序章 西郷どんからの手紙
初めて投稿します。
序章 西郷どんからの手紙
明治十年の秋、京には朝から冷たい雨が降っていた。
夏の名残を洗い流すような雨だった。軒先から落ちる雫は絶え間なく庭石を濡らし、道を行く人々は肩をすぼめながら足早に通り過ぎていく。
おりょうは、薄暗い部屋で針仕事をしていた。
雨の日は、どうにも昔のことを思い出してしまう。
寺田屋のこと、薩摩へ向かった旅のこと。そして、九年前のあの日のこと。
坂本龍馬が京の近江屋で殺されたという知らせを受けた時、おりょうはすぐには信じられなかった。
あれほど生き生きと未来を語っていた男が、突然この世からいなくなるなど、考えられなかったのだ。
龍馬はいつも、少し先の時代を見ているような男だった。
世の中が変われば、誰もが自由に海を渡れるようになる。身分に縛られず、自分の才覚で商いができる世になる。
そんな話をする時の龍馬は、まるで子供のように目を輝かせていた。
おりょうは、その横顔を見るのが好きだった。
けれど、龍馬が思い描いた新しい時代が訪れた時、彼はもう隣にいなかった。
明治という世になっても、おりょうの中には、幕末の京で止まったままの時間があった。
針を動かしていた手が、ふと止まる。
庭に降る雨を見つめながら、おりょうは小さく息を吐いた。
その時、表の戸を叩く音がした。
「ごめんください」
雨音に紛れそうな声だった。
おりょうが戸口へ向かうと、そこには雨に濡れた男が立っていた。旅装の裾には泥が跳ね、長い道のりを歩いてきたことがうかがえる。
「坂本おりょう様でいらっしゃいますか」
「……そうですが」
男は懐から、布に包んだ一通の封書を取り出した。
「西郷隆盛先生より、お預かりしたものでございます」
おりょうは思わず男の顔を見た。
「西郷さんから?」
「はい。先生がもしお戻りにならなかった時には、必ずお届けするようにと」
その言葉に、おりょうの胸が沈んだ。
西郷隆盛が城山で亡くなったという知らせは、すでに届いていた。
かつて龍馬と親しく交わり、新しい国をつくるために働いた男が、今度はその国の軍と戦い、命を落としたという。
時代とは、何と皮肉なものだろう。
おりょうは、男から封書を受け取った。
封には西郷の名があり、表には確かに自分の名が記されていた。
「……わざわざ、ありがとうございました」
男は深く頭を下げ、再び雨の中へ戻っていった。
おりょうは戸を閉めた後もしばらく、その場に立っていた。
西郷が、自分に何の用事だろう。
龍馬のことだろうか。
それとも、かつての知り合いとして、何か伝えたいことがあったのだろうか。
封書は、見た目よりもずっしりと重く感じられた。
部屋へ戻り、灯りのそばに座る。
おりょうは布をほどき、封を開けた。
中には、幾枚もの紙が丁寧に折り畳まれていた。
西郷がこれほど長い手紙を自分に宛てて書いたことに驚きながら、おりょうは最初の一枚を広げた。
『おりょう殿
突然の文、さぞ驚かれたことでしょう。
この文がそなたの手に届いたということは、わしはもう、この世にはおらぬのでしょうな。
本来ならば、直接お会いしてお話しすべきことです。しかし、それが叶わぬ時のために、こうして筆を執りました』
おりょうは、そこで一度目を上げた。
雨は相変わらず降り続いている。
西郷は、何を伝えようとしているのだろう。
もう一度、手紙へ目を落とした。
『これから書くことは、にわかには信じられぬ話かもしれません。
わし自身、長い間、このことを胸に秘めてまいりました。
そなたに真実を告げずにいたことについて、まずは深くお詫び申し上げます。
しかし、何も知らぬままにしておくことは、もはや許されぬと思うに至りました』
おりょうの指が止まった。
真実。
その二文字が、妙に胸に引っかかった。
西郷が自分に隠していたことなど、あるのだろうか。
そして、それがなぜ今になって明かされるのか。
胸の奥に、説明のつかない不安が広がっていく。
おりょうは次の一節を読んだ。
『そなたの夫、坂本龍馬について、お伝えせねばならぬことがあります。
その話をするには、まず一人の男について知っていただかなければなりません。
その男の名は、才谷太郎。
龍馬と同じ土佐に生まれ、幼き頃から龍馬と深い縁を持った男です。
後に才谷梅太郎と名乗ることになる、この男の存在を抜きにしては、あの近江屋の夜について語ることはできません』
「……才谷、梅太郎?」
おりょうは思わず声に出した。
聞き覚えのある名だった。
龍馬が用いたことのある名に、よく似ている。
だが、手紙には別の男の名として書かれていた。
おりょうは眉を寄せた。
なぜ、西郷は今になって龍馬の幼なじみの話をしようとしているのだろう。
九年前の近江屋と、その男にどのような関わりがあるというのか。
おりょうは次の紙を広げた。
西郷の筆跡は、ところどころ力強く、またあるところでは、何かをためらうようにゆっくりと記されていた。
まるで、書き手が目の前に座り、言葉を選びながら語りかけているようだった。
『おりょう殿。
わしが知る限りのことを、順を追ってお話ししたいと思います。
これは坂本龍馬だけの話ではありません。
龍馬と共に時代を歩みながら、その名を世に残すことのなかった、もう一人の男の話でもあります。
まずは、二人がまだ土佐の少年だった頃から、お聞きくだされ』
おりょうは、紙を持つ手に少し力を込めた。
窓の外で、雨が強くなった。
軒を打つ雨音が部屋を満たしていく中、おりょうは西郷の言葉を追い始めた。
九年前に終わったはずの物語が、今、彼女の知らないところから静かに開かれようとしていた。
プロット自体は数年前に考えていたんですが、紆余曲折を得てようやくまとまったので、書き始めました。




