神様失格
さっきまで、駅へ向かう人影が、アーケードの方角からひっきりなしに流れていたはずだった。
それなのに、今は誰の姿も見えない。いや、正確には、そこにいるはずなのに、誰も彼もがなんとなく薄く滲んで見える。
蝉の声も、いつの間にか遠くなっていた。
ベンチを囲む木々の葉も、さっきまでより揺れていない。
それは、公園の中と外の世界の間に境目が出来たかのような、不思議な感覚。
「これも、お前がやってるのか」
俺は雫の瞳をまっすぐに見据え、探るように問いかけた。
雫は、紐の結び目を人差し指の腹で軽く整えた。
「ふふっ、野暮なことはいいじゃない。そんなこと、今は重要じゃないでしょ」
そう言うと、雫は挑戦するような目で、俺を見た。
――知りたいなら、お前が解いてみろ。
言外に、そうやって試しているように見えた。
「……先月の、管理棟での事件からのことだ」
雫は黙ったまま、こちらを見ている。
「あのときは一切れだけ欠けた、八等分のケーキ。新見さんの、来てほしくなかったのに来てほしかった、という気持ちが行き先を失って、あの一切れになっていた。先週の寮で起きたのも同じだ。真弓さんの、俺に寮に根付いてほしいという想いが、行き先を失って、部屋を水槽みたいに変えてしまった。そして今回、灯先輩の終わらせたくないという願いが、九条菓匠の宵蛍を取り置き続けていた」
言葉を選ぶ間に、自分の声が低くなっていく。
「三つとも誰かが悪意で動いたわけじゃない。誰かが意図して白昼夢を起こしたわけでもない。全部自然に起きていた。誰かの中にあった行き先を失った想いが、勝手に形になっただけだ」
雫は短く頷いた。
「でも、毎回、現場には同じ結び目があった」
俺は、雫の手の中の四つに畳まれた紙包みと、そこに巻かれた紐を指で示した。
「多目的室にあったプレゼントボックス。水槽になった俺の部屋に浮かぶ、白いマグを包んでいた布巾。今朝の、宵蛍の箱、それから七尾の木札。その全部に、同じ蛍結びがあった。あれは和菓子屋の娘すら知らない古い結び方だ」
雫の指は、もう紐に触れていなかった。
その指の先が、ベンチの板の上で、なんでもなさそうに一度だけ空気を撫でる。
「……ふふっ」
雫が、笑った。
最初の音は、いつもの軽口の前の笑い方とほとんど同じだった。
けれど、その笑いは、止まらなかった。
「あっはははは」
その笑い声はひどくわざとらしく、肩はほとんど動いていなかった。
笑っているのに笑っていない様子が、目の前で見えた。
「ねえ、湊。私ね、湊のこと、頭良いなぁって思ってたんだけど。そんなところまで、ちゃんと見るんだね」
「悪かったな」
「褒めてるんだよ。だってさ、白昼夢って、同じような時代の、同じような商店街で起きてるんだから、出てくる結び目だって勝手に似てくるかもしれないでしょ。湊は、それを否定できる?」
「白昼夢は人の想いだって、自分で言ってただろ。つまりあの結び方を知ってる人間じゃなきゃ、あんな幻は生み出せないはずだ」
雫の指が、紐の上でほんの一拍止まる。
その表情に浮かべられた笑みが、形を変えた。
「――いいよ。まあ、それに気づいただけでも驚いたからね。教えてあげる」
雫は、紐から指を離した。
その指を、自分の膝の上に、軽く置く。
「私はね、湊が思ってるよりずっと長いこと、人の白昼夢っていうものを見てきたの。咲き始めて、咲ききって、それからどっちに転がっていくのか。ぜんぶね。自分で起こす力は、もうほとんどないけど」
そう言うと、雫は少し忌まわしげに俺を見た。
たぶん、四月の事件のことを言っているんだろう。
俺たちと雫が出会った、あの鮮烈な出来事を。
「いまの私に残ってるのは、ちょっとだけ形を整える力。誰かの白昼夢が変な方向に伸びる前に、少しだけ葉っぱの向きを直すの。咲かせないように、腐らせないように」
雫は、自分の指先をくるりと回して見せた。
「物理的な紐を用意して、手で結んでるわけじゃないよ。他人の白昼夢に干渉すると、どうしても私の力の『癖』みたいなものが、ああいう形で残っちゃうの。絵描きのサインとか、足跡みたいにね」
「……それが、あの結び目か」
「そう。私が知ってる中で、いちばん行き先を失った想いに似合う形。先月からじゃないよ。湊と会うあの四月よりずっと前から、私はこうして足跡を残してた」
そうして言葉が途切れた、その時。
雫の髪が、ほんの一瞬だけ、色を変えた。
まっすぐな黒だったはずの毛先に、薄い銀の光が走る。
光は、ほんの数センチだけ、リボンの結び目を伝ってから、すぐに、もとの黒へと戻った。
深い黒だった瞳の奥に、紅い色が、一瞬だけ、宿った。
まばたき一回分の間に、その色も、いつもの黒に沈んだ。
俺は、息を止めていた。
まばたきが終わると、雫はまた、ふっと普段の顔に戻った。
「あんまり、見せるつもりじゃなかったんだけどね」
声まで、いつもの調子に戻っていた。
胸が痛みを覚えて、俺はようやく呼吸を取り戻した。
背中を多量の汗が流れ、心臓がバクバクと音を立てている。
ベンチの板の硬さを、太ももの裏に感じられるようになるまで、少し時間がかかった。
――そう、雫は人ではない。
四月のあの一件で、俺はそれを痛いほど思い知らされたはずだった。
雫は、まだこちらを見ている。その深い黒の瞳には、何の痛みも映っていない。
他人の切実な痛みを覗き込み、形を変えながら、こいつ自身は決して傷つくことがない。安全な場所から見下ろしているだけの、その絶対的な空虚さ。
あの四月の事件からずっと胸の奥で燻っていた怒りのようなものが、今、はっきりとした熱を持ってせり上がってくるのを感じた。
俺は、自分の中の言葉を、もう一度確かめた。
「神様……」
「神様って表現が正確なのかは正直私はあまりしっくり来ていないけど、まあ、湊の中でそれが分かりやすいなら、それでもいいよ」
人の白昼夢に自在に干渉し、それをいかなる形にも作り変える存在。
ときに捻じ曲げ、ときに正し、世界の有り様をいくらでも動かすことができる。
「お前が神様でいる限り、たぶん、お前はずっとこうなんだろ。人の想いを好き勝手いじって、そのくせ誰の想いも理解せず、受け取ることもない」
雫の指先が、自分の膝の上で軽く動いた。
答えは返ってこなかった。
俺の頭の中に、一ヶ月前のあの夜が浮かんだ。
共用棚の前で、白いマグカップを手に持ったまま立ち尽くしていた俺。たった一個の陶器を置くだけのことが、なぜあんなに重かったのか。あの時は、受け取ることが終わりみたいに思えていた。今ならもう少しだけ、別の言葉で言える。あれは、ようやく始まりだったんだと。
俺は、息を吸い直した。
「そんなのが、お前の言う神様なら」
声が、自分でも少し低くなった。
「……お前は神様失格だ」
雫の眉が、わずかに動いた。
驚いたとも、傷ついたとも違う、ただ、その言葉を自分の中で一度受け止めるような動きだった。
「だからいつか、俺がお前を人間にしてやる」
言い切ってから、自分でも、その言葉の温度に少し戸惑った。
でも、引き戻すつもりはなかった。
雫は、しばらく、こちらを見ていた。
それから、ゆっくり、口の端だけを上げる。
「……ふふっ」
さっきと同じ笑い方だった。
今度は肩が小さく揺れた。
「神様失格か。いいね、それ。湊が言うなら、ちょっとだけ考えてあげる。ま、いきなり人間になるって難しいだろうから、ちょっとずつね」
言いながら、雫は、自分の前髪をもう一度払った。
払う動きの途中で、その指が、ほんの一瞬だけ、自分の毛先の色を、確かめるようにつまんだ。
光はもう、走らなかった。
「ちょっとずつ、付き合ってあげる」
その言葉を合図にしたかのように、公園の入口の角でぼやけていた人影が輪郭を持ち始めた。
朝の流れの中で、知らない誰かが歩いていく。
蝉の声が大きく戻り、木々の葉が軽く揺れた。
世界は、いま、何事もなかったみたいに、また回り始めていた。
さて、と俺はベンチから立ち上がる。
「帰るか」
「うん」
雫は、紙の包みの紐を、もう一度だけ指の腹で撫でてから、そっと畳んだ紙の中にしまった。
雫の影は、もう、いつも通りの長さだった。
俺の半歩後ろを、こいつはいつものペースでついてくる。
駅前の広場まで戻ってくる頃には、グランパレットのエントランスは日曜の朝の客で、すでに賑わっていた。
ガラス張りのエントランスが朝の光をまっすぐと照り返している。
「ねえ、湊」
俺の少し後ろで、雫が、ぽつりと言った。
「人間にしてもらうの、ちょっと、楽しみにしてる」
それは、いつもよりずっと小さな声だった。
俺は、振り返らずに、ただ短く答えた。
「ああ」
そう言いながら、自分の手の中の空になった紙袋をもう一度握り直す。
宵蛍はすでになく、中には解かれた紐が静かに横たわっていた。




