宵蛍、売り切れました 11
倉庫を出てから、灯先輩は、しばらく事務室の棚を漁っていた。
どうやら何かを探しているらしい。やがて、奥から古い帳面を一冊、両手で取り出した。
革張りの、もう色の褪せた背表紙。
年代物だが、その表面は艶めいていて、丁寧に手入れされていたことが窺える。
「これ、祖父のなの」
灯先輩は、それを琴葉先輩へ向けて、両手で差し出した。
「祖父の遺品を整理した時に、奥の引き出しから出てきました。ずっと、私の机に入れたままで」
琴葉先輩は、遠慮がちにそれを受け取った。
その手がおっかなびっくりと表紙をめくる。
ページの最初の方には、何かの図のようなものが、墨と鉛筆で混ざって描かれている。
紐を取り、線を引き、その間に小さな矢印が走っている。
「これ……」
「蛍結びの、手順だと思う」
灯先輩が、横から指で軽く示した。
「私もちゃんと読めたわけじゃないんですけど。たぶん、結び方を、忘れないように残してあるんだと思う」
琴葉先輩がページをめくると、別のページには、菓子の包み方らしい寸法と、その隣に、聞きなれない言葉のメモが並んでいた。
「うちの祖父と、九条さんの先代のお祖父さん、二人で書いたものらしくて。お祖父さん同士で、お互いの店の道具のことを、お互いの帳面に書き合っていたみたいで」
ページの最後の方に、薄い手書きで、「七尾家への取り置き」と書かれた覧があった。
日付。
箱の数。
時々、その横に、お酒の銘柄や本のタイトルらしいものが、お返しの代わりにちらと書かれていた。
「これ……」
琴葉先輩は、その頁を見て、しばらく固まっていた。
「うちの祖父のこと、ちゃんと、書いてくれてある」
琴葉先輩は、帳面を一度胸の前で抱え直した。
「これ……もらってもいいの?」
「うん」
灯先輩は、はっきりと言った。
「うちの家にあっても仕方ないし。いまの宵蛍に、何か参考にしてもらえたら嬉しいな」
「……うん」
琴葉先輩は、もう一度、表紙に触れた。
「これなら祖父の宵蛍に、ちょっとだけ近づけるかもしれない」
その声は、自信に満ちているわけではなかった。
けれど、その視線はもう前を向いていた。
灯先輩はそれを聞いて、手の中にある宵蛍の箱を、ぎゅっと抱え直した。
雫はずっと、店内の奥にあった大きな本棚の前に立っていた。
古い背表紙を、ただ眺めている。
その横顔は、いつもより、少しだけ静かだった。
「……ちゃんと、繋がってくれてよかった」
ぽつりと漏れた声は、いつもの雫より半音だけ低かった。聞き返す前に、その横顔は、もう振り向いてにっと笑っていた。
空耳だったかもしれない。
―◆―◇―◆―◇―◆―
古書店を出ると、商店街のアーケードは、もうすっかり朝の光に染まっていた。
琴葉先輩は九条菓匠へ戻る前に、もう一個紙の袋を取り出した。
中には、四角い小箱がふたつ。
「これ、暁さんたちの分。昨日は本当にごめんね」
俺は受け取りかけて、一瞬躊躇する。
「で、でも先程、灯先輩にもお渡しされていたのに。いいんですか」
「うん、もちろん。それと――もう一個は、お礼に」
その言葉に、雫は両手で受け取った。その目は分かりやすく輝いている。
別れの挨拶を済ませると、琴葉先輩はぱたぱたと九条菓匠の方へ向かって駆けていった。
その背中が、アーケードの先で小さくなる頃には、商店街の他の店も、少しずつシャッターを上げ始めていた。
店先で見送りに出ていた灯先輩は、改めて、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
俺は、なんと返したらいいかしばらく迷って、結局、いつものように軽く首を振った。
「いえ。その、また学校で」
灯先輩は、もう一度小さく笑って、それから店の中へ戻っていった。
その足取りはいくらか軽く、手の中には宵蛍の箱が抱えられていた。
―◆―◇―◆―◇―◆―
商店街を抜ける頃には、通りの人通りもだいぶ増えていた。
開き始めた店先から、朝の匂いが少しずつ流れ出している。焼きたてのパンの匂い、揚げ油の匂い、どこかの花屋の湿った葉の匂い。さっきまで古書店の奥に残っていた静けさとは、まるで別の世界だった。
それでも俺の頭の中には、まだ、灯先輩が受け取った箱の重さが残っていた。
終わってしまうから、受け取れない。
受け取らなければ、続いている気がする。
あの気持ちは、分からないでもなかった。
隣を歩く雫は、珍しく静かだった。いつもなら甘いものがどうとか、暑いだとか、ひとことくらい余計なことを言いそうなのに、今日は何も言わない。ただ、紙袋を大事そうに抱えて、俺の半歩後ろをついてくる。
「……暑いな」
俺がようやくそう言うと、雫は遅れて頷いた。
「うん」
それだけだった。
駅前に出る手前の小さな公園に入る。ブランコと鉄棒と、木陰のベンチがあるだけの、どこにでもある場所だ。
まだ昼前なのに、日差しはもう十分すぎるほど強い。俺たちは一番影の濃い場所のベンチに腰を下ろした。
俺は紙袋から宵蛍の箱を取り出す。薄い和紙の包みをほどくと、透き通った夜色の錦玉羹が整然と並んでいた。小さな金箔が光を受けて、表面だけ淡く揺れる。
隣から、視線を感じる。
見なくても分かった。
「……ほら」
俺は一つ摘まんで、雫の前に差し出した。
雫が目を丸くする。
「食べたかったんだろ」
「う、うん。そうだけど」
雫は慌ててそれを受け取った。指先が一瞬だけ触れる。いつものことのはずなのに、なぜか今日はその温度だけが妙にはっきりした。
雫は受け取った宵蛍を、しばらく眺めていた。そうしてから、ようやくひと口含むと、そのままゆっくりと瞳を閉じた。
ひと噛み、ふた噛みと味わうように口を動かし、やがてあどけない笑顔をこぼす。
「……美味しい」
あまりに情感たっぷりに言うものだから、思わず笑ってしまった。
そのまま雫は、ひとくちずつ大切そうに食べ進め、やがて宵蛍がなくなった。
空になった紙の包みと、包装用の紐。
雫は包みを丁寧に四つに折ると、紐をそっと持ち上げ、くるっと巻いた。
――その結び目は、片方の輪が小さい、独特な形をしている。
「蛍結び……」
俺がそう呟くと、雫は口元を少しだけ上げた。
古書店で灯先輩が取り出した本の説明を見ていたのか。いや、あのときは雫はずっと余所見していたはずだ。
その割に、その結び目は、まるで長い間その所作を繰り返したような、美しい形状をしている。
――違う。
今日が初めてじゃない。
頭の中に点のように残っていた違和感が、急速に回転を始め、やがて線となる。
俺は、雫の方へ顔を向けた。
雫は、紙の包みを巻いた紐を、両手の人差し指の間で、ほんの少しだけ揺らしていた。
いたずらを思いついた子供のような表情と、それよりずっと深いところでこちらを見ている目が、同じ顔の中に同居している。
「……お前、なんで、それを結べるんだ」
俺の声は、思ったより掠れていた。
雫は、答えなかった。
ただ、結び目の上に、ふっと息を当てる。
軽い吐息で、片方の小さな輪が、ほんの少しだけ膨らんだように見えた。
「お前がやってたのか。全部」
雫の口元の角度は、変わらなかった。
その闇にも似た暗い色の瞳が、さらに深くなったように見えた。
「――湊」
名前を呼ばれた。
名前を呼ばれることなんて、こいつとは毎日のように繰り返してきたはずなのに、今のその一音だけが、はっきり違う温度を持っていた。
「それ、聞きたい?」
からかいでも、はぐらかしでもなかった。
気付けば、手をかなり強く握りしめていた。その内側には屋外の暑気だけではない汗がびっしりと付いている。
昼前の風が、公園の木々の葉を、軽く一度だけ揺らす。
ベンチに座る雫の影が、いつもよりほんの少しだけ長く、地面に映されていた。




