第十九章 もう一度だけ
朝になっても、太郎は昨夜の龍馬の言葉を忘れられずにいた。
――今度は、危険かもしれん。
宿の庭には薄い朝日が差し込み、濡れた石の上を雀が跳ねていた。表通りからは荷車の音が聞こえ、近くの店では丁稚が戸板を外している。京の町はいつものように動き始めていたが、太郎には、昨日までと同じ朝には思えなかった。
机の上には、自分の商いのために買った帳面が置かれている。
最初の頁に書いた「才谷太郎」という四文字。その下には、京の商家から頼まれた品の種類、長崎の仕入れ先、荷を運ぶ船の見込み、支払いの条件が並んでいた。
まだ品は一つも届いていない。それでも、太郎にとっては初めて自分の名で引き受けた仕事だった。
龍馬の頼みを聞けば、これまでのように坂本龍馬として人前に出ることになる。
その間にも商いは進む。長崎から返事が届くかもしれないし、京の商家から問い合わせが来るかもしれない。頼まれた仕事を途中で放り出すわけにはいかなかった。
太郎は帳面を閉じ、顔を洗った。
昨夜、龍馬は頼みの中身をすべて話す前に帰っていった。
「明日、慎太郎も交えて話そう」
そう言ったのは龍馬だった。
太郎も、それがいいと思った。中岡慎太郎なら京の情勢をよく知っているし、龍馬の事情も分かるだろう。何より、太郎にとっては遠慮なくものを言える友人だった。
太郎は着物を整えると、帳面を懐に入れて宿を出た。
まずは商家へ顔を出し、長崎への書付を預けなければならない。
龍馬の頼みをどうするかは、その後で決めるつもりだった。
*
商家の主人は、太郎が持参した書付を丁寧に読んでいた。
「才谷さん。これで長崎へ手配を頼めるわけですな」
「はい。ただ、船の都合によっては日数が変わります。向こうから返事が届き次第、改めて知らせます」
主人は頷いた。
「承知しました。ところで、しばらく京を離れるご予定でも?」
太郎は少し驚いた。
「どうしてですか」
「いや、先ほどから何度も日程を確かめておられるので。何か別のお仕事でもあるのかと思いまして」
太郎は苦笑した。
「京を離れると決まったわけではありません。ただ、数日ほど動きにくくなるかもしれんのです。その間に返事が届いても困らんよう、先に段取りを整えておきたいがです」
主人は太郎の顔を見た。
「才谷さんは、ずいぶん先のことまで考えるお人ですな」
「そうでもありません。今まで何度も、段取りが悪うて困ったことがあるだけです」
太郎がそう答えると、主人は笑った。
「それは商人として悪い経験ではありませんな。何も起きなければそれでよし、起きた時に慌てずに済む」
太郎は頭を下げた。
「ありがとうございます。もし急ぎの用があれば、この宿へ知らせをお願いします。わしが留守でも、必ず分かるようにしておきます」
店を出る時、主人はもう一度声をかけた。
「才谷さん。今回の取引、期待しておりますよ」
太郎は振り返り、しっかりと頷いた。
「はい。わしも、楽しみにしちょります」
表へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。
太郎は懐の帳面に手を当てた。
仕事は始まっている。
この先、どんなことがあっても、その事実は変わらない。
*
龍馬と中岡が待っていたのは、京の町外れにある小さな家だった。
陸援隊の者が時折使っている場所で、表からは目立たない。奥の部屋に入ると、中岡が火鉢のそばで手紙を読んでいた。
「遅かったのう、太郎」
中岡は顔を上げるなり、いつもの調子で言った。
「商いの用があったんじゃ。おまんらと違うて、わしには約束を守らんといかん相手がおる」
「わしらにもおるわ。ずいぶんな言い草じゃのう」
中岡は笑ったが、太郎が腰を下ろすと、すぐに真面目な顔になった。
龍馬は部屋の隅に座っていた。
いつもなら真っ先に冗談を言う男が、今日は黙っている。
中岡は二人の顔を見比べた。
「龍馬から話は聞いた。おまんに、もう一度代役を頼みたいそうじゃな」
太郎は頷いた。
「そうらしい。けんど、詳しいことはまだ聞いちょらん」
中岡は龍馬へ顔を向けた。
「それなら、まず全部話してもらおうか。太郎が引き受けるかどうかは、その後じゃ」
龍馬は静かに頷いた。
大政奉還が実現してから、京と大坂では新しい政治の形をめぐる話し合いが続いていた。
土佐の後藤象二郎をはじめ、諸藩の者たちがそれぞれの思惑を持って動いている。龍馬にも意見を求める者が多く、会う約束をした相手が次々に増えていた。
しかし、龍馬がどこへでも自由に出向けるわけではない。
寺田屋で襲われて以来、身の危険を感じることは少なくなかった。最近では、京の町を歩く時にも、見知らぬ者の視線を感じることがある。
それでも、今は会わなければならない人々がいた。
「わしは近いうちに大坂へ行く用がある。後藤さんとも話をせんといかんし、ほかにも確かめたいことがある。じゃが、京にはわしを訪ねてくる者がおる。何日も姿を見せんとなれば、余計な疑いを持たれるかもしれん」
龍馬はそこで一度、言葉を切った。
「太郎には、京におる間だけ、必要な時にわしとして人と会うてもらいたい。話を聞いて、返事は持ち帰ってくれればええ。大事な約束を、その場で決める必要はない」
太郎は腕を組んだ。
「つまり、わしが坂本龍馬として京におれば、おまんが別の場所で動いちゅうことを知られにくい、いうことか」
「そうじゃ」
中岡が口を挟んだ。
「龍馬。おまん、太郎がようやく自分の商いを始めたことを知っちゅうじゃろ。それでも頼むがか」
龍馬は中岡を見た。
「知っちゅう。じゃから、昨日は頼むのをやめようとも思うた。今朝も、ここへ来るまで迷うちょった」
「なら、どうしてわしらを呼んだ」
「太郎に、事情を隠したまま頼みとうなかったからじゃ。断るにしても、何を頼まれたのか知らんままでは、太郎も納得できんじゃろ」
中岡は黙った。
太郎は二人のやり取りを聞いていたが、やがて小さく息を吐いた。
「二人とも、わしがおらんところで勝手に決めるな」
龍馬と中岡が同時に太郎を見た。
「龍馬。おまんがわしを気遣うてくれちゅうのは分かる。慎太郎が心配してくれちゅうのも分かる。けんど、頼むのもやめるのも、おまんらだけで決められたら困る」
太郎は龍馬をまっすぐ見た。
「わしにも決めさせろ」
龍馬は何も言わなかった。
中岡は少しだけ口元を緩めた。
「そうじゃな。太郎の言う通りじゃ」
太郎は頷いた。
「まず、聞きたいことがある」
*
太郎は懐から帳面を取り出した。
中岡が目を丸くした。
「おまん、こんな時まで帳面か」
「商売人じゃきのう。大事な話は書いておく」
龍馬が思わず笑った。
「わしの代役の話まで商いみたいにするがか」
「当たり前じゃ。おまんは頼み事をする時、いつも肝心なことを後から言う。今回は先に全部聞く」
太郎は筆を取った。
「まず、誰に会うがじゃ。相手の名前は分かっちゅうのか」
龍馬は予定している相手を挙げ、どのような用件なのかを説明した。
太郎は一人ずつ書き留めた。
「その場で答えてええことと、答えたらいかんことは?」
「政治の方針や約束事は決めんでええ。話を聞いて、わしに伝えてくれればええ」
「会う場所は?」
「なるべく人目のある場所にする。夜遅くに、知らん者と二人きりで会う必要はない」
太郎は頷き、さらに尋ねた。
「もし相手が、どうしてもその場で返事をくれと言うたら?」
「後で返すと言うてくれ。それで納得せん相手なら、会わんでもええ」
太郎は帳面に線を引いた。
「もう一つ。わしが危ないと思うたら、その場でやめる。おまんの名を守るために、無理はせん」
龍馬はすぐに頷いた。
「それでええ」
中岡が横から言った。
「それと、太郎がどこにおるか、わしにも知らせてくれ。陸援隊の者にできることがあれば、手を貸す」
太郎は中岡を見た。
「おまんまで巻き込むことになるぞ」
「今さら何を言うちゅう。わしは最初から京で動いちゅう男じゃ」
中岡は笑った。
「それに、太郎が一人で龍馬の真似をしゆうと思うと、どうにも心配じゃ。おまん、途中で商いの話を始めるかもしれんきのう」
「それはおまんの方じゃろ。陸援隊の話になったら止まらんくせに」
龍馬が吹き出した。
三人の間に、少しだけいつもの空気が戻った。
*
話が一段落すると、中岡は火鉢の炭を寄せ、湯を沸かし直した。
龍馬は太郎の帳面を眺めていた。
「太郎。おまん、ずいぶん細かく書くようになったのう」
「昔からじゃ。おまんが書かなさすぎるだけじゃ」
「わしも書いちゅうぞ」
「読めんのじゃ」
中岡が笑った。
「それは分かる。龍馬の手紙は、時々どこから読めばええのか迷う」
「おまんら、二人してひどいのう」
龍馬は笑いながらも、すぐに表情を改めた。
「太郎。わしは、やっぱり無理をしてほしゅうない。おまんには商いがある。これから先のこともある」
太郎は帳面を閉じた。
「龍馬。わしには、わしのやりたいことがある。それは変わらん。京と長崎をつなぐ商いをしてみたいし、いずれはもっと遠くの土地とも取引してみたい」
龍馬は頷いた。
太郎は続けた。
「けんど、おまんが困っちゅうのを見て見ぬふりするような男にもなりとうない。わしは今まで、おまんの代わりとして動くことが多かった。じゃが、今回は違う。わしが事情を聞いて、考えて、それでも手を貸そうと思うたんじゃ」
中岡は黙って太郎を見ていた。
「商いの仕事は、ちゃんと続ける。頼まれた品を届ける段取りもつけた。もし何かあれば、わしの名で責任を取る。だから、龍馬の代役をすることと、才谷太郎として生きることは、別の話じゃ」
龍馬はしばらく言葉を探していた。
「……太郎。おまん、ほんまに変わったのう」
「そうか?」
「ああ。昔なら、面白そうじゃというだけでついてきたじゃろ」
「今でも面白そうな話は好きじゃぞ」
「それは知っちゅう」
龍馬は笑った。
「けんど、今のおまんは、自分で行き先を決めちゅう」
太郎は少し照れくさそうに笑った。
「ようやくじゃけんどな」
中岡が湯呑みを置いた。
「なら、わしからも一つ言わせてもらおう」
二人が顔を向けると、中岡は真面目な顔をしていた。
「龍馬のために動くのもええ。わしらが力を合わせるのもええ。けんど、太郎。おまんが戻る場所を忘れたらいかん」
太郎は頷いた。
「忘れるわけがない。まだ一文も儲けちょらんのじゃ」
中岡は思わず笑った。
「それなら安心じゃ」
「安心するところが違うじゃろ」
龍馬も笑った。
太郎は二人を見て、静かに言った。
「今回のことが済んだら、わしは自分の商いに戻る。これは約束じゃ」
龍馬は頷いた。
「ああ。約束じゃ」
中岡も頷いた。
「わしも証人になっちゃる」
「おまんが証人なら、酒代も払うてもらおうか」
「何でそうなる」
三人は声を上げて笑った。
*
太郎が代役を引き受けると決めてから、三人は具体的な段取りを整えた。
龍馬が大坂方面へ出向く間、太郎は京に残る。
ただし、坂本龍馬として会うのは、あらかじめ龍馬と中岡が確かめた相手に限る。知らない者から突然呼び出されても応じない。政治上の約束は一切しない。
太郎が聞いた話は、後で龍馬本人へ伝える。
中岡は陸援隊の仕事を続けながら、必要に応じて二人の連絡を助けることになった。
それぞれに役目があり、互いの仕事を邪魔しないようにする。
太郎はそのことを、何度も確かめた。
龍馬は途中から苦笑していた。
「太郎。おまん、ほんまに商売人みたいになったのう」
「商売人になろうとしちゅうんじゃ。今さら何を言う」
「そうじゃったな」
中岡は二人を見ながら、静かに笑っていた。
以前なら、龍馬が頼み、太郎が引き受けるだけで済んだかもしれない。
けれど、今は違う。
三人は互いの事情を知り、できることとできないことを話し合っている。
中岡には陸援隊がある。
龍馬には、新しい政治の形を考える仕事がある。
太郎には、ようやく始まった商いがある。
それぞれが別の道を歩きながら、今だけ力を合わせようとしていた。
*
その夜、太郎は宿へ戻り、机の上に帳面を広げた。
商いのための頁には、長崎の仕入れ先から返事が届いた時に確かめることが書いてある。
別の紙には、龍馬から頼まれた仕事の段取りを書き留めた。
二つを混ぜないようにした。
太郎はしばらくそれらを眺めていた。
龍馬の代役をすることは、もう自分の人生の中心ではない。
けれど、龍馬と出会い、同じ顔を持つ者として共に歩いてきた時間を、なかったことにするつもりもなかった。
その時間があったからこそ、今の自分がいる。
勝海舟や西郷隆盛、桂小五郎、グラバーと出会い、長崎で商いの面白さを知った。
いろは丸の事件では、荷を待つ人々の暮らしを考えるようになった。
中岡慎太郎という友人もできた。
龍馬の隣を歩いてきたことは、決して無駄ではなかった。
ただ、これからは自分の足で歩いていく。
太郎は商いの帳面を閉じ、懐に入れた。
明日からも、仕事は続く。
*
数日後。
京の町では、坂本龍馬の姿を見たという話が、いくつかの場所から伝わっていた。
ある者は、龍馬が商人と話しているのを見たと言った。
別の者は、龍馬が大坂方面へ向かったと聞いたと言った。
その話が見廻組のもとにも届いていた。
今井信郎は、報告を読みながら眉を寄せた。
「また、同じ日に違う場所で坂本を見たという話が出ています」
佐々木只三郎は書付を受け取った。
「才谷太郎の動きは?」
「京におります。商人のもとへ出入りしているようですが、坂本として人と会っている可能性もあります」
佐々木は少し考えた。
「以前と同じことを始めたのか」
「そう見えます。ただ、今度は才谷自身の商いもあるようです」
「商いをしながら、坂本の代役をしているということか」
「その可能性があります」
佐々木は書付を置いた。
「妙な関係だな」
今井は頷いた。
「単なる影武者なら、これほど自由に動くとは思えません。才谷は坂本の指示だけで動いているわけではないのかもしれません」
佐々木は静かに言った。
「ならば、なぜ今も坂本の名を使う」
今井は答えられなかった。
佐々木は窓の外へ目を向けた。
京の町には、様々な思惑を持つ者が集まっている。
誰が何を考え、どこで何をしようとしているのか、すべてを知ることなどできない。
それでも、調べなければならなかった。
「引き続き二人の動きを確かめろ。特に、坂本がどこにいるのかを見誤るな」
「承知しました」
今井は頭を下げた。
二人の坂本龍馬。
その謎は、まだ解けていなかった。
*
夕暮れの京。
太郎は約束していた相手との話を終え、龍馬と中岡の待つ場所へ向かっていた。
今日の仕事は、思っていたよりも早く済んだ。
相手は龍馬に新しい政治について意見を聞きたがっていたが、太郎はその場で答えを出さず、後日返事をすると伝えた。
聞いた話は、忘れないうちに書き留めてある。
通りを曲がると、龍馬と中岡が並んで立っていた。
「遅かったのう、太郎」
中岡が手を上げた。
「おまんが早すぎるんじゃ」
太郎が答えると、龍馬が笑った。
「どうじゃった。うまくいったか」
「ああ。話は聞いてきた。返事はおまんが考えろ」
「そうじゃな。あとで聞かせてくれ」
三人は歩き始めた。
龍馬は大坂で会った者たちの話をし、中岡は陸援隊の仲間の様子を伝えた。太郎も、京の商家から長崎へ送った書付のことを話した。
話題は政治から商いへ、商いから昔の土佐の話へと移っていった。
誰かが何かを言えば、別の誰かが笑う。
互いの仕事について知らないことがあれば、尋ねる。
三人はそれぞれ違う道を歩いていたが、こうして並んでいる時には、昔からの友人のように自然に話ができた。
やがて龍馬が言った。
「太郎。今回のことが済んだら、商いの話をもっと聞かせてくれ」
太郎は笑った。
「ええぞ。ただし、相談料は取る」
「友達からも取るがか」
「当たり前じゃ。おまんは話が長いき、余計に取らんと割に合わん」
中岡が横から口を挟んだ。
「なら、わしには友達価格で頼むぞ」
太郎はすぐに答えた。
「おまんは倍じゃ」
「何でじゃ!」
龍馬が声を上げて笑った。
中岡も笑い、太郎もつられて笑った。
京の夕暮れの中を、三人は肩を並べて歩いていく。
龍馬には、これから見たい世界があった。
中岡には、仲間たちと成し遂げたいことがあった。
太郎には、始めたばかりの商いがあった。
それぞれの道は違っていても、今はこうして同じ道を歩いていた。
太郎は懐の帳面にそっと手を当てた。
そこには、まだ書きたいことがたくさんあった。
明日も、明後日も。
自分の名で、仕事を続けていくつもりだった。




