八分の七バースデーケーキ 6
夕凪寮に戻る頃には、空はすっかり夕方の色に沈んでいた。
玄関を開けると、入ってすぐ横の共用スペースから賑やかな声が聞こえてくる。食欲をそそる香りがダイニングの外まで届き、自然と腹が鳴った。
朝凪西高校旧寄宿舎――通称、夕凪寮。築年数は半世紀を超え、数年前に駅前寄りの新寮ができてからは、廃寮寸前のボロ小屋なんて言われている。ただ、俺みたいな遠方出身の苦学生には魅力的な寮費だったし、実際に住んでみれば、古いなりに居心地は悪くなかった。
その理由の一つは、寮生が五人と住み込みの寮母だけという、極めて小規模なものだったからだ。いや、先月俺の真横に立つ居候が一人増えたから今は七人か。
その寮友たちとも、一人を除いて皆が郷土文化研究会という部活に所属しているものだから、一年と少しが経ち、今ではすっかりお互い気の置けない仲となっていた。
もっとも、今日は普段より少し騒がしい。
「あ、帰ってきた」
最初に顔を上げたのは、窓際の席にいた水鏡遥だった。郷土文化研究会の部長で、同じ寮の住人でもあり、しかも幼い頃からの付き合い――いわゆる幼馴染である。丁寧な笑みを浮かべているが、その目はすぐに俺と雫の顔を順番に見て、少しだけ固まったように見えた。
テーブルの中央では、晴が菓子袋を開けたまま身を乗り出している。隣では黒川結がノートと教科書を広げ、こちらに目をくれることもなくペンを走らせている。さらにその向かいには、唯一放送部所属の七瀬希が当然のような顔で座っている。
希は、黙っていても騒がしいタイプの人間だ。天真爛漫が服を着て歩いているような存在で、寮内が普段より騒がしいときは大体こいつが絡んでいる。今も対面に座る結に向かって、一人で笑いながら一方的に話し続けている。
その正面で、結は希のマシンガントークを浴びながらも平然とペンを走らせていた。無口であることから周りから冷たく見られがちだが、1年と少しこの寮で一緒に暮らすうちに、決して人嫌いではないことが分かった。当時こそ希の無尽蔵な会話に辟易していた彼女だが、今となってはそのペン先の速度は一切揺らぐことはない。
そのマシンガン、もとい、希は俺と雫の存在に気づくと、今度はこちらへ狙いを定めた。
「聞いたよー。管理棟で白昼夢出たんでしょ?」
希が目を輝かせる。
その声の弾み方だけで、こいつが心配より好奇心を優先しているのが分かった。
「耳が早いな」
「あたしのネットワークにかかればこんなもんですよ」
「放送のネタにしないでね」
遥がすかさず釘を刺す。希は「分かってますってー」と、信用ならない笑顔を返した。
俺は鞄を椅子に引っかけ、空いている席に腰を下ろす。雫は俺の隣に当然のように座った。距離が近いのはいつものことだが、今日は妙に機嫌がいい。
晴がそんな俺たちを見て、口を開いた。
「で? まさかとは思うけど、お前ら関係者じゃないよな?」
「関係者ではない」
「第一発見者ではあるけどね」
雫が横から楽しそうに付け足す。
一瞬、食堂の空気が止まった。
次の瞬間、晴が吹き出した。
「お前、どんだけ白昼夢に巻き込まれれば気が済むんだよ!」
「別に巻き込まれたくて巻き込まれてるんじゃねえよ」
「いや、もう才能だろそれ。白昼夢に好かれてる」
「そんな才能いらねえよ」
晴が笑い、希が「やった、記事が捗る!」と謎のメモを取り、遥まで小さく肩を揺らした。結だけは表情を大きく崩さなかったが、万年筆の先が一拍止まっていたので、たぶん笑っている。
この寮の連中は、遠慮がない。
それが楽な時もあれば、非常に面倒な時もある。今日は後者寄りだった。
「で、どんな感じだったの?」
結が聞いた。こちらは興味本位というより、詳細な情報を聞き出そうとする声色だった。
「管理棟の多目的室が丸ごとケーキになってた。床がスポンジで、長机がビスケット。中央にホールケーキがあって、それが一切れだけ欠けてた」
俺はその異変をクラスメイトの新見澪と確認したこと、そして内装の一部が水城恒一の誕生日会で使われたものと同じだったことを付け加え、最後に現場が密室であったことを伝えた。
「なにそれ、メルヘンじゃん」
晴が言う。
「部屋を開けたらいきなりケーキだぞ? 恐怖以外の何物でもない」
「でもケーキなんでしょ?」
「まさか食いたいとか言わないだろうな」
俺がそう言うと、雫が少し不満そうに頬を膨らませた。
「私はちょっと興味あったけど」
「いいな、絶対食うなよ」
結はそのやり取りを無視して、ノートに何かを書き記している。
「一切れだけ欠けたホールケーキ。密室。誕生日会との関連。全部白昼夢のせいなのか、それとも……」
俺がその真意を問おうとする前に、晴が雫へ身を乗り出した。
「雫ちゃんは? もう分かってんの?」
雫は待ってましたとばかりに胸を張った。
「まあね」
鼻が鳴りそうなくらい、分かりやすく得意げだった。
「教えてよー」
「ヒミツ」
しつこく食い下がる晴を、雫は玩具で遊ぶようにあしらっている。希も野次馬根性が刺激されたのか、会話に混ざり始める。
「そこをなんとか。放送にはしないから」
「タダというわけにはいかない。分かるでしょ?」
「御意に。九条菓匠の甘いやつで手を打ちましょう」
「うむ。苦しゅうない」
希がハハーッ、っと仰々しく頷き、晴が「買収、だと……?」と顔を覆う。食堂にまた小さな笑いが広がった。
俺はすかさず雫に手刀を入れる。
「痛ったぁ!」
「バカタレ、変な取引を始めるな」
その中で、遥だけがほんの少し静かだった。
遥は雫に笑いかけていた。けれど、その笑みはいつものものより少し薄い。雫の方は気づいているのかいないのか、あるいは気づいていて無視しているのか、帰り道のコンビニに寄って買ったコンビニスイーツの入った袋をガサゴソと漁っていた。
遥の様子は少し気がかりだったが、ここで何か言ったところで、どうにかなる種類のものではない。
「それで」
結が万年筆のキャップを閉じる音で、場の空気を戻した。
「どう動くかは決まってるの?」
全員の視線が俺に集まる。
「とりあえず、明日、白岡詩乃に話を聞く」
「詩乃ちゃん?」
遥が確認する。親しみのある呼び方だが、委員会か何かで顔見知りなのだろうか。
「そう。今朝、新見澪とかなり派手に言い争ってた」
ああ、と希が反応した。
「私、その口論見ましたよ。というか、廊下でかなり声響いてました。新見さんと白岡さん、普段は仲いいからちょっとびっくりしましたね」
「水城の誕生日会って言ってたよな。白岡さんもその会に?」
晴が言う。
「いや、そこまでは分からない。明日確認してみる」
多目的室のケーキと、朝の口論。その2つが無関係だとは、どうにも思えなかった。ただ、まだそれらがどう結びつくのかが分からない。
遥が少し考えてから言った。
「じゃあ、私たちは誕生日会に集まった他のメンバーに話を聞いてみる。水城くん本人は、湊が聞いた方がいい?」
「そうだな、サッカー部なら、朝練か放課後に捕まえられると思う」
「分かった。こっちはこっちで、参加してた子たちに当たってみるね」
「助かる」
遥の気遣いはいつも的確だ。郷土文化研究会の部長としての責任感もあるのだろうが、小さい頃からの癖であるように俺には思われた。
先ほどの沈んだ表情は消え、普段通りのものに戻っている。
そうして、俺たちの方針は決まった。
俺と雫は白岡詩乃へ。遥たちは、誕生日会にいた他の連中へ。
また昼休みにでも情報を共有しよう、とお互い意思を決めたところで、場が一旦落ち着いた。
それを見計らっていたかのように、寮母の真弓さんが食堂の奥から顔を出す。
「みんな~、ごはん、出来たわよ」
その声にテーブルを見ると、照り焼きの艶やかな茶色や、ポテトサラダの優しい白、そして彩り豊かなラタトゥイユが並び、まるでパレットをひっくり返したような華やかさが広がっていた。
皆が次々に席を引き料理に夢中な中、雫だけが、まだ少しだけ楽しそうに俺を見ていた。
「何だよ」
「別に。なんか嬉しそうだなって思って」
それだけ言い残して、雫も食卓の輪の中に溶け込んでいった。




