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神様失格 ~宵蛍~  作者: 凪波はるか
宵蛍、売り切れました
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41/45

宵蛍、売り切れました 8

 翌朝、五時すぎ。


 ベッドの上で目を開けた俺は、しばらく天井を眺めていた。

 昨日の昼間ほどの熱気はまだなく、腰窓の外から流れ込んでくる空気は、思ったより涼しい。蝉の声もまだない。代わりに、どこか遠くで、新聞配達の原付の音だけが薄く聞こえていた。


 起きるのは正直、しんどい。

 昨日は商店街を往復したあと、頭の中で何度も同じ事実を並べ直していて、寝つきも悪かった。

 それでも、灯先輩に「明日の朝、伺ってもいいですか」と言ってしまった以上、後戻りはできない。


 俺はのんびりと身体を起こし、音を立てないように廊下へ出た。


 寮の中はまだ静かで、共用スペースのリビングにも明かりはない。

 それでも、台所の方からだけは、薄くコーヒーの匂いがした。真弓さんは今朝も早い。

 

 そして、タイミングを見計らったかのように、軽い足音が俺の後ろから追ってきた。

 

「……ほんとに行くの」


 すでに起きていたらしい雫が、寝間着のまま、不機嫌そうな顔でこちらを見ている。

 昨晩はぶーぶー文句を言っていたが、結局日曜の朝早くにも関わらずちゃんと起きてきたことに少しだけ驚いた。


 そうして、俺たちは寮を後にした。


 外に出ると、空はまだ夜と朝の境界にあった。

 西の空に薄い藍が残り、東の方は、ようやくほんのり橙色に染まりはじめている。

 昨日まであった重たい湿気は、夜の間に少し抜けたらしかった。


 俺と雫は、誰にも見つからないように寮を出ると、駅へ向かう道を歩き始めた。


 道はまだ眠っていた。

 信号機だけがいつもと同じテンポで色を変えていて、その下を、新聞配達と、たぶん同じくらいに早起きの誰かが乗ったきりの自転車が一台、無言で通り過ぎる。


「先輩、本当に来ると思う?」


 雫が、半歩遅れて歩きながら言った。


「分からない。けど、毎朝続いてるなら、今朝も来てるんじゃないかな」


 雫はそれきり、言葉を続けることはなかった。


             ―◆―◇―◆―◇―◆―


 駅前の広場は、昨日とは違う顔をしていた。


 まだ家族連れもサラリーマンもいない。

 ロータリーには、始発前らしいタクシーが一台、運転手の姿のないまま停まっている。広場の植え込みでは、鳩が二、三羽、地面を歩いていた。


 俺たちはグランパレットの巨大なエントランスを横目に、駅舎を抜ける。


 反対側に出ると、朝凪商店街のアーケードは、ほとんど夜の続きみたいな顔をしていた。

 半透明の天井から落ちる光はまだ弱く、看板の文字はみな、灰色の影に沈んでいる。営業前の店々のシャッターが、通りの両側で同じ高さに揃って降りていた。


 俺は、九条菓匠から二、三軒分、駅寄りの位置で足を止めた。


 ちょうど、隣の店のシャッターの前にだけ、業務用の冷蔵庫が一台、壁から少し張り出して置かれていた。

 そこに身を寄せれば、九条菓匠の入口を斜め前から見渡せて、こちらからは死角になる。


 俺と雫は、その陰へ滑り込んだ。


「張り込みみたいだね」


「実質、張り込みだろ」


「ふふん」


 雫はやけに楽しそうに言うと、冷蔵庫の側面に肩を寄せた。


 俺はスマホで時間を確認する。

 五時三十二分。

 まだ、開店時間の九時には三時間半近くある。整理券を求める客が並びはじめるのは、早くても七時前。それまでに何か動きがあるとすれば、今この時間しかない。


 俺は息を整えながら、九条菓匠の正面を見つめた。


 木製の古い看板。

 半分擦り切れた『九条菓匠』の文字。

 まだ照明の入っていない暖簾の奥は、外より一段濃い闇に沈んでいる。

 軒下、入口の脇には、商品見本を入れる小さなショーケースと、店名入りの古い郵便受けが備え付けられていた。郵便受けの上には、小さな木製の台が置かれていて、たぶん、店が開いている時はそこに整理券を配るための籠が乗るのだろう。


 いま、台の上には、何もない。


 俺は黙って待った。


 雫も黙っていた。

 時々、目を細めたり、視線を別の方向にやったりする以外、いつものちょっかいは一切出さない。


 そして商店街の奥の方で、雀が鳴いた、その時。


 通りの奥側、駅とは反対の方角から、ひとつだけ、足音が近づいてきた。


 歩幅は速くなく、ためらいもなく、淀みもない。

 歩き慣れた道を歩いている人間の足音だった。


 影は、まだ薄暗いアーケードの中で、最初は曖昧な輪郭でしかなかった。

 白っぽい服。長い髪。背中に何も背負わず、両手も空いて見える。


 すぐに、それが昨日見た輪郭と重なる。


 七尾灯。


 俺たちの様子に気づくこともなく、九条菓匠へと歩いていく。


 だがその歩き方は、少し奇妙だった。


 昨日、店の中で見た灯先輩は、確かに物静かではあったけれど、自分の足ではっきりと歩いていた。

 それなのに、今視線の先を歩く先輩の足取りは、どこかふわふわしていて。

 まるで、歩いているというよりも、少しだけ浮いているような軽さがあった。

 その目はどこか虚ろで、店にも道にも合っていない。


 俺は息を浅くする。


 灯先輩は、九条菓匠の店先で、すっと足を止めた。


 ほんの一瞬だけ、暖簾の奥を覗き込むような仕草をする。

 すぐに、自分の右手を、シャツの胸ポケットへ滑り込ませた。


 取り出されたものは、予想通りのものだった。


 古い桐の木札。

 角の摩耗した板に、薄く焼かれた「七尾」の二文字。

 通された麻紐は、片方の輪だけが小さい結び目を作っていた。


 昨日、九条菓匠のレジ台の下から出てきたのと、同じ札だ。

 あの札は昨日も店にあったはずなのに――まさか、あれ自体も幻だったというのか。


 灯先輩は、木札を持った手を、軽く一度、自分の目の高さまで持ち上げる。

 そして慣れた手つきで、紐の結び目を人差し指の腹で一度、軽く整え直した。


 その手が、ゆっくりと、九条菓匠の郵便受けの上の、小さな木製の台へ降りようとする。


 それが為される前に、俺は一歩、表に出た。

 そして、静かに呼びかける。


「先輩」


 灯先輩の手が、台の手前で、ぴたりと止まった。

 それだけではない。まるで周囲の空気が止まったような、一瞬の静寂。

 

 灯先輩は、しばらく動かなかった。

 手を伸ばしたままの姿勢で、まばたきだけが、二回、不揃いに続いた。


 それから、ゆっくり、こちらに顔を向ける。


 俺と目が合った。


「……あれ」


 最初に出てきたのは、その一音だけだった。


 灯先輩の視線が、俺の顔から、自分の手の方へ落ちる。

 そこに乗っているものを、初めて見るような顔で、しばらく見つめていた。


「……これ」


 声はかすれていた。


「私、どうして、これを持ってるの」


 俺はゆっくり近づきながら、声の高さを変えないように気をつけた。


「先輩がそれを持ってきて、九条菓匠の前の台の上に置こうとしていたんです」


 灯先輩は、自分の手の中の木札を、もう一度見る。

 それから、自分の足元、商店街のタイル張りの床を、戸惑うように見渡した。


「……そう、なの?」


 俺は返事の代わりに頷いた。

 灯先輩は、しばらく言葉を探しているようだった。


「ここに来た記憶が、全然ない」


 声が、徐々に細くなる。


「昨日の夜は、ちゃんと家にいて。寝る前に祖母とお茶を飲んで、自分の部屋に戻った。それは覚えてる。なのに、いま、私はここに立ってて、手にこれを持っていて」


 灯先輩は、木札を握り直した。

 握る、というよりは、ようやく自分の手で持つことを意識した、という風だった。


 俺は混乱する先輩に、努めて穏やかな調子で言った。


「九条菓匠で、ここ数日連続で、最後の一箱だけが消えていたそうです」


 灯先輩の目の奥が右へ左へと揺れる。


「そして毎回レジの脇には、その木札が置かれていた」


 俺は、灯先輩の手の中の木札を指す。

 灯先輩は、自分の手の中のそれを、しばらく見つめていた。


「私が、これを、置きに来ていたのね」


 眼前に映る、決定的な証拠。

 それを自身で握りしめて、灯先輩は小さく呟いた。


 俺は、声をいつもより落とした。


「先輩、自分でも、心当たりはありませんか」


 その問いに、灯先輩はすぐには答えなかった。


 灯先輩は、しばらく自分の手の中の木札を見つめていた。

 やがて、ほとんど独り言みたいに口を開く。


「……最後の一箱だけがなくなるの、私のせいなんだね」


 俺は、すぐには相槌を打たなかった。

 代わりに、木札を持つ灯先輩の右手へ視線を向ける。


「先輩が今朝置こうとしていたのは、その札だけでした」


 灯先輩が顔を上げる。


「でも、九条菓匠で起きていた現象は、それだけじゃない。店頭に二十箱並んでいて、十九番までは普通に売れる。なのに、二十番目の客の直前になると、最後の一箱だけが消える」


 灯先輩の喉が、小さく動いた。


「――木札は、合図なんです」


 俺は、はっきり言った。


「七尾家への取り置きがある、っていう、昔の合図。だから先輩の白昼夢は、朝のうちにこの札を九条菓匠へ置く。それで準備が整うと、十九箱目が売れた瞬間に、残っていた最後の一箱だけを『七尾家への取り置き』として、別の場所へ移す」


「別の場所……」


「古書店の倉庫です。昨日、俺たちが見つけた箱みたいに」


 灯先輩は、目を見開いたまま動かなかった。


「最初から一箱足りないんじゃない。最後の一箱になった瞬間に、持っていかれる。だから九条先輩たちは、いつも二十番目の客のところで初めて足りないって気づくんです」


 朝のアーケードはまだ静かだった。

 その分、自分の声だけがいやにはっきり響いた気がした。


「帳面に『七尾様 取置』って書かれていたのも、そのせいだと思います」


 灯先輩が、息を浅く吸う。


「札が置かれて、最後の一箱が取り置きになる。昔の手順が、そのまま今の店で再現されてた。店の人たちは自分でそうしたつもりはなくても、白昼夢の形に引っ張られて、最後の欄にだけ『取置』って記してしまう」


 灯先輩は木札を握り直した。

 その指先が、少しだけ震えている。


「……ある、と思う」


 その声は、もう、迷っていなかった。


「ちゃんと説明できるかは、まだ分からないけど。でも、たぶん、そういうことなんだと思う」


 灯先輩は、九条菓匠の閉じたままの暖簾を、少しの間見つめた。


「お話しても、いいかな?」


 俺と雫は、ほとんど同じタイミングで頷いた。


 商店街のアーケードの天井から、ほんのわずかに朝の光が落ちてきはじめていた。

 まだ街灯の明かりが消えるほどではない、薄い藍と橙が混じる時間だった。


 その光の下で、灯先輩は、自分の指の中で揺れる小さな結び目を見つめ続けていた。

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