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神様失格 ~宵蛍~  作者: 凪波はるか
マグカップ分の譲歩
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マグカップ分の譲歩 17

 俺たちは物置を出て、リビングへ戻った。


 雨はまだ降っていた。窓の外は夕方とも夜ともつかない薄い灰色に沈み、ガラスには細い水の筋が何本も走っている。リビングの灯りは点いていたが、そこには誰もいない。テーブルの上には途中まで片づけられた救急箱が残っている。


 二階にいる寮生を集めつつ、俺はもう一度自室に立ち寄った。

 相変わらず浮いている家具に混ざって、白いマグカップが見える。俺はそれを手に取った。

 

 リビングに皆が集まると、真弓さんは改めて事情を話した。


 廊下の電球を替えるために脚立へ登ったこと。そこから湊の部屋のトランサム窓越しに、家具や段ボールが浮いているのを見てしまったこと。部屋の中に湊がいるとは思わなかったこと。すぐに報告しようとしたのに、その前に、渡しそびれていたマグカップのことを思い出してしまったこと。布巾に包んだマグを、小窓からそっと入れてしまったこと。そして、その後の騒ぎと安全確認に追われているうちに、言い出せなくなったこと。


 誰も途中で口を挟まなかった。


 皆、それぞれ少しずつ違う顔で真弓さんの話を聞いていた。

 それは責めるでもなく、慰めるでもなく、ただその想いを受け取るための沈黙。


 話し終えると、真弓さんはしばらく俯いていた。いつも台所で背筋よく立っている人が、急に小さく見えた。


「寮母として、いちばんやっちゃいけないことをしたわね」


 ようやく出てきた言葉は、静かだった。


「白昼夢を見つけた時点で、ちゃんと報告しなくちゃいけなかった。湊くんの部屋に、勝手に物を入れるなんてことも、するべきじゃなかった。それなのに、私は自分の気持ちを優先してしまった」


 真弓さんはそこで一度、息を詰めた。


「こんなことをして、みんなの寮母でいられるわけないわ。本当に、ごめんなさい」


 その言葉が落ちたあと、リビングには雨音だけが残った。


 俺は何か言おうとして、言葉を見つけられなかった。

 真弓さんがしたことは、決して褒められるべきことではない。だが、そんなことをさせてしまったのは、俺自身にも責任がある。

 そして、例え今回失敗してしまったからといって、俺は、いや俺たちは、入寮当時からずっとこの人の世話になっているのだ。

 たった一回で真弓さんに失望してしまうほど、俺たちの受けた恩は軽いものではない。


 その沈黙を破ったのは、晴だった。


「いや、ちょっと待って」


 晴は困ったように頭を掻いた。こういう時、こいつはふざけるべきか真面目に言うべきか、たぶん一瞬だけ迷う。その迷いが顔に出ていた。


「真弓さんがいなくなったら、俺たち普通に困るんだけど」


 真弓さんが顔を上げる。


「困るって……」


「困るよ。飯は誰が作るんだよ。洗剤切れたら誰が気づくんだよ。俺の部屋が完全に終わる前に掃除しろって怒る人、誰になるんだよ」


「あんたは真弓さんに依存しすぎ。少しは自立しなさいよ、恥ずかしい」


 結が小さく言った。


 晴は一瞬だけ黙り、それから「まあ、それはそう」と認めた。

 リビングの空気が、ほんの少しだけ緩む。


 そこに、希が続いた。


「真弓さんがいなくなったら、夕凪寮の生活は崩壊します」


 いつもの調子よりは少し抑えた声だった。それでも、希の言葉には希なりの明るさがあった。


「これは人命に関わります。少なくとも私の命には関わります。あと雫ちゃんの機嫌にも関わります」


 いつの間にかソファで横になっていた雫が、ひらひらと片手を上げる。


「同意」


「雫ちゃんもこう言っています」


 希がそう言うと、真弓さんの口元が少しだけ震えた。泣きそうなのか、笑いそうなのか、どちらにも見えた。


 晴が真弓さんを見る。


「やったことは、まあ、たぶん怒られるやつなんだと思う。でも、それで真弓さんがいなくなるのは違うだろ」


 言葉は飾られていなかった。晴らしい、少し雑で、それでも真っ直ぐな言い方だった。


 会話の成り行きを見守っていた遥も、そこで頷いた。


「次からは、変なことがあったらすぐ言ってください。何かあれば、みんなで考えましょう。私たち、家族みたいなものじゃないですか。……私、この寮で真弓さんと会えて良かったって思ってるんです。料理だって、もっと教わりたいこといっぱいあるんですから」


 真弓さんは、また俯いた。少しの間、リビングの音が途絶える。やがて、その口が開いた。


「……ありがとう」


 ようやくそう言うと、真弓さんは目元を指で押さえた。


 俺は、そのやり取りを少し離れたところで見ていた。


 みんなの言葉は温かかった。真弓さんがこの寮に必要な人であることを伝え、真弓さん自身もそのことに感謝している。

 しかし、きっとそれだけでは今回の白昼夢は終わらない。

 白いマグカップ。それを俺の部屋に黙って入れるくらい、これまでの振る舞いが真弓さんの心を追い詰めてしまったのも、真実なのだ。

 

 だから、俺は先程自室から持ってきた白いマグカップを見た。

 真弓さんもそれに気づき、優しい笑みを浮かべる。


 さっきまで水槽みたいな部屋の中を漂っていたそれは、いまは布巾の上に置かれている。真弓さんはそれを両手で大切そうに持ち上げると、そっと俺に向かって差し出した。

 

「これは、湊くんに渡すつもりだったものだから」


 俺はすぐには手を伸ばせなかった。


 急に全てを変えられるわけではない。この寮を家だと、今すぐ心の底から言えるわけでもない。

 けれど、目の前のマグカップひとつなら。


 俺はゆっくり手を伸ばし、その白いマグを持った。


「全部はまだ難しいです。でも、これひとつくらいなら」


 俺はマグを持って、食堂の共用棚へ向かった。


 棚には、寮生のそれぞれのお気に入りのデザインが施されたマグカップが隣り合って並んでいる。そしてその端、一つ分空いていた隙間へ、俺は白いマグを置く。


 陶器が棚板に触れる、小さな音がした。


 その瞬間、二階の方でかすかな音がした。何かが本来の場所へ戻るような、低く柔らかい音だった。


 誰からともなく、階段の方を見る。

 後で部屋へ戻れば、それぞれの家具はいつもの位置に戻っているだろう。けれど、段ボールが開くわけではない。俺の部屋が急に居心地のいい場所になるわけでもない。


 それでも、共用棚にあった一つ分の空白は、もう空白ではなくなった。


 マグカップひとつ分だけ、俺はこの寮に場所を譲った。


 たったそれだけ。

 けれど、そのひとつ分の譲歩で、白昼夢はほどけたのだ。

✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼


ここまでお読みくださり、本当にありがとうございます。

こちらの第17話をもって、第2章【マグカップ分の譲歩】の本編は完結となります。


残り1話、エピローグをもって、第2章は完結となります。

よろしければ、是非そちらも読んでみてください。


✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼


第1章では後書きに作品の意図など書いてみたりしましたが、第2章からは活動報告にまとめてようと思います。

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