ」
返事はない。
それでも。
龍馬は歩き出した。
今度は。
海の方角へ。
子供の頃。
海の向こうに何があるのか。
二人とも知らなかった。
今も。
分からないことばかりだった。
武市の道が正しいのか。
自分の道が正しいのか。
太郎がどこにいるのか。
次にいつ会えるのか。
何一つ。
分からない。
それでも。
龍馬は歩いた。
見えないから。
見に行く。
それは。
少年の頃から。
変わっていなかった。
ただ。
あの頃と一つだけ違うことがある。
走り出した龍馬の後ろから。
「待て!」
そう叫んで。
追いかけてくる男が。
今は。
いなかった。




