宵蛍、売り切れました 9
俺は灯先輩を、九条菓匠から少し離れた場所にあるベンチへ促した。
アーケードの柱に寄り添うように置かれた古い木造のベンチは、商店街のまだ賑わっていた頃の名残のように、塗装が一部剥げていた。
灯先輩は素直に頷いて、ベンチに腰を下ろす。
俺はその隣に座り、雫は俺の反対側、少しだけ間を空けて座った。
しばらく、灯先輩は手の中の木札を眺めていた。
朝の光が、徐々に強くなっていく。アーケードの天井から漏れる空の色も、藍から薄い水色へと変わりかけていた。
「うちの祖父と、九条さんの先代のお祖父さんは、昔からの友人だった」
灯先輩は、ようやく口を開いた。
「商店街で、同じ世代の店主同士。年齢も近くて、気が合ったんだろうね。私が小さい頃にも、二人は時々夜に呑みに出かけていたりしていたの」
俺は、頷いて先を促す。
「宵蛍を作っていたのは、九条さんのお祖父さんで」
灯先輩は、自分の手の中の木札を、指先で軽く撫でた。
「夏の季節限定の和菓子だから、毎年初夏になると店頭に並んで。当時は、一日二十箱どころか、もっとたくさん作っていたみたいなんだけど、それでも、すぐに売り切れる人気商品で」
「そんなに昔から」
「祖父の代から、ずっとよ」
灯先輩は、ふっと懐かしむような笑みを浮かべた。
「うちの祖父が、毎年宵蛍を楽しみにしていて。でも、お店に並んで買うのはなんだか申し訳ないって言っていた。同じ商店街の店主同士で、行列に並ぶのは妙な気がするって」
「それで、何か取り決めを?」
「九条さんのお祖父さんが、笑って言ったらしいわ。『七尾、お前の分は、最後の一箱、いつでも取っておいてやるよ』って」
俺は、その光景を頭の中で想像する。
古い商店街の、まだ賑わっていた頃。和菓子屋の店先で、店主同士が冗談まじりに約束を交わす光景。
「それで、毎年、宵蛍の季節になると、九条菓匠から、最後の一箱がうちに届くようになって」
「お店から、直接ですか」
「ううん。九条さんの方では、その一箱だけ、店頭に並べずに奥に取り置いておくの。レジ横の台に、木札を置いておく。それが、『今日は一箱、七尾家への取り置き分があります』っていう、二人の合図」
灯先輩は、自分の手の中の木札を、また見つめた。
「それが、この木札」
俺は、木札の焼き印を、もう一度確認する。
七尾、の二文字。朝の光の中で見ると、その何十年も使われてきた擦れさえもが、きらきらと艶めいていた。
「商品の方は九条さんで取り置いて、後でうちの祖父が店仕舞いの前にでもふらっと取りに行く。あるいは、九条さんのお祖父さんが、夜にうちの店に持ってきてくれることもあって」
先輩は、懐かしむように空を仰ぎ見る。
「そうして頂いたお菓子の代わりに、後でうちの祖父が別の日にお酒の一升瓶を持って行ったり、本を一冊渡したりして、まあ、お互い様で済ませていたのよ」
雫は俺の反対側で、黙って話を聞いていた。
時々、自分の膝の上で組んでいた指を、軽く動かしている。
口を挟む気はないらしい。
「私が、最後の一箱を、家まで持って帰る役目を始めたのは、たしか、小学校三年生か、四年生くらいの時で」
灯先輩は、ようやく自分の話の核心に入っていく顔をした。
「うちの祖父は、年々、外出が辛くなっていて。それで、私が祖父の代わりに、九条菓匠まで取りに行くようになった」
灯先輩は昔を思い出すように、時々止まりながら、それでも話を続けていく。
「最初は、ただのお使いだったの。子供の足で、商店街の少し先まで歩いて、九条菓匠の暖簾をくぐる。レジの奥にいた九条さんのお祖父さんが、私を見ると、『おう、灯ちゃん、今日はちゃんと札があるな』って笑って、奥から箱を持ってきてくれて」
灯先輩の目が、少しだけ遠くを向いていた。
「家に着くと、祖父が縁側で待っていて。私が箱を渡すと、『ありがとな』って言って、その日のうちに、家族で一個ずつ分けて食べる。私はもう、その役目が、自分の中で、とても大事だった。……まるでうちの祖父と、九条さんの先代のお祖父さんの長い友達関係を、私が引き継いでいるような気がして」
灯先輩は、そこで一度、息を吸い直した。
「子供だったから、はっきり言葉にしていたわけじゃないんだけど。たぶん、私の中では、宵蛍の最後の一箱を運ぶことが、その友情を、確かに続けていることの証のように思えていた」
俺は、何も言わなかった。
ただ、灯先輩の手の中の木札をもう一度見た。
灯先輩は、続ける。
「中学に上がっても、高校に上がっても、その役目は変わらずに私が続けたわ。毎年、初夏になると、宵蛍の取り置きが始まって。私が、最後の一箱を取りに行く」
それなのに、と先輩は沈んだ表情になった。
「でも一年だけ、行かなかった年があったの」
その一言で、空気が少しだけ変わった。
灯先輩の声から、温度が抜けたのが、隣にいる俺にも分かった。
「それが――、去年の夏」
灯先輩は、足元の商店街のタイルを見つめている。
「うちの店の調子が、本当に良くなくて。祖父の体調も、その前の年から徐々に悪くなっていて、店の手入れも追いつかなくなっていて。両親は、もう古書店を畳むしかないんじゃないかって、本気で話し合うようになってた。私はその時、高校二年生で。両親と祖父母の話に、子供だから入る余地はないんだけれど、家の中の空気は、嫌でも分かる。祖父母は閉めたくない、両親は仕方ないって言う。毎晩、夕食の時の会話が、少しずつ重くなっていって」
灯先輩は、自分の指を、もう一度、紐の結び目に当てた。
「その年の宵蛍の季節も、いつもどおり九条さんから取り置きのお知らせが届いた。母が、私に『今年も行ってきてくれる?』って」
俺はその言葉を静かに聞いていた。
しかし、中々続きの言葉が来ることはなく、先輩は自分の手を強く握りしめていた。
「でも、受け取り日の朝。私は九条菓匠に向かう気になれなくて。それで、商店街の入口の手前まで行って、近くの椅子に座り込んでいたの。夕方になって、家から電話があった」
そうして次に発せられた言葉は、重い響きを含んでいた。
「……祖父の容態が急に悪化して、その日の夜に、亡くなった」
灯先輩は、適切な言葉を探すように、唇を結んだ。
「なんであの日に限ってお店に行かなかったのか、今でもちゃんと分からない。でも、たぶん、全部終わってしまうことが怖かったんだと思う。宵蛍を受け取らなければ、まだ、終わらないままでいられる気がしたのかもしれない」
俺と雫は、隣で黙って聞いている。
「後から聞いて分かったんだけど、あの日、九条さんは夜まで私を待ってくれていたみたいで。閉店時間を過ぎても、奥に最後の一箱を置いたままでいてくれてたらしいの」
灯先輩は、目を伏せる。
「次の日の朝、母にそれを教えられて、一緒に謝りに行きました。九条さんのお祖父さんは、『いいんだよ、灯ちゃん、子供だって気が向かない日はある』って、笑って許してくれて。でも、それから数日して、お祖父さんも……」
灯先輩は、零れ落ちそうなものを必死に堪えるように、顔を俯けた。
「あの日、宵蛍を受け取っていれば。そんな後悔を、心のどこかでずっと持っていたんだと思う」
灯先輩は、自分の手の中の木札を、両手で包んだ。
「そうして今年も、宵蛍が販売されるっていう連絡が来て。……もちろん、琴葉さんだって辛いだろうし、頑張ってることは知ってる。それでも、私の中では今の宵蛍は、昔の宵蛍とは違うものに思えた」
灯先輩の声が、また少し細くなった。
「もう昔の終わったものみたいに、扱われていくように感じてしまった」
俺は、その言葉をしばらく頭の中で転がした。
「たぶん、私は、あの最後の一箱を祖父に渡せないままで終わったことを、ずっと……」
灯先輩は、木札の紐の結び目を、もう一度、指の腹でなぞった。
朝凪商店街のアーケードの天井から、もうはっきりと、青みがかった朝の光が落ち始めていた。
通りの遠くで、シャッターを上げる音が、ひとつだけ聞こえた。
灯先輩の手の中の木札が、その光をほんの少しだけ受けて、表面の七尾の彫りを、いつもより深く浮かび上がらせていた。




