宵蛍、売り切れました 1
週の大半が雨がちだった時期も、徐々に終りを迎える。
朝焼けさえも熱を帯びて、寝苦しさに目覚めた。カーテンの隙間から差し込む光が白く焼け付くようで、すでに今日が炎天になることを確信した。
上体を起こすと、シーツと寝間着の背が張り付くような湿り気を覚え、少しだけ眉を寄せる。
腰窓の外へ冷ややかに目を向けると、遠くから一匹の蝉の鳴き声が届いた。毎年いつから鳴き始めるのだろうと小さな疑問が浮かぶが、結局今年もその境を知ることはなかった。
金曜日の朝。
暑気を理由に夏休みが定義されるのであれば、もうとっくに休業期間に入ってもいいはずだが、朝凪西高校での学生生活はまだ二週間ほど通常営業である。
しかし、金曜日という区切りの一日が、俺の心を少しだけ軽やかにしていた。
今日は何があっても、広い心ですべてを許せる気がする。ああ、甘美なる金曜日――。
「てめえ! ふざけるんじゃねえぞ」
数分後、俺は共用スペースのダイニングで、雫相手に目を吊り上げていた。
目の前のテーブルの上には、飲みかけのコーヒーが入った白いマグカップが、所在なげに置かれている。
俺が注いでいるところを目撃した雫が、「いや、まじで。今回はイケる」などと駄々をこねて、半ば強引に奪ったものだ。
その液面は、最初に注いだ水位から三ミリほど減っていた。
「苦すぎる」
「学習してくれ……」
いや、正直に言えば、こうなる前から結末は読めていたはずなのだ。
しかし、俺の菩薩心が妙な慈悲を与えてしまい、こうなった。
「逆に聞きたいよ。なんでこんなのが飲めるの」
「お子ちゃまの舌には、分からねえよ」
ぶーぶー、と文句を言う雫を適当にあしらいながら、俺はマグカップを手にした。
白い陶器が、大窓から差し込む光を柔らかく拡散する。俺専用のマグカップ。
一週間前、突如俺の部屋が、白昼夢によって水で包まれたかのように変貌した。
すべての家具が浮き、その中に見知らぬマグカップが紛れ込んでいたのだ。
その核となったのは、寮母である真弓さんの想い。
根無し草のように寮に住む俺の姿を見かねながらも、渡すに渡せなかった「ここにいてほしい」という気持ち。
俺がそれを受け入れたことで、部屋に現れた白昼夢は解けた。
事件直後の数日は、共用棚に置かれたマグカップに見慣れない感覚を抱いていたが、それも徐々に薄れてきた。
そんな俺と雫のくだらないやり取りが繰り広げられている中、リビングにはすでに他の寮生たちが集まっていた。
俺たちの会話すらその賑わいのひとつに過ぎないくらい、部屋は各々の音で満たされていた。
手元のコーヒーの香りも相まって、さながら小さなカフェのようだった。誰かが話すたび、それに同調する笑い声がリビングの空気を暖かく振動させる。
「わぁっ、遥さん、見てくださいよこれ! めっちゃ綺麗じゃないです?」
よく通る声が、談笑の海の中から飛び出してきた。
そちらを見ると、どうやら希が隣に座る遥に向かって、スマホの画面を見せつけているようだった。
その声には、いくらか隠しきれない興奮の気配が混じっている。
希の様子につられた寮の面々が、何事かとその側へ寄った。
俺と雫もお互いに顔を見合わせてから、立ち上がった。
「ほらこれ。宵蛍って読むのかな。九条菓匠の限定商品なんですって」
希が見せた画面には、九条菓匠という店名のロゴが入ったウェブページに、『夏季限定・一日二十箱限定』と書かれた菓子の写真が載っていた。
『宵蛍』――、透明感のある夜色のグラデーションに、仄かな金箔の灯が舞うような、幻想的な見た目の錦玉羹だった。
九条菓匠といえば、朝凪商店街の一角にある老舗の和菓子店だ。
朝凪商店街は、昔から駅前に残っている古いアーケード街である。八百屋や本屋や和菓子屋みたいな個人店が並んでいて、最近できたグランパレットとは、線路を挟んで反対側にある。
「へえ、すごく涼しげで綺麗……。ちょっと気になるね」
遥の言葉に、希はそれが、と少し眉を寄せた。
「あまりにも人気すぎるみたいで。開店前なのにあっという間に二十箱分の整理券が捌けてしまうみたいなんですよ」
希はスマホを操作すると、今度はSNSの画面を見せてきた。
そこに移る投稿には、『昨日は開店後に来たらもう完売。今日は七時半に並んで、八時半配布の整理券をなんとかゲット!』という文面とともに、購入したであろう宵蛍の写真が上がっている。
いくら早く並んでも、整理券自体の配布はせいぜい開店の直前だろう。
商店街のお店は大半が九時開店だったはずだから、この投稿者は一時間も待ったのか。
朝とはいえ、この灼熱のような屋外でよく耐えたものだ。
大窓の外からは、先程起きた時よりも一段強くなった日差しが容赦なく降り注いでいる。リビングはエアコンで冷やされているからいいが、この後炎天下を登校することを思うと、思わずため息が出てしまう。
「宵蛍?」
雫が小さく繰り返した。
その声が、ほんの一瞬だけ、いつもの食い意地とは違う響きを帯びた気がした。
けれど、希が画面を近づけると、雫の目はすぐに分かりやすく輝いた。
「美味しそう……!」
その瞬間、嫌な予感がする。
「いや、でもすぐなくなっちゃうみたいだし」
俺はとっさに、雫の興味を逸らそうとするが、その視線は宵蛍に釘付けだった。
まずい、この流れは――。
後ろから、俺の肩が叩かれる。振り返ると、晴がにやけ顔でこちらを見ていた。
俺は縋るような目を向けたが、むなしく首を振る。言外に、諦めろ、と言いたげな表情だった。
そして、変わらず興味津々な雫が、再び口を開いた。
「私、これ食べたい」
「分かってるのか。一時間半近く並ぶんだぞ。死ぬぞ」
「苦しみの果てに得たものにしか、真の価値はないと思うの」
常に能天気な笑みを浮かべ、本能に従って生きている雫が、急に悟ったようなことを言い始める。
別に、こいつが開店の数時間前から並ぼうが、その結果目的の限定商品を買えようが買えまいが、一人で行ってもらう分には全く問題ない。
だが、問題は俺と雫がリーシュという、物理的な制約で結ばれていることにある。
この枷のせいで、俺たちはお互いの距離が離れるにつれて、体調がどんどん悪くなってしまうのだ。
先週だって、雫と希が二人でグランパレットへ行ったとき、俺は耐え難い眠気に襲われ、かたや雫はグロッキーになり希におぶわれながらUターンしてくる始末である。
無理やり雫を一人で九条菓匠へ向かわせ、その結果道端でぶっ倒れられでもしたら、大事になるのは目に見えている。
それで学校や、はたまた警察から目でも付けられようものなら最悪だ。
それだけは避けなければならなかった。
「ねえ、湊ー、おねがい。一緒にいこうよー」
雫は両手を祈るように組み、大きな目をくりくりと瞬かせながら、わざとらしく媚びた。
「まじか……」
まあまあ、とそこで希が口を挟んだ。
「良いじゃないですか。私も興味ありますし、せっかくだからお供しますよ。この前のグランパレットもちょっと消化不良でしたし。明日って郷研は特に活動とかないですよね」
そう言って遥に顔を向けた。
「ええ、何もないわ。私も行きたいって言いたいところなんだけど、友達と先約があるのよね」
続けて晴や結にも聞いていたが、二人ともパスと言った。
希がぱん、と両手をあわせる。
「よし、じゃあこの三人で行きましょう! 七時半に店前到着を目標に、七時にここ集合で」
「いえーい!」
俺が何か言う前に、サクサクと予定が決められ、逃げ道を塞がれてしまった。
希の恐ろしいほどの行動力の高さに、俺はただただ唖然とするしかなかった。
そしてタイミングを見計らったかのように、台所から「ご飯よ~」と真弓さんの呼びかけが聞こえる。
遥たちが率先して食器運びを手伝いに行き、この場も一旦お開きとなる。
外からは、変わらず陽光が差している。
ダイニングへ向かった皆を見送るように塵が舞い、それらが金色に輝いていた。




