マグカップ分の譲歩 18 (エピローグ)
その日の晩。俺は自室のベッドに腰掛けていた。
いつの間にか雨は止んでおり、湿気を帯びた夜の空気の中に、月明かりが少しだけ涼やかさを運ぶ。
部屋はあれからすっかり元通りになり、どの家具も、何事もなかったかのように寝静まっていた。
あれだけ好き放題くるくると部屋を漂っていたわけだから、事件が一段落して部屋に戻るとき、扉を開けたら凄惨な光景が待っているのではないかと怯えていたが、実際のところは全くそんなことはなかった。
一つ一つの家具がまるで意思を持っているかのように、己の元いた位置へ収まっていたのである。
そして真弓さんの想いが込められた白いマグカップ。それは今、食堂の共用棚に置かれている。
晴の派手なマグや、遥の白いカップや、結の黒いタンブラーの隣。
まるで最初からそこにあったかのような、自然な収まり方だった。
――少し、喉が渇いたな。
俺は立ち上がり、部屋を後にした。
夜も更けていたので、なるべく音を立てないように一階へ下りると、共用スペースの明かりが付いているのが見えた。
誰かいるのだろうか。
敷居をまたいで中を見渡すと、リビングのソファに遥がいた。
こちらに気づいていないのか、寝そべった姿でスマホをいじっている。
「よう、こんな夜遅くに珍しいな」
黙っているのもおかしいかと思って、そう声をかけると、遥の身体がびくんと跳ねた。その目を大きく見開き、パクパクと口を動かしている。
その様子が面白くて、俺は笑いを堪えられなくなった。
「どんだけ驚いてるんだよ」
「……うるさい。こんな深夜に急に声かけるからでしょうが」
死ぬかと思った、などと言いながら、遥はぱたぱたと手で顔を仰いでいる。
そして改めて俺のことを見てから、その背後にも視線を動かす。
「ひとり?」
「ああ、そうだよ」
その確認の仕方だけで、遥が何を気にしていたのか分かった。
最近はリーシュのこともあって、ほとんどずっと雫と一緒に行動しているから、それを気にしていたのだろう。
そしてそれを聞くや、遥は肩の力が抜けたように息を吐き出した。
「あんたは何しに来たのよ」
その声はいつも他人にかけるものよりもずっとぶっきらぼうで、それでいて気安い柔らかさを帯びていた。
学校でも寮でも比較的慕われる機会の多い遥は、自然と外面を作ることを覚え他人と接しているが、俺とは昔からの付き合いなのもあってか、二人きりのときはこうして素の姿を見せるのだった。
「喉が乾いたからな。何か飲もうかと思って」
遥は俺の手に握られたマグカップを見て、唇の端をわずかに上げる。
「へえ、早速使ってるじゃん。えらい、えらい」
「うるせえ」
そのまま台所の冷蔵庫を開けると、中には冷えた麦茶のポットが入れられていた。
俺は自分の分と、棚からもう一つグラスを出して、そちらにも注いだ。
そして遥のもとへと向かい、テーブルの上にグラスを置く。
「え、湊なのに気が利く! わーい、ありがと」
遥は一言余計なことを言いながら、早速グラスに口をつけた。
「俺もここ、いいか?」
そう言うと、遥は返事の代わりに横へ移り、俺の分のスペースを開けた。
ソファに深く腰掛けると、座面がゆっくりと沈み込み、今日一日の疲れを優しく包み込む。
氷のカラカラと鳴る音と共に、冷たい麦茶を喉に流し込む。乾いた身体に染み渡り、思わず『ぷはっ』と息が漏れた。
「なんか湊、おじさんみたい」
「失礼な。こっちは大変だったんだからな」
「廊下に顔面ダイブしてたやつ?」
そう言いながら遥はニヤニヤと笑っている。こいつ、絶対あのとき笑ってたな。
「あのときの湊、写真に撮っておけばよかった」
「なんでだよ」
まさかこいつは、その写真で俺の弱みでも握るつもりなんだろうか。
ちょっとやりかねないところが恐ろしい。
そんな俺の様子を見て、遥は肩を揺らして笑っている。
「そうは言うけど、お前も今朝慌てて外に出てたってやつ。あれ、本当は何か置き忘れたんだろ。たぶん自転車あたりに」
遥はぎくっ、と音が聞こえそうなくらい分かりやすく固まった。
「ど、どうしてそう思うの……?」
恐る恐るといった感じで聞いてくる。
「プレハブに物を取りに行ったって言ってたけど、本当にそうなら、人目を気にするお前なら普通は傘差すだろ。でも実際には違った。例えば、朝起きて、雨が降ってるのに気づいて、慌てて忘れ物を取りにいった、とか」
「はぁ~……」
遥は諦めたといった風に、顔を手で覆い、大きく息を吐いた。どうやら正解らしい。
「相変わらず、素のお前って結構抜けてるよな」
「うるさい、うるさい。あー、なんで郷研の資料置き忘れちゃったんだろ……。しかもよりによって次の日が雨って」
郷研は俺たちの所属する郷土文化研究会という部活の略称だ。
そこからの遥の話では、何か持ち帰るものがあり、昨日鞄と一緒に自転車のカゴへ入れたが、すでに外が暗かったのもあり、気づかず鞄だけ持って帰ってしまったらしい。
それを指摘されるのが恥ずかしくて、俺たちが部屋を訪ねた時に、慌てて資料をベッドの中に隠したそうだ。
答え合わせが済んだところで、どちらからともなく笑みがこぼれる。
「あー、面白い。……なんか、湊とこんな風に話すの、久しぶりな気がする」
その声はどこか遠くに向いていて、感情は読めない。
しかし、言外に雫のことを指しているということは、すぐに分かった。
「なんか、ごめんな」
「謝ってほしいわけじゃないの。これは、私の問題でもあるし」
それだけ言うと、遥はもう、その話には戻らなかった。
その後もお互いに他愛のない話を続け、欠伸を堪えられなくなったところで、遥が先に立ち上がった。
「それじゃあ、そろっと寝ようかな。湊はどうする?」
「俺も部屋に戻るよ」
そう言ってマグカップとグラスを洗い、俺たちはリビングを出た。
階段を上がる途中、振り返ると、暗くなったリビングに月明かりが薄く差していた。
さっきまで二人で座ったソファも、今は何もなかったみたいに静かだった。
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ここまでお読みくださり、本当にありがとうございます。
全18話にて、第2章【マグカップ分の譲歩】完結となります。
第3章は明日から始まる……といいな(願望)
第18話を予約投稿をした5/12現在、まだ何も決まっておりませんっ!(っ^ཀ^c)
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