宵蛍、売り切れました 7
カウンターの奥の、店主用の小さな引き戸から、灯先輩について裏へ回る。
昔ながらの土間のような通路があって、外と店の中間の暗がりに、小さな倉庫の入口があった。
灯先輩は、その引き戸を一度こちらを見て確認してから、ゆっくり開ける。
倉庫の中には、雑多な品物が積まれていた。
古い本の束、紐で括られた雑誌、見たことのない出版社の名前の段ボール。それらの間に、明らかに本の収納用ではない、小さな木箱がいくつか並んでいる。
近づいてみると、そのうち何箱かには、かすれた墨で文字が書かれていた。読めるものと読めないものがあるが、その中に、九条の『九』に似た字も混じっている。
通い箱かもしれない、と思った。
さらに目を凝らすと、その列のいちばん端に、他より明らかに新しい空気をまとった箱があった。
他の木箱と比べて、明らかに埃を被っておらず、最近動かされたと思しき箱。
縁が手のひらで触られた跡のように摩耗していて、最近誰かが何度も開け閉めしている形跡があった。
俺はそちらへ近づく。
灯先輩は何も言わなかった。止めもしなかった。ただ、入口の手前に立ったまま、こちらを見ている。
俺は箱の蓋に手をかけた。
軽い。古い木箱の蓋は、すんなり持ち上がる。
中に入っていたのは、――宵蛍の箱だった。
二日前の朝刊で見たSNSの画像と同じ、九条菓匠の包装。
箱の上には、細い紐が掛けられていて、片方の輪だけが小さい結び目になっている。
俺はそっと指先を箱に近づけた。
触れる手前で、空気の感触が少し違うのが分かる。
外側の倉庫の蒸し暑い空気が、箱の周りだけ、ほんの少しだけ涼やかに変わっている。
雫が、俺の後ろから、ぽつりと言った。
「白昼夢」
その声は、店内で聞いた時より少し低かった。
灯先輩の方をうかがうと、彼女は何も言わずに、入口の柱に肩を寄せて立ったままこちらを見ていた。
驚いている表情ではない。もしかして、元々知っていたのだろうか。だとしたら、なぜそんなことを……。
「先輩、これって九条菓匠の限定商品ですよね」
灯先輩は唇を一度結んだあと、ゆっくり答えた。
「……だと、思う」
「気づいたのは、いつですか」
灯先輩は言葉を選ぶように俯いた。
「箱があることに気づいたのは、二、三日前。掃除をしようとして倉庫を開けて、こんな箱は前から置いてなかったはずなのにと思って。最初は、誰かが捨て忘れたのかと思った。けど、開けてみたら新しいままで」
その時の表情を思い出しているのか、灯先輩の視線が、足元の少し向こう側で止まる。
「祖父母に聞いても、自分たちは触っていないって言うんです。じゃあ誰がって、思って」
俺は、出来るだけ穏やかに尋ねた。
「先輩は、自分でここに置いた覚えはありますか」
灯先輩の指が、柱の角を一度握る。
答えるまでに、少し時間がかかった。
「……ないと思う」
その声は、不安そうに揺れていた。
「ない、というのとは、ちょっと違うかもしれない」
灯先輩は、自分の言葉に自分で戸惑っているように見えた。
「靄がかかったみたいに、ぼんやりした記憶なの。掃除をしたとき以外にも、なんだかこの部屋に最近入ったような……。でも、このお菓子を置いた覚えは、本当にないわ」
俺は、ひとつ深呼吸して、先輩、と続けた。
「九条菓匠で、最近、朝の準備の時にレジの脇に古い木札が置かれているそうです。誰が置いたか、家族にも分からないって。先輩、それについて、心当たりはありませんか」
灯先輩は、視線をゆっくり俺の方へ戻した。
「木札……」
そう言いながら、自分の右手の指先を何度か撫でる。
「正直、よく分からない」
灯先輩は、ようやく口を開いた。
「九条さんに、迷惑をかけているのは、たぶん私。たぶん、っていう言い方しかできないのが、自分でも変なんだけど」
自分自身の行動に思い当たる節がない。
その不気味な状況に、先輩はただ肩を震わせていた。
「……お辛いとは思いますが、先輩が思い当たることを、無理のない範囲で教えてもらえますか」
「……うん」
灯先輩は、しばらく自分の手元を見つめていた。
「気持ちの上では、ずっと九条菓匠のことを考えているのは、確かなの。うちの祖父母と、九条さんのお祖父さんは、昔からの付き合いで。私が小さい頃、夏になると、よく宵蛍が届いてた。あれを楽しみにしていた時期があって」
灯先輩は、倉庫の中の他の木箱に視線を向けた。
「祖父が体調を崩してから、店も少し縮小していて。本の入れ替えも前ほどはしてない。九条菓匠の方も、おじいさんが現役を退いてから、味が少し変わったっていう話を聞いて。両方の店が、少しずつ、終わりに向かってるような気がするの」
言葉のペースが、徐々に落ちていく。
「それは、ずっと頭の中にあって。でも、ずっと頭の中にあるだけで、それと、ここに箱があることが、どうつながるのか、自分でもまだうまく説明できない」
灯先輩は探るように言葉を選んでいく。
「分かりました」
俺は、できるだけ普通の声で言った。
「先輩、今日のところは、ありがとうございます」
「ごめんなさい。あまり、お役に立てなくて」
「いえ。話して頂けて良かったです」
灯先輩は、ぎこちなく笑った。
俺は箱の方を、もう一度だけ振り返る。
箱はあった。
灯先輩の関与も、かなり濃い。
けれど、それでもまだ一番大事なところだけが抜けている。
どうやって木札が九条菓匠へ運ばれ、どうやって最後の一箱が取り置きへ変わるのか。その瞬間だけは、まだ俺自身の目で見ていない。
「また、お伺いしてもいいですか」
その言葉に、灯先輩は少しだけ表情を和らげる。
「……はい。お願いします」




