第二十一章 醤油問屋の灯
京の朝は、日に日に冷たくなっていた。
河原町通を行く人々は襟元を合わせ、店先では丁稚たちが白い息を吐きながら働いている。荷車の車輪が石畳を軋ませ、軒先からは前夜の雨の雫が落ちていた。
醤油問屋の近江屋では、まだ空が明るくなりきらないうちから仕事が始まっていた。
店の奥には大小の樽が並び、帳場では主人が取引の書付を確かめている。奉公人たちは荷を運び、空いた樽を片づけ、届け先ごとに品を揃えていた。
醤油は、どこの家でも使うものだった。
京の町で暮らす人々にとって、なくてはならない品である。
だから近江屋の仕事は、世の中がどれほど騒がしくなろうとも止まらなかった。
幕府が政権を返したという話が町中に広まっても、朝になれば客は醤油を買いに来る。料理屋からは注文が入り、得意先への配達も続く。
主人にとって、政治の行く末は気がかりだった。
だが、それ以上に、今日届けるはずの荷を滞りなく届けることが大切だった。
そんな近江屋に、土佐の坂本龍馬が身を寄せることになる。
*
龍馬が宿を変えることを考え始めたのは、京で自分の名を尋ねる者が増えていると知ったからだった。
以前から身の危険を感じることはあった。
寺田屋で襲われた時の傷も、完全に忘れたわけではない。
だが近頃は、ただの偶然とは思えないことが続いていた。
約束した相手のもとへ向かう途中、同じ男を何度も見かける。
人と会った翌日には、その場所へ武士が尋ねて来たという話を聞く。
宿の者も、坂本という名を聞くことが増えたと言っていた。
龍馬は、しばらく考えた末、中岡と太郎に相談した。
「今の宿に、いつまでもおるわけにはいかんかもしれん」
中岡は頷いた。
「わしも、そう思うちょった。人の出入りが多い旅籠は、目立ちやすい」
太郎は二人の話を聞きながら、少し考えた。
「けんど、宿を変えたところで、同じような旅籠ならまた見つかるんじゃないか」
「そうじゃな」
龍馬は頷いた。
「それで、知り合いの商家に世話になれんかと思うちゅう」
中岡が尋ねた。
「どこの家じゃ」
「河原町の近江屋じゃ。醤油を扱う商家で、主人とも話ができる」
太郎は顔を上げた。
「醤油問屋か」
「そうじゃ」
「それなら、荷の出入りも多いじゃろうな」
龍馬は笑った。
「おまん、もう商いのことを考えちゅうがか」
「当たり前じゃ。醤油も運ばにゃ売れん。どこから仕入れて、どうやって京へ運ぶのか、聞いてみたい」
中岡が呆れたように笑った。
「太郎。今は龍馬の身の安全の話じゃ」
「分かっちゅう。けんど、商家に身を寄せるなら、その家の仕事を知らんといかんじゃろ。荷の出入りが多いなら、人の目もある。隠れるには都合がええこともあるが、逆に見知らぬ者が入りやすいかもしれん」
中岡は太郎を見た。
「……なるほど。それは確かにそうじゃ」
龍馬も頷いた。
「商家だから安心というわけではない。じゃが、旅籠よりは人の出入りを見分けやすいかもしれん」
中岡は腕を組んだ。
「主人が信用できるかどうかも大事じゃ。それに、匿うことで迷惑をかけるかもしれん」
龍馬は静かに答えた。
「そこは、きちんと話をするつもりじゃ」
*
近江屋の主人は、龍馬の話を最後まで黙って聞いていた。
帳場の奥に通された龍馬は、京での動きが以前より危うくなっていること、しばらく人目を避けて身を置ける場所を探していることを説明した。
主人はすぐには返事をしなかった。
店の表からは、奉公人が客と話す声が聞こえている。
奥では樽を動かす音がした。
主人は、その音に一度耳を傾けてから口を開いた。
「坂本さん。お話は分かりました。しかし、うちは商いをしている家です」
「承知しております」
「家族もおりますし、奉公人もおります。お泊めすることで何か騒ぎが起きれば、皆に迷惑がかかります」
龍馬は深く頭を下げた。
「その通りです。無理を言うつもりはありません。もし難しいようでしたら、別の場所を探します」
主人は龍馬を見た。
しばらく沈黙が続いた。
「坂本さんが、ただの旅人ではないことは存じております」
主人はゆっくりと言った。
「世の中が変わろうとしていることも、商人なりに感じております。ただ、うちの者たちは、毎日働いて暮らしているだけです。難しい政治の話は分かりません」
「はい」
「それでも、困っている方を見て、何もせずに済ませるのも気が引けます」
龍馬は顔を上げた。
主人は少し考えた末、言った。
「しばらくの間でしたら、奥の部屋をお使いください。ただし、店の者たちに余計な心配をかけぬよう、出入りには気をつけていただきたい」
龍馬はもう一度、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。ご厚意、忘れません」
主人は静かに頷いた。
「どうか、何事もなくお過ごしください」
*
数日後、太郎は龍馬に案内されて近江屋を訪れた。
表から入ると、醤油の香りがふわりと漂ってきた。
太郎は思わず足を止めた。
「ほう……」
龍馬が振り返った。
「どうした」
「ええ匂いじゃのう」
「醤油の匂いじゃ」
「それは分かっちゅう」
太郎は笑った。
「けんど、店によって匂いが違うもんじゃな」
龍馬は呆れたように笑った。
「おまん、ほんまに商いのことばかりじゃ」
主人が出てくると、龍馬は太郎を紹介した。
「こちらは才谷太郎。昔からの友人です」
主人は太郎の顔を見て、少し驚いた。
「これは……よく似ておられますな」
太郎は苦笑した。
「昔から、よう間違われます」
龍馬は笑っていたが、主人は二人を交互に見ていた。
「なるほど。そういうこともあるのですな」
主人はそれ以上、深く尋ねなかった。
太郎は、店の奥に並ぶ樽へ目を向けた。
「こちらの醤油は、どこから仕入れられちゅうがですか」
主人は少し驚いたようだったが、すぐに答えた。
「いくつかの土地から入れております。品によって違いますが、船で運ばれてくるものもあります」
「やっぱりそうですか。樽は重いでしょう。運ぶ時に漏れたりはせんがですか」
主人は笑った。
「それはあります。樽の具合が悪ければ、荷を運ぶ途中で損をすることもあります」
太郎は頷いた。
「なるほど……」
龍馬が横から言った。
「太郎。今日は見物に来たわけではないぞ」
「分かっちゅう。けんど、せっかく醤油問屋へ来たんじゃ。少しくらい聞いてもええじゃろ」
主人は笑った。
「構いませんよ。商いに興味がおありですか」
「はい。まだ始めたばかりですが、長崎と京をつなぐ商いをしようと思うちょります」
「それは面白い」
主人は太郎の顔を見た。
「商いは、品を売るだけでは済みませんからな。運ぶ者、待つ者、代金を払う者。それぞれの都合を考えねばなりません」
太郎は深く頷いた。
「わしも、ようやくそれが分かり始めたところです」
龍馬は二人を見ながら、少し嬉しそうに笑っていた。
*
近江屋の奥の部屋は、広くはなかった。
だが、落ち着いて話をするには十分だった。
龍馬は太郎と中岡を招き、今後の動きについて相談した。
「ここなら、しばらくは人目を避けられると思う」
中岡は部屋を見回した。
「表は商家じゃから、旅籠とは違う。けんど、人の出入りが多いことには変わりない」
太郎は窓の位置を確かめた。
「店の者が知らん顔をしてくれるとしても、何度も違う人間が訪ねてきたら目立つじゃろうな」
「そうじゃ」
龍馬は頷いた。
「だから、会う相手は限るつもりじゃ」
中岡は少し考えた。
「わしらが出入りする時も、なるべく人目につかんようにした方がええ」
太郎は頷いた。
「それと、店の仕事の邪魔はせんことじゃ。荷を運ぶ時間に表で立ち話でもしておったら、すぐ目立つ」
龍馬は笑った。
「おまん、すっかり店の者みたいじゃな」
「商家の邪魔をするのは、商売人として気が引けるんじゃ」
中岡も笑った。
「太郎らしいのう」
龍馬は二人を見た。
「それから、太郎。ここでわしの代役をしてもらうこともあるかもしれん」
太郎は龍馬を見た。
「どんな時じゃ」
「わしが大坂へ出ている間に、どうしても坂本に会いたいという者が来るかもしれん。そういう時、ここで話を聞いてもらえれば助かる」
太郎は少し考えた。
「前に決めた通りじゃな。知らん相手には会わん。大事な返事はせん。危ないと思うたらやめる」
「ああ。それでええ」
中岡が言った。
「それなら、わしにも知らせてくれ。太郎がここにおる時は、できるだけ様子を見に来る」
太郎は笑った。
「おまん、そんなに心配か」
「心配じゃ。おまんは時々、妙に人を信用するところがある」
「それは龍馬の方じゃろ」
龍馬が笑った。
「わしまで巻き込むな」
三人は顔を見合わせ、笑った。
*
その頃、見廻組の今井信郎は、河原町周辺の動きを調べていた。
坂本龍馬が以前の宿から姿を見せなくなったという報告があった。
しかし、京から出たという確かな話もない。
才谷太郎は相変わらず商家へ出入りしているが、時折姿を見失うことがある。
今井は、二人の動きを別々に追う必要があると考えていた。
同じ顔をした男が二人いる。
それだけで、目撃証言は当てにならなくなる。
今井は、調べたことを一つずつ書き留めた。
坂本龍馬、所在不明。
才谷太郎、京に滞在。
両者の接触、確認できず。
今井は筆を止めた。
この二人は、何をしようとしているのか。
単に追っ手を惑わせるためだけなら、ここまで長く別々に動く必要があるだろうか。
今井には、まだ分からなかった。
*
一方、新選組の土方歳三も、坂本龍馬の所在について報告を受けていた。
「宿を変えたようです」
隊士の言葉に、土方は顔を上げた。
「どこへだ」
「まだ分かりません。ただ、河原町の辺りで姿を見たという者がおります」
土方は少し考えた。
「河原町か」
「はい」
「商家も多い場所だな」
隊士は頷いた。
土方は机の上の地図へ目を落とした。
「旅籠にいないなら、知り合いの家に身を寄せているのかもしれん」
「調べますか」
「調べろ。ただし、騒ぎは起こすな」
隊士は頭を下げた。
土方は地図を見つめた。
見廻組も坂本を追っている。
それは分かっていた。
だが、どちらが先に居場所を掴むかは、まだ分からない。
土方は静かに言った。
「近藤先生には、確かなことが分かってから伝える」
*
近江屋に身を寄せるようになってから、龍馬は以前より落ち着いて書き物ができるようになった。
朝は店の者たちが働く音で目を覚ます。
昼には客の声が聞こえ、夕方には荷を片づける音がする。
夜になると、店の灯りが一つずつ消えていく。
その暮らしの音が、龍馬には不思議と心地よかった。
ある夕方、太郎が近江屋を訪れると、龍馬は机に向かって何かを書いていた。
「何を書きゆうがじゃ」
「ちょっとした考え事じゃ」
太郎は龍馬の書付を覗いた。
「また難しい字が並んじゅうのう」
「おまんには難しいか」
「字が難しいんじゃない。おまんの字が読みにくいんじゃ」
龍馬は笑った。
「またそれか」
太郎は腰を下ろし、懐から帳面を出した。
龍馬はその帳面を見た。
「商いの方はどうじゃ」
「長崎から返事が来た。品は揃えられるそうじゃ。あとは船の都合を確かめて、京の商家へ知らせる」
「順調じゃのう」
「まだ分からん。荷が届いて、相手が喜んでくれて、代金を受け取って、ようやく一つの仕事が終わる」
龍馬は頷いた。
「そうじゃな」
太郎は帳面を開いた。
「けんど、面白いぞ。誰かが必要としちゅうものを、別の土地から運んでくる。それだけのことじゃが、考えることが山ほどある」
龍馬は笑った。
「おまん、ほんまに商いが好きになったのう」
「そうかもしれん」
太郎は少し照れくさそうに笑った。
「昔は、おまんが船でどこへ行くかばかり考えちょった。今は、その船に何を積んで、誰のところへ届けるかを考えちゅう」
龍馬は太郎を見た。
「それも、ええ仕事じゃ」
「そう思うか」
「ああ。わしが海の向こうへ道を作るなら、おまんはその道を使う人を増やすんじゃな」
太郎は少し考え、頷いた。
「そうなれたら、ええのう」
二人はしばらく黙っていた。
階下から、醤油樽を動かす音が聞こえた。
太郎はその音に耳を傾けた。
「近江屋の主人、ええ人じゃな」
「そうじゃな」
「店の者たちも、毎日よう働いちゅう」
「うん」
太郎は帳面を閉じた。
「ここにおる間は、迷惑をかけんようにせんとな」
龍馬は静かに頷いた。
「そのつもりじゃ」
*
数日後、中岡慎太郎が近江屋を訪れた。
龍馬は外へ出ており、太郎が奥の部屋で書付をまとめていた。
「龍馬はおらんのか」
中岡が尋ねると、太郎は顔を上げた。
「少し出ちゅう。じきに戻ると思う」
中岡は腰を下ろした。
「なら、待たせてもらおう」
太郎は頷き、書付を片づけた。
「陸援隊の方はどうじゃ」
「忙しいぞ。人の出入りも増えたし、話し合うことも多い」
「大変じゃのう」
「おまんも人のことは言えんじゃろ」
中岡は太郎の帳面を見た。
「また商いの話か」
「そうじゃ。長崎からの返事をまとめちょった」
中岡は笑った。
「おまんは、どこへ行っても商いをしゆうのう」
「まだ始めたばかりじゃき、忘れんようにせんといかん」
中岡は頷いた。
「ええことじゃ」
しばらくして、中岡は少し声を落とした。
「太郎。最近、京の様子が少し気になる」
太郎は顔を上げた。
「見廻組か」
「それもある。新選組も動いちゅうらしい」
太郎は頷いた。
「わしも聞いた。龍馬の居場所を探しゆう者がおるそうじゃ」
中岡は部屋を見回した。
「ここは旅籠より目立ちにくいかもしれん。けんど、長くおれば、いずれ知られるかもしれん」
「そうじゃな」
太郎は静かに答えた。
「だから、龍馬にも無理をせんように言うちゅう」
中岡は太郎を見た。
「おまん自身もじゃ」
「分かっちゅう」
太郎は笑った。
「わしには商いがあるきのう」
中岡も笑った。
「そうじゃったな」
二人はしばらく、近江屋の奥の部屋で話を続けた。
やがて表から、龍馬の声が聞こえた。
「おう、二人ともおったか」
龍馬が部屋へ入ってくると、中岡は振り返った。
「おまんを待ちゆううちに、太郎の商いの話を聞かされよった」
太郎が笑った。
「聞きたそうにしちょったのは、おまんじゃろ」
「そんなことはない」
龍馬は二人を見て笑った。
「ほんなら、わしにも聞かせてくれ」
太郎は呆れたように言った。
「おまんら、ほんまに人の仕事を面白がるのう」
そう言いながらも、太郎は帳面を開いた。
三人は、しばらく商いの話をした。
長崎から京へ運ばれる品のこと。
船の都合で荷が遅れること。
商人たちが、どんなことに困っているのか。
龍馬は時折質問をし、中岡は意外なところで感心した。
政治の話をする時とは違う、穏やかな時間だった。
*
夜が更けると、近江屋の店先も静かになった。
奉公人たちは一日の仕事を終え、主人は帳場の灯りを落とした。
奥の部屋では、龍馬が書付をまとめ、中岡が明日の予定を確かめていた。
太郎は窓際に座り、帳面を開いていた。
今日、近江屋の主人から聞いた醤油の運び方について、忘れないうちに書いておこうと思ったのだ。
樽の扱い。
船で運ぶ時の注意。
荷を受け取る側が困ること。
太郎は一つずつ書き留めた。
龍馬が顔を上げた。
「太郎。まだ書きゆうがか」
「もう少しじゃ」
「明日でもええじゃろ」
「明日になったら忘れるかもしれん」
中岡が笑った。
「おまんは、ほんまに真面目じゃのう」
「おまんらが大雑把すぎるんじゃ」
龍馬は笑い、中岡も笑った。
太郎も筆を止めて笑った。
やがて中岡は立ち上がり、帰り支度を始めた。
「そろそろ戻る。明日も用があるきのう」
龍馬は頷いた。
「気をつけて帰れよ」
「おまんもな」
中岡は太郎を見た。
「太郎。商いの話、また聞かせてくれ」
「相談料を取るぞ」
「まだ言うがか」
三人はまた笑った。
中岡が帰ると、近江屋の奥の部屋には龍馬と太郎だけが残った。
階下からは、最後の戸締まりをする音が聞こえた。
太郎は帳面を閉じ、懐にしまった。
「龍馬。わしもそろそろ戻る」
「ああ。気をつけてな」
太郎は立ち上がった。
部屋を出る前に、ふと振り返った。
「明日は、昼過ぎに来る。何か用があれば、それまでに知らせてくれ」
「分かった」
龍馬は笑った。
「太郎。商いの方も、うまくいくとええのう」
太郎は頷いた。
「おまんの仕事もな」
二人は顔を見合わせ、笑った。
太郎が階段を下りると、近江屋の主人が帳場にいた。
「お帰りですか、才谷さん」
「はい。遅くまでお邪魔しました」
「お気をつけて」
太郎は頭を下げた。
表へ出ると、京の夜風は冷たかった。通りにはまだいくつかの店の灯りが残り、少し先では夜回りの声が聞こえていた。
太郎は懐の帳面に手を当て、宿へ向かって歩き始めた。
近江屋の二階では、龍馬が再び机に向かっていた。先ほど太郎が話していた醤油の運び方が、ふと頭に浮かぶ。
船があれば、人も品も遠くへ運べる。
だが、品を必要とする者がいて、運ぶ者がいて、受け取る者がいるからこそ、船は役に立つのだろう。
龍馬は少し笑ってから、手元の書付に目を戻した。
階下では、主人が翌朝の配達を確かめていた。
「明日は、あの樽を先に届けておくれ」
奉公人が返事をし、帳場の灯りが一つ消えた。
近江屋の一日は、いつものように終わった。




