八分の七バースデーケーキ 5
校舎から離れる頃には、校庭の向こうに落ちる日がだいぶ傾いていた。
部活の掛け声が遠くから聞こえる。グラウンドではサッカー部がまだ走っていて、フェンス越しに見える白線が夕陽で薄くにじんでいた。さっきまでの甘ったるい匂いも、教師たちの慌ただしい声も、ここまで来るともう届かない。代わりに、六月の夕方らしい湿った風が制服の袖を揺らしている。
俺は鞄を肩に掛け直した。
これで終わりだ。
少なくとも、本来ならそうなるはずだった。
学校で起きた小規模な白昼夢。現場は封鎖され、教師たちが一次対応に入った。第一発見者として事情は聞かれるかもしれないが、それ以上は俺たちには関係ない。新見が何を思っていようと、白岡が本当に関係していようと、関係していなかろうと、あとは学校が処理する。
そういう線引きは、昔から得意な方だった。
失うくらいなら、最初から得なければいい。
踏み込んで面倒なものを抱えるくらいなら、最初から少し離れた場所に立っていればいい。以前からそうやって過ごしてきた。
なのに。
「いいの、湊?」
隣を歩いていた雫が、唐突に言った。
見ると、雫は前を向いたまま、どこか楽しそうに目を細めていた。さっき見せた曖昧な笑みと同じ顔だ。こういう顔をしている時の雫は、大抵ろくなことを言わない。
「何が」
「このままだと、あれ、ただの危険区域として片づけられちゃうよ」
「いいことじゃないか」
即答した。
実際、いいことのはずだった。学校側がちゃんと動いて、関係者を遠ざけて、必要なら専門の処理班に引き継ぐ。生徒が首を突っ込むより、よほど健全だ。
雫は小さく笑った。
「そうじゃなくて」
「じゃあ何だよ」
「あなた今、気持ち悪いって思ってるでしょ」
足が少しだけ遅れた。
「……何の話だ」
ふうん、と雫は俺の横顔を覗き込むようにして歩く。近い。袖が触れ、歩幅までこちらに合わせてくる。少し顔を動かせば、雫の息が頬にかかりそうだった。
あの一件以来、俺たちは一定距離以上離れると面倒なことになる。だから多少近いのは仕方ない。仕方ないのだが、こいつは必要以上に寄ってくる癖がある。
雫の言いたいことは分かっているし、だからこそ余計に腹が立った。
多目的室は密室だった。少なくとも、誰かが正規の手順で鍵を借りて入った形跡はない。なのに、中央のケーキは一切れだけ欠けていた。さらに、その部屋には新見が参加したらしい水城の誕生日会の記憶が混ざっている。
俺はそういう状態が嫌いだった。
欠けているなら、欠けている理由があるはずだと思ってしまう。そこにあるはずのものがないなら、ない理由を考えてしまう。考えなくていいと分かっていても、目に入った空白は勝手に頭の中で居場所を主張してくる。
そもそも、白昼夢に普通の理屈を持ち込むこと自体、間違っているのかもしれない。だが、災害とはいえ、その中心にあるのは人の心だ。それなら、その背後に、人が思い描いた物語があっても不思議ではない。
「……だから何だ」
声に出すと、思ったより苦い響きになった。
「別に。気になるなら追えばいいのに、って思っただけ」
「お前は気づいてるんじゃないのか」
「何に?」
「とぼけるな」
雫は楽しそうに笑った。
答える気はない、という顔だった。
「教えてあげてもいいけど、それじゃつまらないでしょ」
やっぱり、ろくでもない。
俺はため息をつく。
何も知らなければ、もっと簡単に手を引けたのかもしれない。けれど、もう見てしまった。鍵のかかった部屋も、欠けたケーキも、新見の呟きも。見てしまったものは、見なかったことにはできない。
雫はそこで、少しだけ声を落とした。
「それに、白昼夢のこと、知りたいんでしょ?」
今度はすぐに言い返せなかった。
知りたい。
そう言われれば、たぶんそうなのだろう。雫と繋がれてから、この現象は俺の日常の外側にあるものではなくなっていた。白昼夢がどういう形を取り、何を核にして咲き、どうすれば解けるのか。知らないままでいるには、俺の生活はもう少しだけ巻き込まれすぎている。
だが、それを認めるのは癪だった。
「深入りするつもりはない。が、確かに不可解な点は多い」
「うん」
雫は口元に笑みを残したまま、俺の目を覗き込んでいる。
「その顔やめろ」
結局こいつの掌の上で踊ってるんじゃないのかと思わされることが、何よりも腹立たしい。
俺はもう一度、管理棟の方を振り返る。二階の窓は、夕陽を受けて白く光っていた。あの向こうに、まだ丸ごとケーキになった部屋がある。
俺は足を止めずに言う。
「まず、白岡詩乃に話を聞く」
雫は、待ってましたとばかりに顔を明るくした。
「うん。そう言うと思ってた」
夕方の校庭沿いを、俺たちは並んで歩いていく。
不本意なことに、この時点で俺はもう、事件の外側にはいられなくなっていた。




