マグカップ分の譲歩 16
それから、しばらく真弓さんは口を開かなかった。
雨粒が窓を叩く音だけが、仄暗い廊下にぽつぽつと響いている。
どれくらい時間が経っただろうか。
小さくその口が開いた。
「ごめんなさい。どうしても言い出せなくなっちゃって」
蚊の鳴くような、微かな声だった。
両手を前に組み、その頭を下げる。
「そんな、顔を上げてください。……何があったのか、説明してもらえますか」
「もちろん。でも、ほとんど湊くんの言う通りよ。ほんと、頭のいい子だとは思ってたけど……よく見てるのね」
小さな呟きだったが、その声には、感心よりも申し訳なさの方が濃く滲んでいた。
「みんなのお昼ご飯が終わった後、二階の廊下の電球が切れかかっていることに気づいたの。脚立に登って新しいものと交換していたとき、湊くんの部屋の中が見えて」
真弓さんは、言葉を選ぶように一度息を置いた。
「家具があちこち浮いていたわ。段ボールも、机も。すぐに普通じゃないって分かった。……でも、湊くんが中にいるとは思わなかったの。ベッドの方まではよく見えなかったし、部屋に誰もいないと思ってしまった」
俺は黙って聞いていた。
「本当なら、その時点ですぐに悟先生か学校に連絡するべきだった。そう思ったわ。思ったのに……その前に、あのマグカップのことを思い出してしまって」
それが、あの部屋で浮いていた白いマグカップだったのか。
「あれ、入寮した日に渡すつもりだったの。でも湊くん、ご家族から送られてきた段ボールもずっと閉じっぱなしで、ここに長くいるつもりなんてない顔をしてたから」
そこまで言うと、真弓さんは寂しそうに目を伏せた。
「渡したら、ここにいなさいって押し付けているみたいでね。だから、ずっと渡せなかった。……でも、あの部屋を見たとき、今なら置けるかもしれないって思ってしまったの。小窓を少し開けて、マグをそっと差し入れたの。手を離したら、落ちずにふわっと浮いて……」
真弓さんは、そこで小さく首を振った。
「馬鹿なことをしたと思う。すぐに言えばよかったのに、その直後に湊くんが廊下に落ちて、みんなが集まって、怪我はないかとか、部屋に近づかないようにとか、そんなことで頭がいっぱいになって」
その時の慌ただしさを思い出したのか、真弓さんの指がかすかに震える。
「落ち着いたら言おうと思ったの。でも、みんなもいたでしょう。あれは湊くんに渡すはずだったものだから、人前で言うのが急に恥ずかしくなってしまって。そうしているうちに、どんどん言い出せなくなった」
真弓さんは、もう一度深く頭を下げた。
「言い訳にしかならないけど、本当にごめんなさい」
―◆―◇―◆―◇―◆―
マグを入れた理由は分かった。
納得できるかどうかは別として、悪意でやったわけではないのも分かる。むしろ、たぶん反対だ。真弓さんは俺に、この寮に置くものを一つでも持ってほしかった。
俺が何と言えばいいのか迷っていると、真弓さんが顔を上げた。
「でもね、湊くん」
声はまだ小さかった。
「マグを入れたのは私。でも、あの部屋をあんなふうにしたのは、私じゃないと思うの。白昼夢を起こしたつもりなんてないし、どうして家具や段ボールが浮いていたのかも、私には分からない」
その言い方には、怯えが混じっていた。
マグを入れたことは認められる。けれど、自分が白昼夢を起こしたと言われるのは、まったく別の重さなのだろう。
俺もすぐには答えられなかった。
その時、ずっと黙っていた雫が口を開いた。
「たぶん、それも真弓さんだよ」
真弓さんが、雫を見る。
「私が……?」
「うん」
雫は責めるような顔をしていなかった。むしろ、棚の上の花瓶の形を確かめるみたいな、静かな目をしていた。
「あの部屋は、水槽みたいだった。家具も、段ボールも、ベッドも、全部、ふわふわ漂ってた」
「それを、どうして私が……」
「湊の部屋を、そういう部屋だと思ってたんじゃない?」
雫は、言葉を選ぶように少しだけ間を置いた。
「荷物はあるのに、ほどかれない。寝る場所はあるのに、暮らしている感じがしない。いつでも出ていけるみたいに、まるで地に足が着いていないみたいに少し浮いてる。真弓さんには、湊の部屋がそう見えてたんだと思う」
その言葉で、俺は自分の部屋を思い出した。
ベッド。丸テーブル。椅子。壁際の段ボール二箱。
どれも置いてあるだけで、部屋に馴染んではいなかった。
水槽のように漂っていたあの光景は、急に別の意味を持ち始める。
「真弓さんは、俺に根を下ろしてほしかったってことか」
自分で言って、少し居心地が悪くなる。
雫は頷いた。
「全部じゃなくていいから、何か一つでも。そういう夢だったんだと思う」
真弓さんは、胸の前で両手を握りしめた。
「私、そんなつもりで……」
「白昼夢って、そういうものだよ」
雫の声は淡々としていた。
「本人が『起こそう』と思って起こるものじゃない。むしろ、自分でも見ないようにしていた気持ちが、先に形になる」
真弓さんは言葉を失った。
俺も何も言えなかった。
マグを入れたことと、部屋が水槽になったこと。今まで別々に見えていた二つが、同じ場所へ繋がってしまった。
真弓さんは、俺にここを帰る場所にしてほしかった。
でも、直接そう言うことはできなくて。
そして部屋は、荷物が漂うだけの水槽になった。
たぶん、それがこの白昼夢の核だったんだ。




