表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神様失格 ~宵蛍~  作者: 凪波はるか
宵蛍、売り切れました
PR
44/45

宵蛍、売り切れました 11

 倉庫を出てから、灯先輩は、しばらく事務室の棚を漁っていた。

 どうやら何かを探しているらしい。やがて、奥から古い帳面を一冊、両手で取り出した。


 革張りの、もう色の褪せた背表紙。

 年代物だが、その表面は艶めいていて、丁寧に手入れされていたことが窺える。


「これ、祖父のなの」


 灯先輩は、それを琴葉先輩へ向けて、両手で差し出した。


「祖父の遺品を整理した時に、奥の引き出しから出てきました。ずっと、私の机に入れたままで」


 琴葉先輩は、遠慮がちにそれを受け取った。

 その手がおっかなびっくりと表紙をめくる。


 ページの最初の方には、何かの図のようなものが、墨と鉛筆で混ざって描かれている。

 紐を取り、線を引き、その間に小さな矢印が走っている。


「これ……」


「蛍結びの、手順だと思う」


 灯先輩が、横から指で軽く示した。


「私もちゃんと読めたわけじゃないんですけど。たぶん、結び方を、忘れないように残してあるんだと思う」


 琴葉先輩がページをめくると、別のページには、菓子の包み方らしい寸法と、その隣に、聞きなれない言葉のメモが並んでいた。

 

「うちの祖父と、九条さんの先代のお祖父さん、二人で書いたものらしくて。お祖父さん同士で、お互いの店の道具のことを、お互いの帳面に書き合っていたみたいで」


 ページの最後の方に、薄い手書きで、「七尾家への取り置き」と書かれた覧があった。

 日付。

 箱の数。

 時々、その横に、お酒の銘柄や本のタイトルらしいものが、お返しの代わりにちらと書かれていた。


「これ……」


 琴葉先輩は、その頁を見て、しばらく固まっていた。


「うちの祖父のこと、ちゃんと、書いてくれてある」


 琴葉先輩は、帳面を一度胸の前で抱え直した。


「これ……もらってもいいの?」


「うん」


 灯先輩は、はっきりと言った。


「うちの家にあっても仕方ないし。いまの宵蛍に、何か参考にしてもらえたら嬉しいな」


「……うん」


 琴葉先輩は、もう一度、表紙に触れた。


「これなら祖父の宵蛍に、ちょっとだけ近づけるかもしれない」


 その声は、自信に満ちているわけではなかった。

 けれど、その視線はもう前を向いていた。


 灯先輩はそれを聞いて、手の中にある宵蛍の箱を、ぎゅっと抱え直した。


 雫はずっと、店内の奥にあった大きな本棚の前に立っていた。

 古い背表紙を、ただ眺めている。

 その横顔は、いつもより、少しだけ静かだった。


「……ちゃんと、繋がってくれてよかった」


 ぽつりと漏れた声は、いつもの雫より半音だけ低かった。聞き返す前に、その横顔は、もう振り向いてにっと笑っていた。

 空耳だったかもしれない。


             ―◆―◇―◆―◇―◆―


 古書店を出ると、商店街のアーケードは、もうすっかり朝の光に染まっていた。


 琴葉先輩は九条菓匠へ戻る前に、もう一個紙の袋を取り出した。

 中には、四角い小箱がふたつ。


「これ、暁さんたちの分。昨日は本当にごめんね」


 俺は受け取りかけて、一瞬躊躇する。


「で、でも先程、灯先輩にもお渡しされていたのに。いいんですか」


「うん、もちろん。それと――もう一個は、お礼に」


 その言葉に、雫は両手で受け取った。その目は分かりやすく輝いている。


 別れの挨拶を済ませると、琴葉先輩はぱたぱたと九条菓匠の方へ向かって駆けていった。

 その背中が、アーケードの先で小さくなる頃には、商店街の他の店も、少しずつシャッターを上げ始めていた。

 

 店先で見送りに出ていた灯先輩は、改めて、深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


 俺は、なんと返したらいいかしばらく迷って、結局、いつものように軽く首を振った。


「いえ。その、また学校で」


 灯先輩は、もう一度小さく笑って、それから店の中へ戻っていった。

 その足取りはいくらか軽く、手の中には宵蛍の箱が抱えられていた。


             ―◆―◇―◆―◇―◆―


 商店街を抜ける頃には、通りの人通りもだいぶ増えていた。

 開き始めた店先から、朝の匂いが少しずつ流れ出している。焼きたてのパンの匂い、揚げ油の匂い、どこかの花屋の湿った葉の匂い。さっきまで古書店の奥に残っていた静けさとは、まるで別の世界だった。


 それでも俺の頭の中には、まだ、灯先輩が受け取った箱の重さが残っていた。


 終わってしまうから、受け取れない。

 受け取らなければ、続いている気がする。


 あの気持ちは、分からないでもなかった。


 隣を歩く雫は、珍しく静かだった。いつもなら甘いものがどうとか、暑いだとか、ひとことくらい余計なことを言いそうなのに、今日は何も言わない。ただ、紙袋を大事そうに抱えて、俺の半歩後ろをついてくる。


「……暑いな」


 俺がようやくそう言うと、雫は遅れて頷いた。


「うん」


 それだけだった。


 駅前に出る手前の小さな公園に入る。ブランコと鉄棒と、木陰のベンチがあるだけの、どこにでもある場所だ。

 まだ昼前なのに、日差しはもう十分すぎるほど強い。俺たちは一番影の濃い場所のベンチに腰を下ろした。

 

 俺は紙袋から宵蛍の箱を取り出す。薄い和紙の包みをほどくと、透き通った夜色の錦玉羹が整然と並んでいた。小さな金箔が光を受けて、表面だけ淡く揺れる。


 隣から、視線を感じる。

 見なくても分かった。


「……ほら」


 俺は一つ摘まんで、雫の前に差し出した。


 雫が目を丸くする。


「食べたかったんだろ」


「う、うん。そうだけど」


 雫は慌ててそれを受け取った。指先が一瞬だけ触れる。いつものことのはずなのに、なぜか今日はその温度だけが妙にはっきりした。


 雫は受け取った宵蛍を、しばらく眺めていた。そうしてから、ようやくひと口含むと、そのままゆっくりと瞳を閉じた。

 ひと噛み、ふた噛みと味わうように口を動かし、やがてあどけない笑顔をこぼす。


「……美味しい」


 あまりに情感たっぷりに言うものだから、思わず笑ってしまった。


 そのまま雫は、ひとくちずつ大切そうに食べ進め、やがて宵蛍がなくなった。


 空になった紙の包みと、包装用の紐。


 雫は包みを丁寧に四つに折ると、紐をそっと持ち上げ、くるっと巻いた。

 ――その結び目は、片方の輪が小さい、独特な形をしている。


「蛍結び……」


 俺がそう呟くと、雫は口元を少しだけ上げた。


 古書店で灯先輩が取り出した本の説明を見ていたのか。いや、あのときは雫はずっと余所見していたはずだ。

 その割に、その結び目は、まるで長い間その所作を繰り返したような、美しい形状をしている。

 

 ――違う。


 今日が初めてじゃない。

 頭の中に点のように残っていた違和感が、急速に回転を始め、やがて線となる。


 俺は、雫の方へ顔を向けた。


 雫は、紙の包みを巻いた紐を、両手の人差し指の間で、ほんの少しだけ揺らしていた。

 いたずらを思いついた子供のような表情と、それよりずっと深いところでこちらを見ている目が、同じ顔の中に同居している。


「……お前、なんで、それを結べるんだ」


 俺の声は、思ったより掠れていた。


 雫は、答えなかった。

 ただ、結び目の上に、ふっと息を当てる。

 軽い吐息で、片方の小さな輪が、ほんの少しだけ膨らんだように見えた。


「お前がやってたのか。全部」


 雫の口元の角度は、変わらなかった。

 その闇にも似た暗い色の瞳が、さらに深くなったように見えた。


「――湊」


 名前を呼ばれた。

 名前を呼ばれることなんて、こいつとは毎日のように繰り返してきたはずなのに、今のその一音だけが、はっきり違う温度を持っていた。


「それ、聞きたい?」


 からかいでも、はぐらかしでもなかった。


 気付けば、手をかなり強く握りしめていた。その内側には屋外の暑気だけではない汗がびっしりと付いている。

 昼前の風が、公園の木々の葉を、軽く一度だけ揺らす。


 ベンチに座る雫の影が、いつもよりほんの少しだけ長く、地面に映されていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ