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神様失格 ~宵蛍~  作者: 凪波はるか
宵蛍、売り切れました
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39/45

宵蛍、売り切れました 6

 九条先輩はそれ以上、紐の話を続けようとはしなかった。


 俺は改めて、整理券枚数と用意された宵蛍の数の不一致の問題に戻った。


「整理券二十枚で、十九人にちゃんと渡して、それでも最後の一箱分だけが別枠として処理されている」


 俺は自分でも確認するように、声に出した。


「ええ」


「ということは、整理券を使わずに一箱が売られたか、整理券とは別の何かで一箱分の枠が処理されたか、そのどちらかですよね」


 九条先輩は神妙な面持ちで頷く。


「……そう、ですね」


 あくまで論理の話だ。

 実際に何が起きているかは、まだ何ひとつ分かっていない。


「整理券以外で、店の中で『一箱分の枠』として扱われそうなものって、心当たりはありますか」


「枠……」


 九条先輩は、自分のこめかみを指先で軽く押さえた。考え事をする時の癖なのかもしれない。


 しばらく無言が続いた。

 ショーケースの上のガラスが、店の奥の蛍光灯を頼りなく反射している。

 その上を、希が落ち着かなさそうに指で擦っていた。


 ふと、九条先輩が顔を上げた。


「……あの、関係あるか分からないんですけど」


「はい」


「最近、朝の準備をしている時に、レジの脇に、小さな木札が置いてあったことがあって」


 俺は控え帳に向けていた目を、九条先輩の顔へ戻す。


「木札?」


「私や母が出した覚えがないんです。誰も触ってないはずなのに、いつの間にかそこに置いてあって」


 九条先輩はレジ台の下の棚に手を伸ばし、奥の方を探って、小さなものを取り出した。


 厚みのある桐の板に細い穴が穿たれ、そこに細い麻紐が通っている。

 板の表面は、長く使われたものらしく、角が摩耗して柔らかい曲線になっていた。表面の一部に、薄く灼かれた焼き印が見える。


 二文字。

 目をこらすと、それは「七尾」と読めた。


 そして、紐の結び目。


 ほとんど無意識に、俺は息を止めていた。


 片方の輪だけが、ほんの少し小さい。

 もう一方の垂れ先が、わずかに長い。


「これも、最初は祖父の手仕事だと思ったんです」


 九条先輩は木札を手のひらに乗せたまま、ぽつりと続けた。


「でも、祖父は階段を降りるのも億劫がる人で、この時間に店先までは出てこられない。母にも、おばさんにも、心当たりはなくて」


「これ、どこに置いてあったんですか」


「レジの右端、ちょうど整理券を並べておく場所のすぐ横に」


 俺は受け取った木札を、もう一度光に当てる。


 焼き印は本物だった。塗料で書いたものや、最近彫ったものとは違う。年月の入った、深く焼き込まれた跡。たぶん、本当に祖父の代か、もっと前のものだ。


「祖父の代のものだと思います。私、詳しくは知らないんですけど」


 九条先輩はそう言いながら、木札の縁を指でなぞっていた。

 

 俺は木札の結び目を見つめ続ける。


 片方の輪が小さい蝶結び。

 さっき九条先輩が結んでみせたものと、同じ形だった。


 そしてその形に、俺はどこかで覚えがあった。


 それがどこなのかは、すぐには思い出せない。けれど確かに、最近どこかで見たことがある気がする。一瞬で過ぎていったから引っかからなかった、頭の隅のほうの記憶。


 なのに、いま改めて見ると、その輪郭だけがやけに具体的だった。


             ―◆―◇―◆―◇―◆―


 九条菓匠を後にして、俺たちは商店街のアーケードを少しだけ駅とは反対の方へ歩いた。

 店を出る前、木札の写真を一枚撮らせてもらった。何の変哲もない木札。しかし、その表面には掠れた文字が刻まれていた。


「七尾、って書いてありましたよね」


 希が、スマホでその写真を見ている。


「商店街に、七尾って名前のお店、確かありませんでしたっけ」


「ああ。古書店の名前が確かそうじゃなかったかな」


 ただ、それだけで飛び込むには少し早い気もした。

 七尾が人名なのか屋号なのかも、まだ分からない。けれど、商店街の中で今すぐ当たれそうな『七尾』がそこしかないのも事実だった。

 

 駅から見て中ほどよりやや奥、シャッターと営業中の店が交互に並ぶ辺りに、古い本屋があったはずだ。


「行ってみるか」


 雫は何も言わずに、俺の半歩後ろを歩いていた。

 いつもなら寄り道だの暑いだの何だの言いそうな場面で、今日はやけに大人しい。


 俺たちは、商店街をそのまま奥へ進む。


 道の両側で、店々の様子は少しずつ変わっていく。手前の方は、まだ朝の時間でも明かりがついている店が多かった。けれど奥へ進むにつれて、シャッターの下りた店、看板だけが古く残された店、住居併用と思しき木造の店構えが目立つようになる。


 七尾古書店は、その並びの中にあった。


 ガラスの引き戸に、内側から色褪せたカーテンがかかっている。シャッターは半分まで下ろされていて、けれど営業中の札はかかっていた。

 古い木の看板はアーケードの梁から下げられていて、書かれた文字の上端は擦れて読みづらい。


 引き戸を開けると、古い鈴が小さく鳴った。


 中に入った瞬間、外の空気がぴたりと止まる。

 代わりに、紙と埃と、わずかな黴の匂いが鼻に届いた。冷房は控えめに効いていて、店の中だけが商店街よりも一段、時間が遅れて流れているような感じがする。


 天井近くまで届く本棚が、左右にいくつも並んでいた。通路の幅は、人ひとり通るのがやっとというところで、本の背表紙が左右から顔を寄せてくる。


 突き当りに、低いカウンターが見えた。

 その奥に、人影がある。


 最初に目に入ったのは、白いシャツの肩だった。長い髪を背中の高い位置で一つにまとめ、何冊かの本の積まれた机に向かっている。手にしているのは、紙のカバーをかけ直すための、薄い包装紙のような紙だった。


 顔を上げて、こちらを見る。


「あれ……暁くんに希ちゃん?」


「七尾先輩!」


 店に入るまで俺の後ろでビクビクしていた希が、その姿を見るや顔を明るくした。


 七尾灯。

 俺と同じ高校の三年生で、確か美術部所属の先輩だった。普段はあまり目立つ場所にいないので、俺の方でも名前くらいしか覚えていない。校内ですれ違っても会釈程度の関係だ。


「そうか、ここ先輩のご実家なんですね」


「そうそう。祖父母の店だけど、土曜は私が店番してるの。今日は古書見に来たの?」


「いえ、その」


 ここを訪ねた経緯を、どう切り出すか少し迷う。


 灯先輩の声は、店の空気と同じくらい静かだった。

 学校で会うときも、物静かなイメージがあったが、古書店という場の空気も相まって、幻想的な雰囲気を帯びている。


 俺はスマホの画面を呼び出す。木札の写真を、灯先輩に見えるように差し出した。


「これ、見たことありますか」


 灯先輩は、本にカバーをかける手を止めた。


 画面に映った木札を、しばらくじっと見ている。


「……これ、どこで」


「九条菓匠で、最近よくレジの脇に置かれているそうです」


 灯先輩の表情は、ほとんど変わらなかったが、視線がほんの一拍だけ止まるのが見えた。


「『七尾』って読めますよね」


「うん」


「先輩の家と何か、関係がありそうですか」


 灯先輩は写真をもう一度見て、それからゆっくり、自分の手元の本に視線を落とした。


「……昔の、取り置き札かもしれませんね」


 言い方は、断定ではなかった。

 むしろ、はっきりさせるのを避けるための、わざと曖昧な答え方に聞こえた。


「取り置き札」


「うちの祖父母と、九条菓匠の先代の頃の話だと思います。詳しいことは私もよく知らないんです」


 灯先輩はそれだけ言って、本の上に置いた指を、軽く一回握り直した。


 俺は一度、木札の写真へ視線を落としてから、言った。


「この札、今も使っているものじゃないですよね」


「うん。少なくとも、今のうちでは使ってない」


「だったら、昔の通い箱とか、取り置きに使っていたものが残ってる可能性はありませんか」


 灯先輩は少しだけ考えてから、静かに頷いた。


「……裏の倉庫なら、残ってるかも」


「中、見せてもらってもいいですか」


 灯先輩は返事の代わりに頷いて、俺たちを招き入れた。

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