八分の七バースデーケーキ 7
翌朝、俺たちは白岡に会うため、いつもより少し早く学校へ向かった。
希の情報によれば、白岡は吹奏楽部に所属していて、朝練の日は予鈴よりずっと前から音楽室にいるらしい。昨日の言い争いを見ていた分、直接聞きに行くのは気が引けたが、後回しにして解決する類の話でもない。
教室棟から渡り廊下を抜けると、音楽室のある特別教室棟に入る。朝の校舎はまだ人が少なく、廊下の空気もどこか薄い。その静けさの奥から、金管楽器の音が途切れ途切れに聞こえていた。伸びきらないトランペットの音、低く唸るチューバの音、誰かが同じ小節を何度も繰り返している木管の音。朝からよくやる、と少しだけ思う。
「朝から元気だねえ」
まるで俺の思考を読んだかのようなタイミングで、隣を歩く雫が呑気に言った。
お前も十分元気だろ、と皮肉を込めると、私は甘いものがないと動けない、などと意味のわからないことを言っていた。
音楽室の扉は半分開いていた。中では数人の部員がそれぞれ楽器を片づけている。部屋の空気は練習後の緩さに満ちていた。
そんな中、白岡詩乃は、窓際でクラリネットをケースにしまっていた。
譜面台の上には、使い込まれた楽譜が開いたままになっている。ページの端を留めているのは、少し古びた銀色のクリップだった。音符の形をした飾りがついていたらしいが、先端は欠けていて、ただの曲がった金具みたいになっている。
白岡はそれを丁寧に外し、楽譜と一緒にケースのポケットへしまった。
昨日の朝、廊下で怒鳴っていた時とは雰囲気が違った。楽器に触れる手つきは優しく、小柄ながら真っ直ぐと伸びた背筋が印象に残る。その居住まいに俺は少しだけ気後れした。
だが、いつまでも立ち往生しているわけにもいかない。
「白岡さん、ちょっといいかな」
俺が意を決して声をかけると、白岡は顔を上げた。それに続けて俺の後ろにいる雫も見て、ほんの少し警戒するように目を細める。とはいえそれは、普段は話しかけてこない二人が、わざわざ早朝に現れたことに対するもので、昨日の一件とは関係ないことのように思えた。
「……暁くんと雫さん、だよね? 珍しいね」
「ああ。少し話を聞きたい。昨日のこと」
白岡の指が、クラリネットの金具に触れたまま止まった。
「澪のこと?」
俺は返事の代わりに小さく頷くと、白岡は小さく息を吐いた。声を荒げられでもしたらどうしようかと思ったが、そうはしなかった。楽器ケースを閉じ、椅子に座ったまま膝の上で両手を組む。
「いいよ。どうせ、みんなもう知ってるんでしょ」
投げやりな声ではなかった。むしろ静かすぎる声だった。
俺たちは音楽室の端、譜面台が積まれた棚の横に移動した。他の部員たちはちらちらこちらを見ていたが、誰も露骨には近づいてこない。
「昨日、管理棟で白昼夢が出た」
「うん、聞いたよ」
「新見は、白岡が原因かもしれないって言ってた」
そう言うと、白岡は引き攣るように口元を歪ませた。
「澪がそう言ったんだ」
「ああ」
「……そう」
白岡は視線を落とす。怒鳴るでも、否定するでもない。その静けさが、かえって重かった。
「水城の誕生日会のこと、聞いていいか」
水城、という名前が出た瞬間、白岡の指が組んだ手の中でわずかに強くなった。
「恒一くんの? 私は行ってないよ」
「そうなのか?」
白岡は少し黙った。窓の外では、朝練を終えた運動部の声が遠くに聞こえる。彼女はそちらを一度見てから、ゆっくり言った。
「その話が出た日、私、学校休んでたの。熱があって」
「誕生日会の予定は、その日に決まった?」
「そうみたい。あとから聞いたから、詳しくは知らないけど」
白岡は唇を結び直す。
「澪からは、後でメッセージが送られてきたの。『みんなでちょっと集まるんだけど、まだ本調子じゃないなら無理して来なくていいから』って」
「誕生日会だとは?」
「言われてない」
即答だった。
「水城の誕生日だとも、来てほしいとも、言われなかった。だから私は、体調を気遣ってくれてるんだと思った。澪はそういうこと、ちゃんと言ってくれる子だったから」
だった、という言い方に、引っかかるものがあった。
「後から知ったのか」
「うん。別の子から。『この前の恒一くんの誕生日会、すごかったんだよ』って。最初、何の話か分からなかった」
白岡はそこで一度、息を吸った。
「後から参加した子が私に写真を送ってきてくれたの。悪気はなかったんだと思う。ケーキとプレゼントを用意して、綺麗な輪飾りも作って。みんな、すごく楽しそうだった」
凪いだ水面のようなその淡々とした響きは、むしろ、今にも張り裂けそうな何かを必死に押し殺しているように聞こえた。
「数えたくなかったのに、数えちゃった。写ってたの、七人だった。私がいないから当たり前なんだけど」
そう付け足した声は、消え入りそうなほど細かった。
「その、立ち入ったことで申し訳ないんだけど、昨日の二人の喧嘩、少しだけ聞こえてさ。……白岡って水城のこと」
「ぐいぐい来るね。……まあ、あれだけ大声出してた私が悪いんだけど」
白岡は目を伏せた。
「そうよ。それに私、前にそのことを澪に話したの」
口にするのに少し勇気がいる言葉だったのだろう。言ったあと、白岡は自分の膝の上を見たまま動かなかった。
「新見さんは、何て?」
「応援するって。すごく普通に。ほんとに、嬉しそうに言ってくれた」
その言葉だけは、白岡の声が少しだけ柔らかくなった。
「前に、駅前の雑貨屋に一緒に行ったことがあるの」
白岡は、自分の膝の上で組んだ指を見つめる。
「音符の形をした譜面クリップが置いてあって。私、今使ってるのがもう古いから、可愛いねって言ったら、澪が『詩乃っぽい』って笑ってくれた。そういうこと、覚えてくれる子だった」
そこで、白岡の声が少しだけ硬くなる。
「だから、余計に分からなかった」
雫は黙っていた。いつもなら茶々を入れそうな場面なのに、白岡の横顔をただ見ている。
「私が怒ってるのは、呼ばれなかったからだけじゃないよ」
白岡は言う。
「体調悪いなら無理しなくていい、って。それは優しい言い方だった。でも、一言くらいあってもいいじゃない。それくらい、澪だったら絶対気づくはずなのに。そのことが一番腹立たしかった」
昨日の朝の声が蘇る。
『私の気持ち知ってる癖に、絶対わざとでしょ』
あの言葉は、ただの怒鳴り声ではなかった。深くお互いを知る仲だからこそ、小さな歪にも関わらず、感情が抑えられなくなったのだ。
「それで昨日の朝、新見さんに言ったんだな」
「言った。言いすぎたかもしれないけど」
白岡はそこで初めて、少しだけ目を逸らした。
「でも、あの時は本当に、澪がわざとやったんだと思った」
俺は返す言葉を探したが、すぐには見つからなかった。
呼ばれなかった怒り。裏切られた感覚。七人で笑っている写真。
その全部が、誕生日会のケーキという形を取ったのだと言われれば、筋は通ってしまう。
「話してくれて助かった」
俺が言うと、白岡は小さく首を振った。
「別に。……私が原因なら、ちゃんと謝った方がいいんでしょ」
その言い方が、自分で自分を責めるための準備みたいに聞こえた。
雫が、そこでようやく口を開く。
「まだ決まってないよ」
白岡が顔を上げる。雫はいつもの調子ではなく、少しだけ低い声だった。
「まだ、何も」
白岡は返事をしなかった。
けれど、その一言だけで、組んでいた指の力がほんの少し緩んだように見えた。
俺たちは音楽室を出る。背後で、白岡がクラリネットのケースを抱え直す音がした。




