第二十二章 二つの約束
十一月に入ってから、京の町には落ち着かない空気が漂っていた。
大政奉還によって幕府が政権を朝廷に返したとはいえ、何がどう変わるのか、町の人々にはまだ分からなかった。
役所はこれまで通りに仕事をしている。武士たちは刀を差して歩き、商家ではいつもと変わらず帳面をつけている。
だが、政治に関わる者たちの間では、次に誰が何を決めるのかという問題が、日に日に重みを増していた。
龍馬のもとにも、京や大坂、江戸からさまざまな話が届いていた。
幕府の権限はどこまで残るのか。
諸藩は新しい政にどう関わるのか。
そして、互いに譲れぬ考えを持つ者たちが、刀を抜かずに済む道はあるのか。
龍馬は近江屋の二階で書付を広げ、届いた知らせを読み比べていた。
階下では醤油樽を運ぶ音がしている。
帳面に向かう商人たちの声が時折聞こえ、表では客が値を尋ねていた。
龍馬は筆を置き、しばらくその音を聞いていた。
世の中を変えるというのは、こういう暮らしをどう守るかということでもある。
そう考えるようになったのは、太郎が商いを始めてからかもしれなかった。
*
その日の昼過ぎ、一通の書状が龍馬のもとへ届けられた。
差出人の名を見て、龍馬は少し驚いた。
「勝先生か」
封を開き、書状を読み始める。
勝海舟らしい、飾り気のない文面だった。
大政奉還を経ても、幕府の内側にはさまざまな考えがあること。徳川家の行く末を案じる者もいれば、政権を返した以上は新しい仕組みを受け入れるべきだと考える者もいること。
そして、政権の形を変えるだけでは、人々の対立は収まらないだろうという懸念が綴られていた。
龍馬は何度か読み返した。
書状の末尾には、短い一文があった。
『政を返したところで、人の心まで返せるわけじゃねえ』
龍馬は思わず笑った。
「先生らしいのう」
だが、笑ったあとも、その言葉が胸に残った。
幕府の者にとって、政権を返すということは、長く信じてきた秩序を手放すことでもある。
薩摩や長州の者にとっては、それだけでは足りないと感じるかもしれない。
どちらにも、これまで積み重ねてきた思いがある。
龍馬は書状を畳んだ。
この話は、西郷に直接伝えた方がいい。
勝の考えをそのまま受け入れてもらうためではない。互いの考えがどこで食い違っているのかを、確かめるためだった。
*
龍馬が西郷隆盛に会いたいと伝えると、数日後、薩摩藩邸から返事が届いた。
西郷もまた、龍馬と話したいことがあるという。
ただし、会談は人目を避けて行いたいとのことだった。
龍馬は近江屋の二階で、その返事を読んだ。
ちょうど訪ねて来ていた中岡が、向かいに座っていた。
「西郷どんと会うがか」
「ああ。勝先生からも書状が来ちゅう。今のうちに、話しておきたいことがある」
中岡は頷いた。
「政を返したとはいえ、これからどうするかは決まっちょらんからのう」
「そうじゃ。薩摩も幕府も、それぞれ考えがある。わしは、その間で話せることがまだあると思うちゅう」
中岡は少し考えた。
「西郷どんは、簡単には考えを変えんぞ」
「分かっちゅう」
龍馬は笑った。
「わしも、言われたことをそのまま聞くつもりはない」
中岡は笑い返した。
「それなら、長い話になりそうじゃな」
「そうかもしれん」
龍馬は書状を机に置いた。
「けんど、会わずに決めつけるよりはええ」
中岡は頷いた。
「それはそうじゃ」
*
その日の夕方、太郎が近江屋を訪れた。
懐には、長崎から届いた返書が入っていた。
薬種を扱う商家との取引について、ようやく船の都合がつきそうだという知らせだった。
太郎はまず近江屋の主人に挨拶をした。
「先日は、醤油の運び方を教えていただき、ありがとうございました」
主人は笑った。
「お役に立てたなら何よりです」
「おかげで、荷を運ぶ時に気をつけることが少し分かりました」
「商いは、やってみなければ分からぬことも多いですからな」
太郎は頷いた。
「また、いろいろ教えていただければと思うちょります」
「私で分かることでしたら、いつでも」
主人は少し考えてから言った。
「そういえば、明後日の午後でしたら、荷を運ぶ者も店におります。船荷のことをお聞きになりたいなら、話をしてみますか」
太郎の顔が明るくなった。
「ぜひ、お願いします」
主人は頷いた。
「では、明後日の午後に」
太郎は丁寧に頭を下げた。
そのあと二階へ上がると、龍馬と中岡が待っていた。
「おう、太郎」
龍馬が声をかけた。
「何やら嬉しそうじゃな」
「近江屋の主人に、荷運びの話を聞かせてもらえることになった」
中岡が笑った。
「また商いか」
「またとは何じゃ。わしには大事な仕事じゃ」
龍馬は笑った。
「それはええことじゃ」
太郎は腰を下ろし、長崎から届いた返書を取り出した。
「それに、薬種の方も話が進みそうじゃ。船の都合がつけば、京へ荷を送れる」
龍馬は頷いた。
「いよいよじゃな」
「まだまだじゃ。けんど、一つずつ進めるしかない」
中岡は太郎を見た。
「おまん、前よりずっと商人らしくなったのう」
太郎は笑った。
「そう見えるなら嬉しいが、まだ分からんことばかりじゃ」
*
ひとしきり商いの話をしたあと、龍馬は太郎に西郷との会談について話した。
「明後日、薩摩藩邸へ行くことになった」
太郎は顔を上げた。
「西郷どんに会うがか」
「ああ。勝先生から書状が来た。今の幕府の内情について、先生の考えが書かれちゅう」
龍馬は書状を太郎に見せた。
太郎はゆっくり読んだ。
読み終えると、しばらく考えていた。
「勝先生も、いろいろ心配しちゅうがじゃな」
「そうじゃ」
「西郷どんとは、考えが違うところもあるじゃろう」
「あるじゃろうな」
龍馬は頷いた。
「だから、わしが直接会って話したい」
太郎は書状を返した。
「それは、おまんが行かんといかん仕事じゃな」
龍馬は少し笑った。
「そう思うか」
「当たり前じゃ。わしが勝先生の書状を持って行ったところで、西郷どんと政の話をすることはできん」
中岡が頷いた。
「龍馬にしか話せんことがある」
太郎は龍馬を見た。
「それで、わしに頼みたいことがあるがじゃろ」
龍馬は頷いた。
「実は、同じ日の午後に、近江屋へ訪ねて来る者がおる」
「誰じゃ」
「土佐の者で、以前から話をしちゅう相手じゃ。京の動きについて、知らせたいことがあると言うちゅう」
太郎は少し考えた。
「その人は、わしのことを知っちゅうがか」
「いや。知らん」
太郎は龍馬を見た。
「それなら、前に決めた約束を守らんといかん」
龍馬は頷いた。
「分かっちゅう。会う相手のことは、わしが確かめてある。おまんには話を聞いて、書き留めてもらうだけでええ。返事はせんでええ」
中岡が言った。
「わしも、その日は近江屋へ行けると思う。陸援隊の用が済んだら、様子を見に来る」
太郎は頷いた。
「それなら、わしも都合がええ。近江屋の主人と荷の話をする約束もある」
龍馬は少し驚いた。
「同じ日か」
「そうじゃ。午後に来てくれと言われちゅう」
龍馬は笑った。
「それなら、ちょうどええのう」
太郎は頷いた。
「けんど、龍馬。わしが話を聞く相手には、どこまで話してええか、きちんと決めておいてくれ」
「ああ」
「わしは、おまんの代わりに決め事をするつもりはない。聞いたことを伝えるだけじゃ」
「分かっちゅう」
龍馬は真剣な顔で頷いた。
「それで十分じゃ」
*
その夜、太郎は宿へ戻り、帳面を開いた。
明後日の予定を書き留める。
近江屋の主人と荷運びの相談。
長崎からの荷について、確認すること。
龍馬を訪ねる者の話を聞くこと。
聞いた内容を龍馬へ伝えること。
太郎は筆を止めた。
こうして並べてみると、商いの仕事と龍馬の代役が、同じ一日の中に収まっていた。
少し前なら、龍馬の仕事だけで一日が終わっていたかもしれない。
だが今は、自分の仕事もある。
太郎は帳面の端に、小さく書き加えた。
『近江屋主人へ礼を伝えること』
そして帳面を閉じた。
*
見廻組の今井信郎は、近江屋の周辺に坂本龍馬らしき男が出入りしているという報告を受けていた。
河原町の商家。
醤油問屋。
そこに、坂本によく似た男が訪ねているという。
今井は報告を読み、少し考えた。
「近江屋か」
佐々木只三郎は、向かいに座っていた。
「確かな話か」
「まだ分かりません。ただ、以前から調べていた才谷という男も、近くで姿を見られています」
佐々木は眉を寄せた。
「同じ場所に、二人が出入りしているのか」
「その可能性があります」
佐々木はしばらく考えた。
「ならば、なおさら急ぐな」
今井は顔を上げた。
「はい」
「坂本龍馬を探しているつもりで、別の男を追っているのかもしれん。どちらが何をしているのか、確かめる必要がある」
今井は頷いた。
「見張りを続けます」
佐々木は静かに言った。
「新選組にも、近江屋の名が伝わっているかもしれん。こちらが動く前に、向こうが何を掴んでいるかも調べておけ」
今井は頭を下げた。
*
一方、新選組の土方歳三も、河原町の商家について報告を受けていた。
「坂本龍馬らしき男が、近江屋という醤油問屋に出入りしているそうです」
土方は顔を上げた。
「近江屋か」
「はい」
「確かなのか」
「顔を見た者が、坂本に間違いないと言っております」
土方は少し考えた。
「顔だけでは分からん。ほかに何かあるか」
「土佐の者が訪ねて来ることもあるようです」
土方は頷いた。
「それなら、調べる価値はある」
隊士が尋ねた。
「踏み込みますか」
「まだ早い」
土方は静かに答えた。
「商家だ。間違えれば、何の関わりもない者を巻き込む」
隊士は頭を下げた。
「まずは、誰が出入りしているのかを確かめろ」
「承知しました」
土方は机の上の書付を見た。
見廻組も、同じ場所を調べているかもしれない。
だが、先に動けばよいというものではない。
確かな相手を見定めることが必要だった。
*
会談の前日、龍馬は太郎と中岡を近江屋へ呼んだ。
西郷との話し合いについて、改めて予定を伝えるためだった。
「明日は、昼過ぎに薩摩藩邸へ行く。話が長くなれば、戻るのは夜になるかもしれん」
中岡は頷いた。
「分かった。わしは陸援隊の用を済ませてから、近江屋へ来る」
太郎は帳面を開いた。
「わしは午後に主人と荷の話をする。そのあと、龍馬を訪ねる人の話を聞く」
龍馬は頷いた。
「相手には、話を聞くだけだと伝えてある」
太郎は少し考えた。
「その人が来なかったら、どうする」
「無理に待たんでええ。自分の仕事を済ませて帰ってくれ」
「分かった」
中岡が言った。
「わしも、陸援隊の仕事が長引くかもしれん。もし遅れたら、太郎は一人で無理をするな」
太郎は頷いた。
「もちろんじゃ」
龍馬は二人を見た。
「わしも、用が済んだら戻る」
太郎は笑った。
「西郷どんと話すなら、そう簡単には終わらんじゃろ」
龍馬も笑った。
「そうかもしれんのう」
中岡が言った。
「おまんら二人とも、話し始めたら長いきのう」
「慎太郎に言われとうない」
龍馬がそう言うと、太郎も笑った。
「ほんまじゃ。おまんも人のことは言えん」
三人はしばらく笑い合った。
そのあと龍馬は、勝から届いた書状をもう一度手に取った。
「明日は、よう話してくる」
中岡は頷いた。
「頼むぞ」
太郎も頷いた。
「こっちは任せちょけ」
龍馬は二人を見た。
「ああ。頼んだ」
*
翌朝、京の空は薄く曇っていた。
近江屋では、いつものように店が開かれ、奉公人たちが荷を運び始めていた。
主人は帳場で書付を確かめ、配達に出る者へ声をかけていた。
龍馬は二階で身支度を整えた。
懐には、勝海舟から届いた書状が入っている。
その文面を思い返しながら、龍馬は帯を締めた。
政を返したところで、人の心まで返せるわけではない。
龍馬は小さく頷いた。
今日、西郷と何を話すべきか。
考えたいことは、まだいくつもあった。
階下へ下りると、主人が声をかけた。
「お出かけですか、坂本さん」
「はい。少し人に会ってきます」
「お気をつけて」
「ありがとうございます」
龍馬は頭を下げ、近江屋を出た。
河原町の通りには、朝の人々が行き交っていた。
少し離れたところで、荷車を引く男が道を譲り、龍馬はその脇を通り過ぎた。
龍馬は薩摩藩邸へ向かって歩いていった。
その頃、太郎も宿で身支度をしていた。
長崎からの返書と帳面を懐に入れ、近江屋の主人に尋ねたいことを確かめる。
午後には、龍馬を訪ねる者の話も聞く予定だった。
太郎は帳面を閉じ、立ち上がった。
中岡慎太郎は陸援隊の者たちと、京の情勢について話し合っていた。午後には近江屋へ顔を出すつもりでいたが、まずは目の前の仕事を済ませなければならない。
三人は、それぞれの用を抱えて朝を迎えていた。
近江屋では、主人が奉公人に声をかけた。
「昼過ぎには才谷さんがお見えになる。荷運びの話を聞きたいそうだから、手が空いたら頼むよ」
「はい、承知しました」
奉公人は返事をし、店の奥へ戻っていった。
主人は帳面を開き、今日の注文を確かめ始めた。




