宵蛍、売り切れました 5
「あの、もし良かったら、中で少しお話しできませんか」
九条先輩が言った。レジ越しに頭を下げる姿勢のまま、店の奥をちらと振り返る。
確かに、店頭で込み入った話を続けるのは、彼女にとっても落ち着かないだろう。本日分の整理券はすでに配り終えていて、表の通りには俺たちの後ろに並んでいた客もとうにいない。残っているのは、商品を受け取って表で写真を撮り終えた何人かが、駅の方向へ流れていく後ろ姿だけだ。
俺は希と雫の顔を見る。希は当然のように頷き、雫は宵蛍を逃した件にまだ未練がありそうにしながら、それでも素直に頷いた。
「お邪魔します」
暖簾をくぐると、店の奥は思ったよりも狭かった。
カウンター越しに見える作業場は、清潔に拭き上げられた木のテーブルと、ステンレスの調理台で構成されていた。冷蔵のショーケースの脇には小さな丸椅子が四つほど並んでいて、おそらくは家族の休憩スペースなのだろう。
九条先輩は俺たちを椅子に促すと、自分は立ったまま、控え帳を脇に抱え直した。
「本当に、ごめんなさい」
「いえ、頭を上げてください。それより、状況をもう少し詳しく聞かせてもらえませんか」
「……はい」
九条先輩は深く息を吐いてから、控え帳を開いた。表紙に『整理券控』と書かれた小ぶりのノートで、ページの罫線は几帳面に区切られていた。
「最近、今日と同じようなことが何度か起きていて」
「何度か」
「……四日連続です。今日で」
雫が小さく声を上げた。希もぱちぱちと目を瞬かせている。
俺は控え帳のページを覗き込ませてもらう。日付ごとに番号が並び、その横に印がひとつずつ付けられている。
「この印は何ですか」
「これは、その整理券のお客様に商品をお渡しした合図です。一箱お渡しするごとに、私か母が印を入れて」
確かに、二十まで埋まっている。
だが、現実に俺たちは宵蛍を手にしていない。
「整理券は、毎朝、二十枚だけ用意するんですよね」
「はい。前日の閉店後に、母と私で確認して、まとめてゴムで束ねておきます。朝になってもう一度数え直してから、配布する形です」
「枚数を間違えたことは」
「ないと思います。一日二十箱なので、枚数を間違えたら他のお客様にも迷惑がかかってしまうので。最近は特に念入りに」
そこに嘘の気配はなかった。
むしろ、整理券の枚数を間違えるくらいなら、その間違いの方を真っ先に疑えるはずだ。
「整理券二十枚、宵蛍二十箱。そして、控え帳の印。なのに、最後の一箱だけが手元にない」
「……はい」
「売上のお金は、合っているんですか」
俺が聞くと、九条先輩は少しだけ首を振った。
「現金は十九箱分です。最後のお客様からは、品物が見つからない時点でお代をいただいていません」
それはそれで、少し意外だった。
俺は控え帳へ視線を落とす。
「でも、さっき控えでは二十箱分が出たことになっているって」
「……そこなんです」
九条先輩は控え帳を開き、今日のページを俺たちに見せた。
一番から十九番までは、丸い印がひとつずつ。そのさらに下、二十番の欄にだけ、丸印ではなく、細い字で『七尾様 取置』と書かれている。
「昨日も、一昨日も、その前も、同じでした。最後のお客様には渡せていないのに、閉店後に帳面を見返すと、二十番のところだけ、私か母の字でこう書き足されているんです」
「取置……」
希が思わず声を漏らした。
「はい。最初に見た時は、母が書いたんだと思いました。母は母で、私が書いたんだと思っていたみたいで。でも、どっちも、いつ書いたか覚えていないんです」
俺は二十番の欄を見つめる。
売れたことになっているわけではない。けれど、店の側では『最後の一箱は誰かの分として確保された』扱いになっている。
「整理券は二十枚。店頭に並べる宵蛍も二十箱」
「はい。朝、母と一緒に必ず数えています」
「十九番まで普通に売れる」
「はい」
「で、十九番のお客様が帰ったあと、最後の一箱だけが消える」
九条先輩は、ゆっくり頷いた。
「そうなんです。最初から十九箱しかなかったわけじゃないんです。十九番までは、ちゃんと棚に並んでいるのを、私も母も見ています。だから気づくのは、いつも最後のお客様の番になってからなんです」
その一言で、店の中の景色が少しだけはっきりした。
最初から足りていないのではない。最後の一箱“だけ”が、最後の客の直前になって、どこかへ消える。
「お客さんが二回受け取った可能性は?」
希が聞く。
「それも考えました。でも、整理券は回収して、その場で番号を控えに写すので、同じ番号が二回来たら気づきます」
「他に売り場はないんですよね」
「うちは店頭販売だけです。宵蛍も、通販や卸はしていません」
帳面の二十番には、『売れた』ではなく『取り置き』。
そして、十九箱目までは確かに店頭にあった最後の一箱だけが、二十番の客の前で消える。
「お客様には、最後の最後で『ありません』ってお伝えするしかなくて……」
九条先輩の声が、少し細くなる。
「もちろん、お代は受け取っていません。でも、整理券を持って待ってくださったのに、あなただけ買えませんでしたっていうのは、やっぱり、お店の落ち度に見えてしまうでしょう」
そうだろう、と俺は思う。
一時間も二時間も並んで整理券を手にした相手に、最後の最後で売り切れだと言うしかない。その不手際が四日続けば、店の信用は確実に削られる。
「これ、SNSとかに書かれたら、まずいかも」
希が低く言った。
「分かっているんです」
九条先輩は控え帳の表紙を、指先で軽く押さえた。
「祖父の代からのお店なんです。私の代で、こんな変なことで傷つけたくない」
少しの間、店の奥でだけ通る冷蔵庫の唸る音が聞こえていた。
その沈黙の途中で、九条先輩はふと、思い出したように顔を上げた。
「それと、もうひとつ、気になっていることがあって」
「気になっていること?」
「箱の紐です」
俺は控え帳から目を上げる。
九条先輩はショーケースに残った、宵蛍とは別の和菓子の包みをひとつ取り出した。薄い杉皮の箱に、細い麻紐が掛けられている。蝶結びの形は、店先で見慣れた、角の取れた、行儀のいい結び方だった。
「うちは、店で出す箱の紐の結び方を、母と私と、お手伝いのおばさんで揃えているんです。だいたい、こんな感じで」
「普通の蝶結びですね」
「ええ。誰が結んでも、ほとんど同じ形になるように、入店した時に祖母から教えてもらいました」
九条先輩は箱を一度、ショーケースに戻した。
「それが、最近、店頭に出した覚えのない結び方の箱が混じることがあるんです」
「店頭に出した覚えのない、というと」
「私が結んだものでも、母が結んだものでも、おばさんが結んだものでもないんです。気がついたら、棚の宵蛍の中に、ひとつだけ、違う結び方の箱が紛れていて」
雫の指がほんの一瞬、膝の上でぴくっと動いた。
俺は気づかないふりをして、九条先輩の話を聞き続ける。
「違う、っていうのは、どんな感じですか」
「うまく説明できないんですけど」
九条先輩は少し考えてから、レジの裏のカウンターから古い包装紙の切れ端と、それを束ねるための紐を取り出した。慣れた手つきで、まず店の蝶結びを作る。次に、目の前で結び直す。最初の結び方より、片方の輪が小さく、もう片方の垂れ先が、ほんの少しだけ長い。
「こんな感じです。ほら、こっちの輪だけ、小さいでしょう」
「ああ……ほんとですね」
希が身を乗り出して覗き込む。
「これ、なんかちょっと、おしゃれですね」
「『蛍結び』っていうんです」
九条先輩は自分の結んだ蝶結びを指先で軽くなぞる。
その結び目を見た瞬間、頭の奥で何かが擦れる感触があった。
どこかで見た。最近じゃない。もっと前――先月か、その前か。視界の端をかすめた、別の箱の上の、別の紐。
思い出そうとすると、輪郭が霧の向こうへ引っ込んでいく。
俺は一度、瞼を強く閉じてから、九条先輩の手元に視線を戻した。
「祖父が、昔、贈り物の箱に紐をかけるとき、よくこの結び方をしていたんです。だから、店頭でこの結び方の箱を見つけた時、ちょっと懐かしい気持ちになって」
俺は紐の結び目を見る。
蛍結び。
片方の輪が小さく、垂れ先が片方だけ長い。
言われてみれば、確かに普段見かける蝶結びとはどこか違う。だが、わざわざ意味があるという感じでもなく、ただ少しだけ昔風の、というくらいの差だった。
「でも、お祖父さんが結んでいないのなら、一体誰が」
「分からないんです。お手伝いのおばさんに聞いても、私こんな結び方知らないわよって笑われて。母も、結ばないって」
九条先輩は、自分で結び直した蝶結びを、しばらく見つめていた。
「結び方を知っている人が、家族以外にもう一人、いるってことになるんでしょうけど」
そう言って、力なく笑う。
「お店に勝手に入って、宵蛍の箱だけ結び直す人なんて、いないですよね」
雫が、テーブルの端をなぞる指先を止めた。
表情だけ見れば、いつもの彼女と何も変わらない。けれど俺の隣に座っているからこそ、その小さな静止に気づいてしまう。
俺はそれを横目に、もう一度、控え帳と紐に視線を戻す。
整理券は二十枚、控え帳の印も二十。
それでも、最後の一箱だけが店頭から消え、二十番の欄には『七尾様 取置』と記される。
そして、いつの間にか、誰の手のものとも分からない結び目を持つ箱が、その並びの中に混じっている。
事件と呼ぶには細やかすぎる。
けれどこれは、間違いなく、九条菓匠だけで起きていることなのだ。




