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第一章 土佐の少年

龍馬の少年時代編です。


 海の向こうには、何がある。

 坂本龍馬が初めて才谷太郎にそう聞いたのが、いつだったのか。

 太郎はもう覚えていなかった。

 たぶん、二人ともまだ十にもならない頃だった。

     *

「太郎!」

 浜に声が響いた。

「太郎!」

「聞こえちゅう!」

 波打ち際にしゃがんでいた太郎は、拾った小石を海へ放ってから振り返った。

 遠くから一人の少年が走ってくる。

 坂本龍馬だった。

 髪は乱れ、着物の裾には泥がつき、片方の草履は今にも脱げそうになっている。

「遅い!」

「おまんが早すぎるがじゃ!」

「昨日、朝から来い言うたろう!」

「朝じゃ!」

 太郎は空を見上げた。

 太陽はもうずいぶん高い。

「もう昼になるぞ」

「まだ腹が減っちょらんき、朝じゃ!」

「何じゃ、その理屈」

 ようやく追いついた龍馬は、太郎の横で膝に手をついた。

「……走った」

「見りゃ分かる」

「水」

「持ってない」

「気が利かんのう」

「遅刻した奴に言われとうない」

 龍馬は顔を上げた。

 目が合う。

 二人とも吹き出した。

 龍馬はそのまま砂の上へ腰を下ろし、乱れた息を整えながら海を眺めた。

 太郎も隣に座る。

 二人の前には土佐の海が広がっていた。

 波が浜へ寄せては白く砕け、また引いていく。

 龍馬は海を見る時だけ、少し静かになった。

 太郎は昔から、それを知っていた。

「また見ゆう」

「何を」

「海」

「海へ来ちゅうんじゃき、海を見るじゃろ」

「おまんのは違う」

 龍馬が横目で太郎を見る。

「何がじゃ」

 太郎は龍馬の横顔を指差した。

「海を見ゆうんじゃない」

「なら何を見ゆう」

「その向こう」

「……何じゃ、それ」

「知らん。そう見えるだけじゃ」

 龍馬はしばらく太郎を見ていたが、やがてまた海へ顔を向けた。

「太郎」

「何じゃ」

「海の向こうには何があると思う」

「海」

「その向こうじゃ」

「また海」

「もっと向こう」

「知らん」

「考えろ」

「何でわしが」

 龍馬は砂の上へ指を走らせた。

「ここが土佐じゃ」

「小さいのう」

「砂じゃき」

「こっちが海」

 龍馬は大きな線を引く。

「ほんで、この向こうにも国がある」

「あるじゃろな」

「どんな国じゃろ」

「知らん」

「どんな人がおる」

「知らん」

「何を食う」

「知らん」

「どんな船に――」

「ああ、もう!」

 太郎は龍馬の描いた地図を足で消した。

「あ!」

「うるさい!」

「わしの世界を消した!」

「砂じゃ!」

「謝れ!」

「誰に!」

「わしの世界に!」

「知らん!」

 龍馬が飛びかかる。

 太郎は逃げた。

 二人は波打ち際を走り、追いついた龍馬が太郎の背中へ飛びついた。

「捕まえた!」

「重い!」

「謝れ!」

「嫌じゃ!」

 もつれ合って砂の上へ転がった。

 取っ組み合いになり、どちらが上になったのかも分からなくなって、最後には二人とも息を切らしながら仰向けになった。

 頭上には、どこまでも青い空があった。

「……龍馬」

「何じゃ」

「おまん、いつかほんまに行くんじゃないか」

「どこへ」

「海の向こう」

 龍馬は寝転んだまま首を傾けた。

 やがて。

「行ってみたいのう」

「泳いで?」

「船じゃ!」

「船持っちょらんじゃろ」

「いつか持つ」

「金は?」

「……」

「ないじゃろ」

「何とかする」

「何とかって何じゃ」

「何とかじゃ!」

 太郎は笑った。

 龍馬も笑った。

 この頃の二人にとって、海の向こうはまだ、想像の中にしかない場所だった。

     *

 龍馬と太郎はよく似ていた。

 顔立ちも背格好も年頃も近い。

 遠目なら見間違える者もいた。

「龍馬!」

 町で太郎が呼び止められる。

「わしは太郎じゃ」

「ああ、また間違えた」

 そんなことは珍しくなかった。

 龍馬はそれを面白がった。

「ええのう」

「何がじゃ」

「わしが悪いことしたら、おまんのせいにできる」

「やったら殴るぞ」

「わしを?」

「おまんを」

「同じ顔を?」

「似ちゅうだけじゃ!」

 近くで見れば、違った。

 龍馬はよく動く。

 目も、口も、手も。

 何かを思いつけば、身体の全部が先に動く。

 太郎はまず見る。

 聞く。

 それから動く。

 龍馬が道の向こうに何があるか確かめもせず走り出すなら、太郎は一度足元を見て、

「待て!」

 と叫んでから。

 結局。

 その背中を追いかける。

 そんな二人だった。

     *

 ある日。

 龍馬は太郎を道場へ連れていった。

「嫌じゃ」

「何で」

「痛い」

「まだ何もしちょらん」

「竹刀で叩かれるんじゃろ」

「剣術じゃき」

「ほら痛い」

「強うなるぞ」

「痛うない方法で強うなりたい」

「そんなもんあるか」

「探せ」

「何でわしが!」

 龍馬は太郎の背を押した。

 道場の中から竹刀がぶつかる音、床を踏む音、鋭い掛け声が聞こえてくる。

 太郎は入口で踏ん張った。

「帰ってええか」

「駄目じゃ」

「何でじゃ」

「今日は面白いもんが見られる」

「何じゃ」

「武市さん」

 道場の奥に、一人の男がいた。

 武市半平太。

 ただ立っているだけなのに、姿勢が真っ直ぐで、周囲とはどこか違って見える。

 龍馬は竹刀を一本取った。

「武市さん」

「何じゃ」

「一本」

 武市は龍馬を見た。

「この前も負けたろう」

「今日は勝つ」

「毎回そう言う」

「今日はほんまじゃ」

「昨日までは嘘か」

「昨日までもほんまじゃ」

 武市の口元がわずかに緩んだ。

「面白い男じゃ」

 二人が向かい合った。

 太郎は壁際に座った。

 さっきまでは剣術など見ても面白くないと思っていた。

 竹刀で叩き合い、痛い思いをして、それで何が楽しいのか。

 だが。

 二人が構えた瞬間。

 道場の空気が変わった。

 先に動いたのは龍馬だった。

「やあっ!」

 床板を強く踏み、一気に間合いを詰める。振りかぶった竹刀を一度、二度、三度と立て続けに振り下ろした。

 武市は退かなかった。

 一撃目を竹刀の先で外へ流し、二撃目は手首をわずかに返して受け流す。三撃目が頭上へ落ちる寸前、半歩だけ身体をずらした。

 龍馬の竹刀が空を切る。

「くっ……!」

 龍馬は止まらない。空振りした勢いのまま身体を返し、今度は胴を横から狙った。

 乾いた音が道場へ響く。

 武市の竹刀が龍馬の一撃を受け止めていた。

 龍馬はすぐに竹刀を引き、右へ回りながら小手へ打ち込む。

 武市は竹刀をわずかに傾けただけだった。

 また外された。

「まだじゃ!」

 龍馬が前へ出れば、武市は半歩ずれる。龍馬が横へ回れば、その切っ先だけが静かに後を追う。

 激しく動いているのは龍馬だけだった。

 なのに。

 押しているようには見えない。

 太郎はいつの間にか膝から手を離し、身を乗り出していた。

「……すごい」

 龍馬が十動く間に、武市は一つか二つしか動いていない。

 それなのに龍馬の竹刀は、一度も武市を捉えられない。

 それでも龍馬は笑っていた。

 苦しいはずなのに。

 楽しくて仕方がないという顔だった。

「はっ!」

 さらに踏み込む。

 竹刀と竹刀がぶつかり、鋭い音が弾けた。

 武市が初めて大きく竹刀を動かした。

 龍馬の竹刀が跳ね上がる。

 普通なら身体が開く。

 だが龍馬は逆らわず、その勢いのまま一歩踏み込み、武市の脇を抜けるように身体を回した。

 武市の目がわずかに動く。

 龍馬はそれを見逃さなかった。

 振り返る。

 同時に竹刀を振る。

 武市も振り返った。

 竹刀が交差した。

 二人の動きが止まった。

 龍馬の切っ先は武市の肩のすぐそば。

 武市の切っ先は龍馬の喉元へ向いている。

 道場が静まり返った。

 荒い息をしているのは龍馬だけだった。

 武市はゆっくり竹刀を下ろした。

「そこまでじゃ」

「まだじゃ」

「龍馬」

「何じゃ」

「おまん、最後――わしを見てなかったろう」

 龍馬の笑みが消えた。

「見ちょった」

「いや」

 武市は静かに首を振った。

「わしの竹刀を見ながら、その先を考えちょった」

「……」

「次にわしがどう動くか。その次にどう動けば抜けられるか。おまんは、今のわしより先を見ようとしちょった」

 壁際の太郎が顔を上げた。

 同じことを、自分も龍馬に感じたことがある。

 浜辺だった。

 龍馬は海を見ているのではない。

 その向こうを見ている。

「龍馬」

 武市は竹刀を脇へ戻した。

「先を見るのは悪いことじゃない」

 一歩、龍馬へ近づく。

「じゃが剣を持っちゅう時だけは、今、目の前におる相手を忘れるな」

 龍馬は少し考えた。

「分かった」

「ほんまか」

「たぶん」

「分かってないな」

 武市が笑った。

 太郎も吹き出した。

「太郎!」

「何じゃ」

「笑うな!」

「負けたくせに」

「負けてない!」

「負けた」

 武市があっさり言った。

「武市さん!」

「ただし」

 武市は龍馬を見る。

「次は分からん」

 龍馬の目が輝いた。

「ほんまか!」

「そこまで喜ぶな。次もわしが勝つ」

「なら、もう一本!」

「今日は終わりじゃ」

「何でじゃ!」

 太郎の笑い声が道場へ響いた。

     *

 稽古が終わった。

 龍馬が道場を出ようとした時、ふと足を止めた。

「どうした?」

 太郎が龍馬の背中越しに中を覗く。

 稽古を終えた者たちが竹刀を片づけ、汗を拭いながら談笑している。

 その向こう。

 道場の隅に一人の少年がいた。

 岡田以蔵。

 いつからいたのか、太郎には分からなかった。

 壁際に座ったまま何も言わず、稽古を見ている。

 以蔵は昔から口数が少なかった。

 喜んでいるのか。

 怒っているのか。

 何を考えているのか。

 顔からは分かりにくい。

 けれど。

 その目だけは。

 竹刀を振る者たちの動きを、じっと追っていた。

 構える。

 踏み込む。

 打つ。

 受ける。

 また構える。

 一つも見逃すまいとするように。

 そこには、羨望の光があった。

 龍馬はしばらく以蔵の横顔を見ていた。

 何も言わず、道場の外へ出る。

「龍馬?」

 太郎も後を追った。

 龍馬は軒先に落ちていた細い枝を一本拾い、二、三度振った。

「太郎」

「何じゃ」

「もう一本探せ」

「何で」

「ええき」

「自分で探せ」

「冷たいのう」

 文句を言いながらも太郎は枝を拾う。

「これでええか」

「曲がっちゅう」

「枝じゃき当たり前じゃ!」

 その声に気づいたのか。

 道場から以蔵が出てきた。

 龍馬と目が合う。

 以蔵はすぐに視線を逸らした。

「以蔵」

「……何じゃ」

 龍馬は太郎から枝を受け取ると、以蔵へ差し出した。

「持て」

「……?」

「ええき」

 以蔵は枝と龍馬を交互に見てから、黙って受け取った。

 龍馬は自分の枝を両手で握る。

「こう」

 足を開いた。

「構えてみい」

 以蔵は龍馬を見て、それから手の枝を見る。

 ゆっくり両手で握った。

「……こうか?」

「違う」

 即答だった。

 以蔵の眉がほんの少し動く。

「手ぇ近すぎじゃ。もうちょい離せ」

 以蔵が右手を動かした。

「……これか?」

「そう。ほんで足。右をちょい前」

 以蔵が足を出す。

「出しすぎ」

 少し戻す。

「戻しすぎ」

 また出す。

「……」

「怒るな」

「怒ってない」

「顔が怒っちゅう」

「いつもじゃ」

 太郎が吹き出した。

 以蔵が見る。

「……何じゃ」

「いや。何でもない」

 龍馬は枝を上段へ持ち上げた。

「ほんで、振る」

 すっと振り下ろす。

「腕だけで振るな。身体ごとじゃ」

 以蔵が真似る。

 枝が空を切った。

「違う」

「……」

「肩に力入りすぎじゃ」

 龍馬は以蔵の肩を軽く叩く。

「ここ。力抜け」

 以蔵が肩を落とす。

「そうそう。もう一回」

 以蔵が構える。

 振る。

「もう一回」

 振る。

「もう一回」

 振る。

 最初はぎこちなかった。

 枝を振るたび身体まで引っ張られ、足元がわずかに崩れる。

 それでも以蔵は何も言わない。

 龍馬に直されれば構え直し、振る。

 また直される。

 もう一度振る。

 その目は、さっき道場の隅から稽古を眺めていた時と同じだった。

 ただ。

 今はほんの少しだけ違っていた。

 太郎には分かった。

 嬉しいのだ。

 顔にも。

 声にも出ていない。

 それでも。

 以蔵は剣を教えてもらっていることが嬉しいのだ。

 やがて。

 枝が真っ直ぐに落ちた。

「以蔵」

 以蔵が止まる。

「今のじゃ」

「……これか?」

「そう」

 龍馬は頷いた。

「忘れるな」

 以蔵は自分の手を見る。

 もう一度構える。

 振り下ろす。

 龍馬が笑った。

「うん。それでええ」

 龍馬は地面に置いていた荷を拾った。

「今日はこれくらいじゃ」

 以蔵が顔を上げた。

「……もう終わりか」

 ほんのわずかだったが、太郎には残念そうに聞こえた。

「これが基本じゃき」

 龍馬は言った。

「構えて、振って、また構える。最初はそれでええ。あとは何度も繰り返しゆううちに、身体の方が分かってくるじゃろ」

「……身体が?」

「頭で考えんでも動くようになる」

 以蔵は手にした枝を見る。

「……分かった」

「毎日やれよ」

「……うん」

「さぼるな」

「……さぼらん」

「なら、また見ちゃる」

 龍馬は太郎の背中を叩いた。

「行くぞ」

「何でわしを叩く!」

「そこにおったき」

「理由になってない!」

 二人が歩き出した。

 数歩進んだところで。

「龍馬」

 小さな声がした。

 龍馬が足を止める。

「ん?」

 以蔵はまだ枝を持っていた。

 何か言おうとして。

 一度、目を逸らす。

 それから。

 もう一度龍馬を見た。

「……ありがとう」

 龍馬は一瞬目を丸くした。

 すぐに。

 いつもの顔で笑った。

「おう」

 それだけ言って歩き出す。

 太郎が横目で見る。

「嬉しそうじゃのう」

「何が」

「別に」

「何じゃそれ」

 後ろから枝が風を切る音が聞こえた。

 龍馬は振り返らなかった。

 ただ少しだけ笑っていた。

 この頃。

 岡田以蔵はまだ。

 誰かに恐れられるような名を持ってはいなかった。

 剣を握ることに憧れ。

 道場の隅から稽古を見つめる。

 口数の少ない少年だった。

     *

 そんな以蔵とは、まるで正反対の男もいた。

 岩崎弥太郎である。

 以蔵が一つ聞かれて、ようやく一つ答える男なら。

 弥太郎は一つ聞かれれば、二つどころか三つも四つも返してくる。

 しかも。

 聞かれていないことまで喋る。

「剣なんぞ、腹の足しにならん!」

 その日も。

 弥太郎は唐突にそう言った。

 龍馬は握り飯を口へ運びかけた姿勢のまま止まった。

 太郎も隣で弥太郎を見る。

「……何じゃ急に」

「急ではない。前から思いよった」

 弥太郎は二人の返事も待たず、どかりと腰を下ろした。

「朝から晩まで竹刀を振る。汗をかく。腹が減る。飯を食う。ほんでまた竹刀を振る。考えてみい。飯が余計に要るだけじゃないか」

「強うなる」

「強うなって何になる」

「もっと強うなる」

「それじゃ!」

 弥太郎が龍馬を指差した。

「何がじゃ」

「剣術をやる奴は、すぐそれを言う! 強うなる、強うなる、強うなったその先を誰も言わん!」

「武市さんは言うぞ」

「武市さんは別じゃ」

「何でじゃ」

「武市さんは賢い」

「わしは?」

「今から説明するき黙れ」

「聞いたのはわしじゃぞ!」

 太郎は黙って握り飯を食べた。

 こうなった弥太郎を止めても無駄だった。

「ええか龍馬。剣で動かせる人間は、せいぜい目の前の一人か二人じゃ」

「斬るがか」

「斬るとは言うてない!」

「二人動かすって」

「話の例えじゃ!」

「なら最初から――」

「黙って聞け!」

 太郎が吹き出した。

「太郎、おまんも笑うな。おまんにも言いゆう」

「わしは剣術やってない」

「なら聞いちょれ。得するぞ」

「何が」

「わしの話をただで聞ける」

「金取るつもりだったがか」

「いずれはな」

「もう商売しゆう……」

 龍馬が呆れたように呟いた。

 弥太郎は気にしない。

「ええか。剣は一人を動かす。じゃが銭は違う。銭があれば米が買える。材木が買える。人を雇える。馬も使える。船も――」

「船?」

 龍馬が食いついた。

 弥太郎が止まった。

「……まだ途中じゃ」

「船も買えるがか」

「買える」

「どんな船でも?」

「金があればな」

「大きい船も?」

「金があれば」

「海の向こうまで行けるような?」

「だから金があれば!」

 龍馬は握り飯を置き、身を乗り出した。

「いくら要る」

「知らん」

「何じゃ!」

「わしが今、船持っちゅうように見えるか!」

「偉そうに言うたじゃないか!」

「理屈の話じゃ!」

 太郎は握り飯を食べながら二人を見る。

 いつの間にか剣の話はどこかへ消えていた。

「ほんでな」

 弥太郎は続けた。

「船を買って終わりじゃない。物を積む」

 地面へ指で線を引く。

「土佐の物を積む。別の国へ持っていく。そこで売る。向こうの物を買う。また持って帰る」

 さらに線を引く。

「こっちで安い物が向こうでは高いかもしれん。向こうで余っちゅう物が、こっちでは足りんかもしれん」

 龍馬が地面へ身を寄せる。

 太郎も、いつの間にか握り飯を食べる手を止めていた。

「ほんなら」

 龍馬が言う。

「海の向こうとも商売できるがか」

「できるようになればな」

「異国とも?」

「だから、できるようになればじゃ!」

「面白いのう」

 龍馬の顔が変わった。

 弥太郎はそれを見逃さなかった。

「ほら見い。おまん、剣の話より目ぇ輝いちゅうぞ」

「そうか?」

「そうじゃ」

 太郎も頷く。

「さっきより楽しそうじゃ」

「おまんまで」

「龍馬」

 弥太郎は得意そうに鼻を鳴らした。

「おまんは商家の子じゃろ」

「そうじゃけど」

「なら剣ばっかり振り回しよらんと、商売も覚えろ」

「店番は退屈じゃ」

 弥太郎は大きく息を吐いた。

「これじゃき坊ちゃんは困る」

「誰が坊ちゃんじゃ!」

「商売いうんは店に座って『いらっしゃい』言うだけじゃない!」

 弥太郎は勢いよく立ち上がった。

 なぜ立つ必要があるのか。

 太郎には分からなかった。

「物を見る!」

 一歩歩く。

「値を見る!」

 もう一歩。

「人を見る!」

 龍馬と太郎の前を行ったり来たりし始める。

「どこに何があって、誰が欲しがって、いくらなら買うかを考える!」

「忙しいのう」

「まだある!」

「まだあるがか」

「当たり前じゃ!」

 弥太郎は龍馬の前で止まり、人差し指を立てた。

「そして一番大事なのは――口じゃ」

「口?」

「そうじゃ」

 自分の口を指差す。

「商売上手は話上手じゃ」

 龍馬と太郎は顔を見合わせた。

 それから同時に弥太郎を見る。

「何じゃ!」

 太郎が言った。

「それでそんなに喋るがか」

「そうじゃ!」

「ほんまか?」

「ほんまじゃ! 黙っちょったら物は売れん。これはええ物じゃ、買うた方がええ、いや絶対買え、今買え、明日では遅い――」

「それ押し売りじゃないか」

「違う! 商いじゃ!」

「同じに聞こえる」

「違う!」

 弥太郎は龍馬の前へしゃがみ込んだ。

「物を売るいうんは、その物を渡すだけじゃない。相手に『欲しい』と思わせるがじゃ」

「どうやって」

「話す」

「何を」

「何でもじゃ。天気でも飯でも女でもええ。相手が何を好きか聞いて、何を嫌いか聞いて、何に困っちゅうか聞く」

 太郎が口を挟んだ。

「聞くんじゃな」

「そうじゃ」

「弥太郎」

「何じゃ」

「おまん、聞くより喋る方が多いぞ」

「……」

 弥太郎が止まった。

 龍馬が吹き出す。

「確かに!」

「うるさい!」

「商売下手じゃ!」

「誰がじゃ!」

「自分で言うたろ。相手の話を聞けって」

「これから上手うなるんじゃ!」

 龍馬は腹を抱えて笑った。

「そもそもおまんらが喋らんから、わしが喋らないかんのじゃ! 一人が一つしか言わんなら、わしが二つ三つ言わんと話が進まん!」

「誰も頼んでない」

「太郎!」

「何じゃ」

「おまんは昔から一言多い!」

「弥太郎にだけは言われとうない」

「何じゃと!」

 三人の声が重なった。

 やがて笑いが収まる。

 弥太郎が地面に描いた線だけが残った。

 土佐。

 海。

 その向こう。

 物が行き。

 銭が戻る。

 また別の物が動く。

 龍馬はその線をじっと見ていた。

「弥太郎」

「何じゃ」

「剣じゃなくても」

 龍馬は地面を指した。

「世の中は動かせるがか」

 弥太郎はすぐには答えなかった。

 珍しいことだった。

 やがて鼻を鳴らす。

「当たり前じゃ」

「……」

「むしろ」

 弥太郎は龍馬の隣へしゃがんだ。

「剣で動かすより、そっちの方がでかい」

 龍馬は黙った。

 土の上の線を見ている。

 だが、その目には。

 太郎には見えない何かが映っているようだった。

 船か。

 海か。

 まだ行ったことのない国か。

 太郎も地面の線へ目を落とした。

「商売か」

 ぽつりと呟く。

 弥太郎が振り向いた。

「何じゃ。太郎も興味あるがか」

「いや」

 太郎は首を振る。

「龍馬よりは向いちゅうかもしれんと思っただけじゃ」

「何でじゃ!」

「おまん、銭すぐなくすじゃろ」

「あれは落としただけじゃ!」

「商売人が銭落としたら終わりじゃ」

 弥太郎が即座に言った。

「ほら見い」

「二人して何じゃ!」

 龍馬が二人を睨む。

 弥太郎は笑いながら立ち上がった。

「まあ龍馬。剣もやれ」

「うん」

「商売も覚えろ」

「うん」

「船も見ろ」

「うん」

「異国も見ろ」

「うん」

「ほんで金ができたら、わしに預けろ」

「何でじゃ!」

「増やしちゃる」

「絶対嫌じゃ!」

「信用せえ!」

「今のところ信用できるところが一つもない!」

 弥太郎の大声と龍馬の大声が、土佐の空へ響いた。

 太郎はその横で。

 地面に残った線をもう一度だけ見た。

 物を運ぶ。

 人と話す。

 値を決める。

 海を渡る。

 誰かと誰かの間をつなぐ。

 その時は。

 ただ面白い話だと思った。

 けれど。

 その言葉は太郎の中にも、小さく残った。

     *

 冬の終わり。

 まだ風は冷たかった。

 帰り道。

 太郎がふいに足を止めた。

「どうした?」

 数歩先を歩いていた龍馬が振り返る。

 太郎は答えず、道の脇へ寄った。

 小さな梅の木があった。

 まだ冬の冷たさを残した枝に、いくつかの花が咲いている。

 太郎は枝へ顔を近づけた。

「おまん、梅好きじゃのう」

 龍馬も戻ってくると、太郎の肩越しに花を覗き込んだ。

「近い」

「見えんじゃろ」

「向こうから見ろ」

「何でじゃ」

「わしが見ゆう」

「梅は逃げん」

「おまんが邪魔じゃ」

「ひどいのう」

 龍馬は太郎の隣へ移った。

 二人で同じ枝を見る。

 小さな花だった。

 華やかというほどでもない。

 それでも色の少ない景色の中では、不思議と目についた。

「何でそんなに好きなんじゃ」

 龍馬が指を伸ばした。

 太郎がその手を叩く。

「触るな」

「見るだけじゃ」

「今、触ろうとした」

「気のせいじゃ」

「手ぇ出しちょったろ」

 龍馬は叩かれた手をさすった。

「梅にまでうるさいのう」

「折ったら可哀想じゃろ」

「折らん」

「おまんは信用ならん」

「幼馴染みに言うことか」

「幼馴染みじゃき言える」

 太郎はしゃがみ込み、低いところに咲いた花を眺めた。

 龍馬も横へしゃがむ。

「ほんで」

「何じゃ」

「何で梅なんじゃ」

 太郎は少し考えた。

「冬がまだ終わってないのに、咲くじゃろ」

「うん」

「寒いのに」

「うん」

「もうすぐ春じゃって、先に教えてくれる」

 龍馬は梅から太郎へ目を移した。

「花が?」

「そうじゃ」

「喋るがか」

 太郎が横から龍馬の肩を突いた。

「そういう意味じゃない!」

 龍馬はよろけ、危うく尻餅をつきそうになった。

「危ない!」

「おまんが変なこと言うきじゃ!」

「分かっちゅう、分かっちゅう」

 龍馬は笑いながら立ち上がり、着物についた土を払った。

 そしてもう一度、梅を見上げる。

 ふざけた顔が少しだけ静かになった。

「でも、ええのう」

「何が」

「まだ寒いのに、次が来るって分かるがは」

 太郎も立ち上がった。

「じゃろ」

「わしも好きになった」

「真似するな」

「花はおまんのもんじゃない」

「さっきまで木言うちょったくせに」

「梅じゃ」

「調子ええのう」

 二人は笑いながら、また歩き始めた。

 後ろでは梅の花が、冷たい風に小さく揺れていた。

 その花が。

 いつか。

 一人の男の名の中へ入ることを。

 二人とも。

 まだ知らなかった。

     *

 やがて。

 龍馬が土佐を離れる日が来た。

 江戸へ剣術修行に出る。

 その朝。

 太郎は約束より早く浜へ来ていた。

 別に見送りが楽しみだったわけではない。

 そう自分に言い聞かせながら、足元の小石を拾っては海へ投げた。

 一つ目は波を越えた。

 二つ目も。

 三つ目は手元が狂い、波まで届かなかった。

「下手じゃのう」

 後ろから声がした。

 太郎は振り返らず、もう一つ小石を拾う。

「遅い」

「まだ約束の時刻じゃ」

「見送りされる奴が最後に来るな」

「最後じゃない。おまんしかおらん」

 太郎は振り返った。

 龍馬は荷を背負っていた。

 見慣れた顔。

 見慣れた着物。

 なのに。

 背中に荷があるだけで、いつもとは違って見えた。

 本当に行くのだ。

 その実感が、そこで初めて湧いた。

 太郎は手の中の小石を海へ投げた。

 今度は波の向こうへ落ちた。

「ほんまに行くがか」

「ここまで来て行かん言うたら、姉ちゃんに殺される」

「乙女さん怖いきのう」

「怖いぞ」

 龍馬は真顔で頷いた。

 太郎が吹き出す。

「江戸は遠いぞ」

「知っちゅう」

「迷うぞ」

「子供じゃない」

「おまんは迷う」

「何で決めつける」

 龍馬は荷の紐を肩へ掛け直した。

 少し重そうだった。

 太郎は無意識に手を伸ばしかけた。

 だが。

 途中で止めた。

 持ってやるものでもない。

 今日から龍馬は、それを自分で背負っていく。

「この前も道を間違えた」

 代わりにそう言った。

「あれは近道しようとしただけじゃ」

「遠回りになった」

「結果だけ見て物を言うな」

「道は結果じゃ」

「何じゃその理屈」

 二人は笑った。

 いつものように。

 けれど。

 笑い声が途切れると。

 次に何を言えばいいのか分からなくなった。

 波の音だけが残った。

 龍馬が海へ顔を向けた。

 太郎も同じ方を見る。

 子供の頃から何度も見た海だった。

 同じ海なのに。

 今日は向こう側が、いつもより遠く見えた。

「龍馬」

「何じゃ」

「向こう」

 太郎は顎で海を示した。

「見えるか」

「何が」

「おまんが、ずっと見ゆうもん」

 龍馬は答えず、目を細めた。

 沖を船が一艘、ゆっくり横切っている。

 風を受けた帆が膨らんでいた。

「まだ見えん」

 しばらくして龍馬が言った。

 太郎は横顔を見る。

「じゃあ、何で行く」

 龍馬は海を見たまま笑った。

「見えんき、見に行く」

「……やっぱり変な奴じゃ」

「知っちゅう」

 龍馬は荷を背負い直し、浜から道へ上がった。

「ほんなら」

 片手を上げる。

「行ってくる」

「ああ」

 龍馬が歩き出した。

 太郎はその場に残った。

 一歩。

 二歩。

 龍馬の背中が離れていく。

 さっきまで隣にいた男が。

 少しずつ小さくなる。

 太郎は口を開いた。

 閉じた。

 気をつけろ。

 手紙を書け。

 江戸で馬鹿なことをするな。

 言いたいことはいくらでもあった。

 けれど。

 どれも違う気がした。

「龍馬!」

 結局。

 名前を呼んだ。

 龍馬が足を止め、振り返った。

「何じゃ!」

 太郎は二、三歩、龍馬の方へ歩いた。

「帰ってこい」

 龍馬の表情が変わった。

 太郎自身。

 なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。

 江戸へ修行に行くだけだ。

 旅立つ者なら、いつか帰ってくる。

 当たり前のことを言っているだけなのに。

 どうしてか。

 言っておかなければならない気がした。

「何じゃ急に」

 龍馬が笑った。

 太郎は笑わなかった。

「ええき」

 もう一歩近づく。

「帰ってこい」

 龍馬の笑みも消えた。

「江戸へ行ってもええ」

「ああ」

「もっと遠くへ行ってもええ」

「うん」

「海の向こうへ行ってもええ」

「おう」

「船でも何でも乗れ」

「おう」

「外国でも行ってこい」

「行けたらのう」

「知らん女を嫁にしても――」

 龍馬が目を丸くした。

「そこまでええがか?」

「……やっぱりそれは駄目じゃ」

「何でじゃ!」

 太郎は思わず笑った。

 龍馬も笑う。

 ほんの少しだけ。

 いつもの二人に戻った。

 だが。

 太郎はすぐに龍馬を真っ直ぐ見た。

「どこへ行ってもええ」

 龍馬も太郎を見る。

「けんど」

 太郎は言った。

「帰ってこい」

 今度は龍馬もふざけなかった。

「分かった」

「ほんまか」

「ほんまじゃ」

「龍馬は適当じゃき信用できん」

「失礼な」

「約束せえ」

「分かった、分かった」

 太郎は手を出した。

 龍馬がその手を見る。

「何じゃ」

「約束」

「子供みたいじゃのう」

「嫌ならええ」

 太郎が手を引こうとした。

 その手首を龍馬が掴んだ。

「誰が嫌言うた」

 そのまま手を握る。

 太郎も握り返した。

 子供の頃。

 喧嘩をした後にも。

 こんなふうに手を握ったことがあった。

 どちらから謝るのも嫌で。

 何となく手を出して。

 それで終わりにした。

 龍馬の手は。

 あの頃より大きくなっていた。

「帰ってくる」

 龍馬が言った。

「うん」

「必ず」

「うん」

「待っちょれ」

「待っちょる」

 二人の手が離れた。

 今度こそ。

 龍馬が歩き出す。

 太郎は追わなかった。

 十歩ほど進んで。

 龍馬が振り返った。

 太郎が手を上げる。

 龍馬も上げた。

 さらに歩く。

 また振り返る。

「前見て歩け!」

 太郎が叫んだ。

「分かっちゅう!」

 龍馬が前を向く。

 すぐ。

 また振り返った。

「前見ろ言うたろ!」

「最後じゃ!」

「さっきも最後みたいに振り返ったじゃろ!」

「今度こそじゃ!」

「早う行け!」

「おまんが呼び止めたがじゃろ!」

「もうええ!」

 遠ざかりながら龍馬が笑った。

 太郎も笑った。

 その笑い声が。

 波の音へ溶けていく。

 やがて。

 龍馬の背中は道の向こうへ消えた。

 太郎は手を下ろした。

 急に。

 静かになった。

 自分の右手を見る。

 さっきまで龍馬と握っていた手だった。

 太郎はその手を一度強く握り。

 ゆっくり開いた。

 海から風が吹いた。

 振り返れば。

 少し離れたところに梅の木があった。

 冬の終わりに咲いた花が。

 まだいくつか枝に残っている。

 太郎はそこまで歩いた。

 一輪の花へ指を近づける。

 触れずに止めた。

「春じゃのう」

 誰に言うでもなく呟いた。

 龍馬は行った。

 だが。

 帰ってくる。

 約束した。

 なら。

 待てばいい。

 太郎は梅から離れ、家へ向かって歩き出した。

 この時の太郎は。

 まだ知らなかった。

 龍馬が帰ってくるより先に。

 自分の方が。

 土佐を出ることになるとは。

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