宵蛍、売り切れました 10
七尾古書店までの数分を、俺たちはほとんど無言で歩いていた。
商店街のアーケードの天井から差す光は、もうしっかり朝のものになっていた。
昨日と同じ古い木の看板。ガラス越しに、店の中の本棚の影が、ぼんやり見える。
あの後、もう一度古書店の倉庫を見せてもらえるか頼み、灯先輩がそれを了承した。
彼女は鍵を取り出すと、ガラガラ、と引き戸を開けた。
昨日と同じ、紙と埃と、わずかな黴の匂い。けれど、今日はそこに、ほんの少しだけ、別の気配が混じっている気がした。
奥のカウンターを抜けて、土間の通路へ。
昨日歩いた道のはずなのに、足音だけは、なんとなくこちらの方が大きく聞こえた。
倉庫の引き戸の前で、灯先輩は一度立ち止まった。
「……開けるね」
誰に断っているのか、自分自身に言ったのかは分からない。
俺は黙って頷いた。
戸が、すっと滑る。
昨日見た雑多な品物の山は、変わらない位置に置かれていた。
古い本の束。紐で括られた雑誌。見慣れない出版社の段ボール。
けれど、その奥の一画だけ、空気の質感がはっきり違っていた。
昨日、俺が蓋を開けた木箱は、まだそこにあった。
そしてその中には、宵蛍が入っている。
蓋の上にかけられた紐は、片方の輪だけ小さい結び目を作り、包みの紙には皺ひとつない。
灯先輩は、その箱を見て目を伏せた。
「……これを受け取ったら、本当に終わってしまう気がする」
その言葉は、低かった。怖がっている声でも、抗っている声でもなかった。ただ、自分の中に、はっきりとそういう気持ちがあることを、自分で認めた声だった。
俺は、その言葉を、しばらく頭の中で受け止めた。
ひと月前。
俺の部屋が水槽になった、あの日。
共用棚に、白いマグカップを置いた瞬間に、思ったことを覚えている。
俺はその時、たった一個のマグを置くだけで何かが終わるような気がしていた。
それ以上は、まだ置けない。けれど、ひと月たったいま、あの選択は正しかったと今ならそう思い始めている。
「……先輩。受け取らないまま、ここに残しても、それは、続いていることには、ならないと思います」
灯先輩は、小さく頷いた。
「分かってる、つもり。頭では」
その表情は未だに晴れない。
気持ちはよく分かる。俺もそうだったから。
「全部はまだ難しくても、ひとつだけなら、受け取っていいんじゃないですか。手元にあったって、ちゃんと覚えるために」
灯先輩の指が、いちばん新しい箱の縁の上で、軽く動いた。
その時、店の表で、引き戸の鈴が鳴った。
俺と雫と灯先輩、三人とも、同じタイミングで顔を上げる。
「……すみません、まだ営業前のところを」
よく通る声と、それを抑えようとする息遣いが一緒に聞こえた。
遠慮がちな足音が、土間の通路をこちらへ近づいてくる。
そして九条先輩が入口から顔を覗かせる。その表情は息を整える間も惜しいというような様子で、こちらを見ていた。
「希ちゃんから、連絡もらって」
灯先輩が、ゆっくり目を見開く。
俺は、ばつの悪さに、後頭部を掻いた。
昨日の帰り道、念のためにと希から琴葉先輩の連絡先を聞いていた。今朝、灯先輩から話を聞いた時点で、ひとことだけ希に向けて状況を流していた。希のことだ、寝起きなのにすぐに気を回してくれたのだろう。
「無理に呼んだみたいになって、すみません」
「ううん、むしろ来て良かったよ」
琴葉先輩は息を整えながら、倉庫の中の通い箱の列を見回した。
俺は、その視線をとめる。
「琴葉先輩――、消えた宵蛍を見つけました」
琴葉先輩は何度か瞬きをしたあと、大きく息を吐いた。
けれどそれは、呆れたという様子ではなく、むしろ、ようやく合点がいったという安堵のように見えた。
「……灯さん」
琴葉先輩は、灯先輩のすぐ斜め前まで進み出る。
「ごめんね、こんな朝早くに」
「ううん。私こそ」
灯先輩は、まだ箱の上に手を置いたままだった。
琴葉先輩はその箱を見て、灯先輩の顔を見て、それから一度、深く息を吸った。
「うちの祖父、本当にこの取り置きのこと、一度も口にしなかったんだよ」
琴葉先輩は目を伏せ、懐かしむような表情を浮かべる。
「去年はもう菓子作りなんてほとんど出来なくなってて、それなのに変なところで頑固というか。私や両親には、結局、ちゃんとは引き継いでもらえなかったの。それでも私たちは、毎日なんとか宵蛍を作って。ありがたいことにお客様に届けることが出来てる」
灯先輩はその言葉を静かに聞いている。
「今ならちょっとだけ分かる気がする。なんで祖父が作り方を教えなかったのか」
琴葉先輩は、自分の指先を見つめた。粉を捏ねすぎてカサついた、職人の手だった。
「教えてもらえれば、楽だったよ。レシピがあって、配合があって、その通りに作れば祖父の宵蛍が出来上がる――そう信じてた頃もあったの。でも、それじゃきっと、私の作るものは一生祖父の手の影になる」
琴葉先輩は、店の方向を一度振り返ってから、灯先輩を見た。
「祖父は私に、迷ってもいいって伝えてくれたんだと思う。怖いし、毎日不安だけど。……昔の宵蛍とはもう違うかもしれない。それでも私は精一杯、私の宵蛍を作り続けてみようと思うんだ」
その言葉に、灯先輩の指がほんの少しだけ動いた。
俺は二人の顔を交互に見ながら、そっと切り出した。
「今、ここに毎朝届いているのは、琴葉先輩が、毎朝、ご家族と一緒に作っている宵蛍です。昔の宵蛍をここに閉じ込めるための一箱じゃない」
俺はもう一度、できるだけ素直な声で言う。
「だから今の宵蛍として、ひとつ、受け取ったらいいんじゃないですか」
琴葉先輩が、灯先輩の方へ一歩、踏み出す。
「灯さん」
「……うん」
「うちの宵蛍は、祖父のものほど綺麗じゃないし、たぶん、味も少しずつ違うと思う。それでも今日も、二十箱、ちゃんと作って、ここまで来てる」
琴葉先輩は、軽く頷いてから、続けた。
「もしよかったら、一箱、受け取って。取り置きじゃなくて、今朝ちゃんと作った、今日の分として」
その言い方に、灯先輩の指がぴたりと止まる。
「今朝、ちゃんと作った……」
「うん。祖父の代の宵蛍じゃない。私と母と、家族で作った、今年の宵蛍」
琴葉先輩は、倉庫の奥を一度だけ見やった。
「だから、ここに置かれたままの箱じゃなくて、店から渡したいの」
灯先輩は、しばらく何も言わなかった。
やがて、手元の古い木札を見下ろし、それをそっと脇の木箱の上へ置く。
その札が、かた、と小さな音を立てた。
「……分かった」
そう言って、灯先輩は琴葉先輩の差し出した箱へ手を伸ばす。
「私、ずっと去年の最後の一箱を受け取りそびれたまま、止まってたんだと思う」
灯先輩の指先が、今朝作られた宵蛍の箱に触れる。
「だから毎朝、札だけ置いて、最後の一箱だけを昔みたいに取り置きにしてた。十九箱目までは店にあって、最後の一箱になった瞬間だけ、ここへ来るように」
俺は、その言葉に静かに頷く。
灯先輩自身の口から、その仕組みがようやく確かな形になった。
「うん。でも、もういい」
灯先輩は箱を受け取った。
両手で、確かめるように抱きしめる。
「今日の分を、今日の宵蛍として受け取る」
その瞬間。
倉庫の中の空気が、ふっと一段、温度を変えた。
奥に積まれていた木箱のうち、宵蛍の包みが入っていたものだけが、淡く発光し始める。
昨日まで毎朝“最後の一箱”として運び込まれていた分なのだと、説明されなくても分かった。
古い通い箱の中で、幾日分もの宵蛍が、輪郭から少しずつ薄れていく。
最初は一番上の新しい箱が、次にその下、そのまた下へと、順番に。
どれも、もう誰にも渡されないまま取り置かれていた時間のぶんだけ、静かに朝の光へほどけていった。
いちばん奥、ひとつだけ古びた木箱の中に残っていた箱が最後まで光を宿していた。
灯先輩は自分の腕の中の箱を抱えたまま、その古い箱を見ていた。
何かを言いかけて、けれど結局それは音にならない。
その箱もやがて、すうっと消えた。
倉庫には、もう、いつもの古い空気だけが残った。
灯先輩の腕の中の、今朝受け取った一箱だけが、しっかりとそこにあった。




