第二十章 京の二つの刃
京の町から、秋の色が薄れ始めていた。
朝の冷え込みは日に日に厳しくなり、通りを行く人々の着物も厚くなっている。鴨川の水は澄み、川原に吹く風には冬の気配が混じっていた。
大政奉還からひと月も経っていない。
それなのに、京の町では、ずいぶん昔の出来事のように語る者もいれば、まだ何も始まっていないと言う者もいた。
徳川慶喜が政権を朝廷へ返した。
その事実だけは誰もが知っている。
だが、政権を返した後、誰が政を行うのか。徳川家はどのような立場になるのか。諸藩の力関係はどう変わるのか。
答えを知る者はいなかった。
幕府がなくなると騒ぐ者がいる一方で、徳川の力はそう簡単には消えぬと語る者もいる。
商人は米の値を気にし、町人は騒ぎが起きぬことを願い、武士たちはそれぞれの主君や信念のために動いていた。
京は、まだ静かだった。
しかし、その静けさの中で、人々の足音だけが少しずつ速くなっていた。
*
京都見廻組の詰所では、佐々木只三郎が報告書を読んでいた。
机の上には、京の各所から寄せられた書付が重なっている。薩摩藩士の出入り、長州に通じる者の動向、土佐藩関係者の会合、そして坂本龍馬の所在。
どの報告も、以前より慎重な言葉で書かれていた。
今井信郎は、佐々木の前に新たな書付を置いた。
「昨夜、四条近くで坂本龍馬らしき男を見たという報告がありました」
佐々木は目を上げた。
「らしき男、か」
「はい。顔を知る者の証言ですが、本人と断定できません」
「才谷太郎の可能性があるということだな」
「その通りです」
今井は、以前から調べてきた二人の男について説明した。
坂本龍馬と才谷太郎。
顔立ちは驚くほど似ているが、行動には違いがある。龍馬は政治に関わる者たちと会い、太郎は商家へ出入りすることが多い。
ところが近頃、才谷が坂本として人と会っているらしい。
「本人が大坂にいるという話もあります。同じ日に京で坂本を見た者もいる。二人が役割を分けて動いていると考えれば、辻褄は合います」
佐々木は報告書を閉じた。
「それで、どちらが何をしているか、分かるのか」
「まだ、そこまでは」
「顔が同じというだけでは、追う側には厄介な相手だな」
今井は頷いた。
佐々木は立ち上がり、窓の外へ目を向けた。
見廻組は幕臣を中心として編成され、京の警備を担ってきた。幕府の威信を背負う役目であるという自負が、佐々木にはあった。
だが今、幕府そのものが大きく変わろうとしている。
政権を朝廷へ返した以上、これまでと同じ理屈だけでは動けない。だからといって、京の治安を放り出すこともできなかった。
「今井。坂本を追う理由を、もう一度考えておく必要がある」
今井は佐々木を見た。
「理由、ですか」
「以前なら、幕府に敵対する浪士というだけで警戒する者もおった。だが今は違う。政権を返したからといって、すべての者が敵でも味方でもなくなったわけではない」
佐々木は机に戻った。
「坂本が何を企てているのか。誰と会い、何を進めているのか。それを確かめずに動けば、こちらが混乱を招く」
「承知しております」
「ただし、調べている間に京で騒ぎを起こされても困る」
今井は、佐々木の言葉の奥にある焦りを感じ取った。
佐々木は無闇に剣を抜く男ではない。
だが、決断を迫られた時に、いつまでも待つ男でもなかった。
*
同じ頃、新選組の屯所でも、坂本龍馬の名が話題に上がっていた。
近藤勇は、土方歳三から差し出された報告を読んでいた。
「坂本龍馬か」
「土佐の脱藩浪士です。近頃は土佐藩の後藤象二郎とも近く、京と大坂を行き来しているようです」
土方は淡々と説明した。
「大政奉還にも関わったという話があるな」
「ええ。もっとも、どこまで本人が動かしたのかは分かりません」
近藤は報告を置いた。
新選組は、浪士たちが集まって始まった組織だった。
近藤も土方も、初めから幕臣として生まれたわけではない。剣を学び、仲間を集め、京で働くうちに、幕府から認められるようになった。
その道のりには、幾度もの戦いと犠牲があった。
だからこそ、近藤は今の状況を簡単には受け入れられなかった。
「幕府が政を返したからといって、京の警備が要らなくなるわけではあるまい」
近藤が言うと、土方は頷いた。
「むしろ、こういう時ほど騒ぎを起こす者が出ます」
「見廻組はどうしている」
「坂本の動きを探っているようです」
近藤は眉を上げた。
「見廻組もか」
「以前から調べていたらしい。詳しいことは分かりませんが」
近藤は少し考えた。
「ならば、こちらも確かめておく必要があるな」
土方は近藤を見た。
「先に動きますか」
「むやみに捕らえるという話ではない。まずは居場所と動きを知る。坂本が京で何をしているのか、それを確かめる」
土方は頷いた。
新選組にとって、働きを示すことは重要だった。
幕府から認められるまで、彼らは幾度も自分たちの力を証明しなければならなかった。
しかし近藤の胸にあったのは、単なる手柄への欲だけではない。
自分たちが守ってきたものは、これからどうなるのか。
幕府が変われば、新選組の役目も変わるのか。
その答えが見えないからこそ、今できる仕事を確かに果たそうとしていた。
*
数日後、佐々木只三郎と近藤勇は、京の警備に関する用件で顔を合わせた。
互いに名はよく知っていた。
見廻組と新選組。
同じく京の治安を担いながら、その成り立ちも気風も違う。
佐々木は幕臣としての作法を身につけ、言葉を選んで話す男だった。
近藤は礼を失することはなかったが、言葉の端々に、自分の力で道を切り開いてきた者らしい率直さがあった。
用件が済むと、近藤が口を開いた。
「佐々木殿。坂本龍馬のことをお調べだと聞きました」
佐々木は表情を変えなかった。
「京の動向を調べる中で、名が挙がっております」
「我らも、その男について調べております」
「そうですか」
短い返事だった。
近藤は続けた。
「政権が返されたとはいえ、京の騒ぎを放っておくわけにはまいりません。坂本がどのような動きをしているか、確かめる必要があると考えております」
佐々木は近藤を見た。
「その点は同感です。ただ、相手が何をしているか分からぬうちに動けば、余計な混乱を招くこともあります」
「もちろんです」
近藤は頷いた。
「しかし、慎重に調べている間に相手が姿を消しては、何もできませぬ」
佐々木の目がわずかに細くなった。
「おっしゃる通りですな」
二人はそれ以上、坂本について語らなかった。
会談を終えて近藤が去ると、佐々木のそばに控えていた隊士が小さく言った。
「新選組も坂本を追うつもりのようですな」
「そのようだ」
「我らより先に手柄を立てようというのでしょうか。浪士上がりの者たちに先を越されては――」
「口を慎め」
佐々木の声は低かった。
隊士は慌てて頭を下げた。
佐々木はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「近藤殿たちは、京で幾度も危険な役目を果たしてきた。その働きを軽んじるものではない」
「はっ」
「ただし、我らには我らの責任がある」
佐々木は遠ざかる近藤の背中を見た。
「同じ相手を追うなら、互いに動きを知らぬままでは済まぬ。先に確かなことを掴む必要がある」
隊士は深く頭を下げた。
佐々木は、それ以上何も言わなかった。
だが、その日から見廻組の調査は少しずつ速くなった。
*
京の商家で、太郎は主人と荷の手配について話していた。
長崎からの返事はまだ届いていなかったが、京で必要とされている品について、追加の相談があった。
太郎は一つずつ話を聞き、帳面に書き留めていった。
「才谷さん。お忙しいようですな」
主人が言った。
「そう見えますか」
「ええ。近頃は、こちらへ来られる時間もまちまちですし」
太郎は少し笑った。
「別の用もありまして。ただ、こちらの仕事をおろそかにするつもりはありません」
「それなら結構です」
主人は頷いたが、ふと声を落とした。
「ところで、最近この辺りで、見知らぬ武士が人を尋ねて歩いているようです」
太郎は筆を止めた。
「誰を尋ねているがですか」
「それが、はっきりしません。坂本という名を聞いた者もいるそうですが」
太郎は主人の顔を見た。
「坂本……」
「ご存じですか」
「名は聞いたことがあります」
太郎はそれ以上、何も言わなかった。
主人も深く尋ねることはなかった。
商いの話を終えて店を出ると、太郎は通りの向こうに目を向けた。
人の流れはいつもと変わらない。
荷を担ぐ男、買い物帰りの女、走っていく子ども。
その中に、二人連れの武士がいた。
太郎は、すぐに彼らが自分を見ているとは思わなかった。
だが、しばらく歩いてから振り返ると、同じ二人が少し離れた場所を歩いていた。
太郎は足を止めず、次の角を曲がった。
追われているのか、偶然なのか。
それを確かめるために、むやみに動くつもりはなかった。
太郎は人通りの多い道へ出ると、いつもの宿へ戻った。
その夜、帳面の端に短く書き加えた。
――商家の主人、坂本を尋ねる武士の話。
――帰路、同じ二人連れを見かける。偶然かは不明。
書き終えると、太郎はしばらく筆を持ったまま考えていた。
龍馬に伝えるべきだろう。
中岡にも。
だが、まだ分からないことを、分かったように話すのは避けたかった。
太郎は帳面を閉じた。
*
翌日、中岡慎太郎は陸援隊の仲間から京の様子を聞いていた。
見廻組と新選組が、以前より活発に動いている。
特に、土佐の者たちの出入りを調べる動きがあるという。
中岡は話を聞き終えると、静かに頷いた。
「分かった。引き続き気をつけてくれ。ただし、こちらから騒ぎを起こすようなことはするな」
仲間が去ると、中岡は腕を組んだ。
大政奉還が実現しても、京が落ち着くわけではない。
むしろ、これからの政を誰が担うのかをめぐって、諸藩の思惑は複雑になっていた。
その中で、龍馬は目立ちすぎる男だった。
新しい政治の形を語り、諸藩の者たちと会い、時には相手の立場を越えて話を進める。
中岡は、龍馬のそういうところを好ましく思っていた。
だが同時に、危うさも感じていた。
龍馬は、人と人の間に道を見つけようとする。
しかし、道を開かれることを望まぬ者もいる。
中岡は立ち上がった。
太郎にも知らせておいた方がいい。
そう思った時、表から足音が聞こえた。
現れたのは、太郎だった。
「慎太郎。少し話がある」
中岡は太郎の顔を見た。
「ちょうどよかった。わしも話がある」
二人は顔を見合わせた。
「……どうやら、同じような話かもしれんのう」
中岡が言うと、太郎は苦笑した。
「そうかもしれん」
*
その日の夕方、龍馬も加わって三人は顔を合わせた。
太郎は商家で聞いた話と、帰り道で見かけた武士のことを伝えた。
中岡は陸援隊の仲間から届いた情報を話した。
龍馬は二人の話を黙って聞いていた。
「見廻組も新選組も、動きが増えちゅうか」
龍馬が言った。
「そうらしい」
中岡は頷いた。
「おまんを探しゆう者がおることは、前から分かっちょった。けんど、今は少し様子が違う」
太郎が続けた。
「わしを見ていたかどうかは分からん。ただ、商家の主人まで気づくほど、武士が人を尋ねて歩いちゅうのは確かじゃ」
龍馬はしばらく考えていた。
「太郎。おまんの商いの方は大丈夫か」
「今のところはな。けんど、店にまで迷惑をかけるようなら困る」
「そうじゃな」
龍馬は頷いた。
「しばらくは、人と会う場所を考え直した方がええかもしれん」
中岡が言った。
「おまん自身もじゃ、龍馬。寺田屋の時のことを忘れたわけではあるまい」
「忘れちょらんよ」
龍馬は笑ったが、その顔には以前のような気楽さはなかった。
「ただ、今は会わんといかん人がおる。政を返しただけでは、まだ何も決まっちょらんきのう」
太郎は龍馬を見た。
「それは分かる。けんど、会う相手を選ぶことはできるじゃろ」
「そうじゃな」
「それに、わしが代わりに会う必要のない相手まで、わしに任せることはない」
龍馬は頷いた。
「分かった。太郎には、これまで決めた相手以外は頼まん」
中岡は二人を見て、少し安心したように息を吐いた。
「わしも、陸援隊の者に余計な動きをさせんようにする。今は、互いに確かな話だけを持ち寄ろう」
三人は頷いた。
それぞれが見ているものは違う。
龍馬は政治の動きを見ている。
中岡は人の動きを見ている。
太郎は、商いの中で交わされる言葉や、人々の暮らしの変化を見ている。
その三つを重ね合わせることで、ようやく見えてくるものがあった。
だが、まだすべてが分かったわけではない。
*
見廻組の詰所では、今井信郎が新たな報告を持って佐々木のもとを訪れていた。
「才谷太郎が、京の商家へ出入りしていることを確認しました」
「坂本としての動きは?」
「それらしい証言はあります。ただ、本人かどうかは断定できません」
佐々木は頷いた。
「新選組の動きはどうだ」
「坂本の所在を探っているようです。こちらと同じ場所を調べている者もおります」
佐々木は机の上の書付を見た。
坂本龍馬。
才谷太郎。
二人は別人である。
そのことは、もはや疑いようがなかった。
だが、どちらが何をしようとしているのか。
なぜ今になって、再び同じ顔で動き始めたのか。
まだ分からないことが多い。
「今井」
「はい」
「坂本の居場所を探るだけでは足りん。誰が、どこで、どちらの男に会ったのかを確かめろ」
「承知しました」
「それから、新選組がどこまで知っているかも調べておけ」
今井は少し驚いた。
「新選組のことも、ですか」
「同じ相手を追う以上、互いの動きが分からぬままでは危険だ」
佐々木は静かに続けた。
「我らが坂本と思って追った男を、向こうが別の場所で見たと言い出すかもしれん。そうなれば、どちらかが見誤っていることになる」
今井は頷いた。
佐々木は報告書を閉じた。
「まだ動く時ではない。まずは確かなことを掴め」
今井は頭を下げた。
佐々木は窓の外へ目を向けた。
京の町は、夕闇に包まれ始めていた。
*
その夜、太郎は宿の机に向かっていた。
長崎から届いた返事を読み、京の商家へ伝える内容をまとめている。
仕入れ先は、頼まれた品を揃えられるという。ただし、船の都合で到着が少し遅れる可能性があった。
太郎は、先方へどう説明するかを考えた。
遅れるかもしれないことは、早めに伝えた方がいい。
都合の悪い話を隠しても、後で困るのは相手だからだ。
書付を仕上げると、太郎は筆を置いた。
机の隅には、龍馬の代役として聞いた話を書いた紙が置かれている。
太郎はそれを手に取り、内容を確かめた。
政治の話は難しい。
誰が何を望み、どこで折り合いをつけようとしているのか、太郎には分からないことも多かった。
それでも、人の話を聞くことはできる。
相手が何を心配し、何を求めているのかを確かめることは、商いと似ているところがあった。
太郎は紙を折り畳み、別にしておいた。
商いの帳面には、自分の名がある。
龍馬のための書付には、坂本龍馬の名がある。
二つの名を使い分けることには、まだ少し不思議な気持ちがあった。
だが、太郎はもう、その違いを見失ってはいなかった。
自分が誰であるかは、自分で分かっている。
それでよかった。
太郎は灯りを少し落とし、窓の外を見た。
京の町は静かだった。
遠くで犬が吠え、どこかの家の戸が閉まる音がした。
明日は商家へ書付を届け、その後で中岡に会う予定だった。
龍馬からも、また話があるかもしれない。
やることは、まだいくらでもある。
太郎は帳面を閉じ、机の上に置いた。
そして、明日の仕事を思いながら、静かに灯りを消した。




