宵蛍、売り切れました 6
九条先輩はそれ以上、紐の話を続けようとはしなかった。
俺は改めて、整理券枚数と用意された宵蛍の数の不一致の問題に戻った。
「整理券二十枚で、十九人にちゃんと渡して、それでも最後の一箱分だけが別枠として処理されている」
俺は自分でも確認するように、声に出した。
「ええ」
「ということは、整理券を使わずに一箱が売られたか、整理券とは別の何かで一箱分の枠が処理されたか、そのどちらかですよね」
九条先輩は神妙な面持ちで頷く。
「……そう、ですね」
あくまで論理の話だ。
実際に何が起きているかは、まだ何ひとつ分かっていない。
「整理券以外で、店の中で『一箱分の枠』として扱われそうなものって、心当たりはありますか」
「枠……」
九条先輩は、自分のこめかみを指先で軽く押さえた。考え事をする時の癖なのかもしれない。
しばらく無言が続いた。
ショーケースの上のガラスが、店の奥の蛍光灯を頼りなく反射している。
その上を、希が落ち着かなさそうに指で擦っていた。
ふと、九条先輩が顔を上げた。
「……あの、関係あるか分からないんですけど」
「はい」
「最近、朝の準備をしている時に、レジの脇に、小さな木札が置いてあったことがあって」
俺は控え帳に向けていた目を、九条先輩の顔へ戻す。
「木札?」
「私や母が出した覚えがないんです。誰も触ってないはずなのに、いつの間にかそこに置いてあって」
九条先輩はレジ台の下の棚に手を伸ばし、奥の方を探って、小さなものを取り出した。
厚みのある桐の板に細い穴が穿たれ、そこに細い麻紐が通っている。
板の表面は、長く使われたものらしく、角が摩耗して柔らかい曲線になっていた。表面の一部に、薄く灼かれた焼き印が見える。
二文字。
目をこらすと、それは「七尾」と読めた。
そして、紐の結び目。
ほとんど無意識に、俺は息を止めていた。
片方の輪だけが、ほんの少し小さい。
もう一方の垂れ先が、わずかに長い。
「これも、最初は祖父の手仕事だと思ったんです」
九条先輩は木札を手のひらに乗せたまま、ぽつりと続けた。
「でも、祖父は階段を降りるのも億劫がる人で、この時間に店先までは出てこられない。母にも、おばさんにも、心当たりはなくて」
「これ、どこに置いてあったんですか」
「レジの右端、ちょうど整理券を並べておく場所のすぐ横に」
俺は受け取った木札を、もう一度光に当てる。
焼き印は本物だった。塗料で書いたものや、最近彫ったものとは違う。年月の入った、深く焼き込まれた跡。たぶん、本当に祖父の代か、もっと前のものだ。
「祖父の代のものだと思います。私、詳しくは知らないんですけど」
九条先輩はそう言いながら、木札の縁を指でなぞっていた。
俺は木札の結び目を見つめ続ける。
片方の輪が小さい蝶結び。
さっき九条先輩が結んでみせたものと、同じ形だった。
そしてその形に、俺はどこかで覚えがあった。
それがどこなのかは、すぐには思い出せない。けれど確かに、最近どこかで見たことがある気がする。一瞬で過ぎていったから引っかからなかった、頭の隅のほうの記憶。
なのに、いま改めて見ると、その輪郭だけがやけに具体的だった。
―◆―◇―◆―◇―◆―
九条菓匠を後にして、俺たちは商店街のアーケードを少しだけ駅とは反対の方へ歩いた。
店を出る前、木札の写真を一枚撮らせてもらった。何の変哲もない木札。しかし、その表面には掠れた文字が刻まれていた。
「七尾、って書いてありましたよね」
希が、スマホでその写真を見ている。
「商店街に、七尾って名前のお店、確かありませんでしたっけ」
「ああ。古書店の名前が確かそうじゃなかったかな」
ただ、それだけで飛び込むには少し早い気もした。
七尾が人名なのか屋号なのかも、まだ分からない。けれど、商店街の中で今すぐ当たれそうな『七尾』がそこしかないのも事実だった。
駅から見て中ほどよりやや奥、シャッターと営業中の店が交互に並ぶ辺りに、古い本屋があったはずだ。
「行ってみるか」
雫は何も言わずに、俺の半歩後ろを歩いていた。
いつもなら寄り道だの暑いだの何だの言いそうな場面で、今日はやけに大人しい。
俺たちは、商店街をそのまま奥へ進む。
道の両側で、店々の様子は少しずつ変わっていく。手前の方は、まだ朝の時間でも明かりがついている店が多かった。けれど奥へ進むにつれて、シャッターの下りた店、看板だけが古く残された店、住居併用と思しき木造の店構えが目立つようになる。
七尾古書店は、その並びの中にあった。
ガラスの引き戸に、内側から色褪せたカーテンがかかっている。シャッターは半分まで下ろされていて、けれど営業中の札はかかっていた。
古い木の看板はアーケードの梁から下げられていて、書かれた文字の上端は擦れて読みづらい。
引き戸を開けると、古い鈴が小さく鳴った。
中に入った瞬間、外の空気がぴたりと止まる。
代わりに、紙と埃と、わずかな黴の匂いが鼻に届いた。冷房は控えめに効いていて、店の中だけが商店街よりも一段、時間が遅れて流れているような感じがする。
天井近くまで届く本棚が、左右にいくつも並んでいた。通路の幅は、人ひとり通るのがやっとというところで、本の背表紙が左右から顔を寄せてくる。
突き当りに、低いカウンターが見えた。
その奥に、人影がある。
最初に目に入ったのは、白いシャツの肩だった。長い髪を背中の高い位置で一つにまとめ、何冊かの本の積まれた机に向かっている。手にしているのは、紙のカバーをかけ直すための、薄い包装紙のような紙だった。
顔を上げて、こちらを見る。
「あれ……暁くんに希ちゃん?」
「七尾先輩!」
店に入るまで俺の後ろでビクビクしていた希が、その姿を見るや顔を明るくした。
七尾灯。
俺と同じ高校の三年生で、確か美術部所属の先輩だった。普段はあまり目立つ場所にいないので、俺の方でも名前くらいしか覚えていない。校内ですれ違っても会釈程度の関係だ。
「そうか、ここ先輩のご実家なんですね」
「そうそう。祖父母の店だけど、土曜は私が店番してるの。今日は古書見に来たの?」
「いえ、その」
ここを訪ねた経緯を、どう切り出すか少し迷う。
灯先輩の声は、店の空気と同じくらい静かだった。
学校で会うときも、物静かなイメージがあったが、古書店という場の空気も相まって、幻想的な雰囲気を帯びている。
俺はスマホの画面を呼び出す。木札の写真を、灯先輩に見えるように差し出した。
「これ、見たことありますか」
灯先輩は、本にカバーをかける手を止めた。
画面に映った木札を、しばらくじっと見ている。
「……これ、どこで」
「九条菓匠で、最近よくレジの脇に置かれているそうです」
灯先輩の表情は、ほとんど変わらなかったが、視線がほんの一拍だけ止まるのが見えた。
「『七尾』って読めますよね」
「うん」
「先輩の家と何か、関係がありそうですか」
灯先輩は写真をもう一度見て、それからゆっくり、自分の手元の本に視線を落とした。
「……昔の、取り置き札かもしれませんね」
言い方は、断定ではなかった。
むしろ、はっきりさせるのを避けるための、わざと曖昧な答え方に聞こえた。
「取り置き札」
「うちの祖父母と、九条菓匠の先代の頃の話だと思います。詳しいことは私もよく知らないんです」
灯先輩はそれだけ言って、本の上に置いた指を、軽く一回握り直した。
俺は一度、木札の写真へ視線を落としてから、言った。
「この札、今も使っているものじゃないですよね」
「うん。少なくとも、今のうちでは使ってない」
「だったら、昔の通い箱とか、取り置きに使っていたものが残ってる可能性はありませんか」
灯先輩は少しだけ考えてから、静かに頷いた。
「……裏の倉庫なら、残ってるかも」
「中、見せてもらってもいいですか」
灯先輩は返事の代わりに頷いて、俺たちを招き入れた。




