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神様失格 ~宵蛍~  作者: 凪波はるか
マグカップ分の譲歩
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マグカップ分の譲歩 15

 俺は一階へ行き、目的の人物を見つけると、近くまで寄って声をかけた。


「真弓さん、ちょっといいですか」


 台所からは食欲をそそる温かな湯気が立ち上がっている。夕食の準備中らしく、まな板の上には刻みかけの野菜が並んでいた。

 俺の呼びかけに、真弓さんは包丁を持つ手を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。


「湊くん……」


 その目が、ほんの少し揺れた。

 まるで、俺がこれから何を言おうとしているのか、もう分かっているみたいだった。


「単刀直入にお聞きします。僕の部屋にマグカップを入れたのは、真弓さんですね」


 鍋の煮える音だけが、くつくつと小さく続いていた。

 真弓さんは数秒間、俺の顔を見ていた。それから何かを諦めるように目を伏せる。

 

 そして、しばらくの静寂ののち、重く口を開いた。


「……どうして分かったの?」


「それを説明する前に、一緒に来てほしい場所があります」


 真弓さんは包丁をまな板の横に置き、コンロの火を止めた。手を布巾で拭いてから、黙って俺についてくる。

 廊下を歩きながら、俺は順を追って話し始めた。


「今回の白昼夢で、一番おかしかったのはマグカップでした。僕の部屋は水槽みたいになっていて、家具も段ボールも浮いていた。でも、あの白いマグだけは元から部屋にあったものじゃない」


 横を歩く雫を見る。

 あれは白昼夢が作ったものではない。雫の目でも確認したうえ、実際、底には刻印、取っ手にも細かい傷があった。


「僕が寝る前、あのマグは部屋になかった。だから最初は、誰かが寝ている間に部屋へ入って、テーブルに置いたのだと思いました」


 最初に雫と部屋に入ったときの会話を思い出す。

 途中ですり替えられた可能性もあったが、騒ぎのあとに誰かが部屋へ近づけば目立つ。だから、あのマグは僕が目を覚ました時点ですでに実物だったと考えた。

 

 けれど、と続ける。


「この寮の扉、かなり軋むんですよ。僕の部屋もそうです。寝ていたとはいえ、誰かが扉を開けて入ってきたなら、気づく可能性は高い。それに、部屋の中に入った痕跡もなかった」


 廊下の奥、二階へ続く階段が見えてくる。


「そこで結に言われました。部屋に入っていない可能性があるんじゃないかって」


 真弓さんの足が、ほんの少しだけ遅れた。


「普通の部屋なら無理です。外から陶器のマグを入れれば、落ちて割れる。でも、僕の部屋は水槽みたいになっていた。中では物が落ちずに浮く」


 階段を通り過ぎて、一階奥の物置の前で足を止めた。


「問題は、どこから入れたのかです」


 この物置はもともと寮生の個室だったが、今は掃除道具や寮の備品を押し込む部屋になっている。普段は施錠されていて、開けるには寮母である真弓さんの鍵が必要だった。


「僕の部屋の普通の窓は閉まっていました。扉を開けた形跡もない。残るのは、扉の上のトランサム窓です」


 真弓さんは黙っている。


「でも、あの窓は高い。僕が背伸びしても届きませんでした。届かせるには、足場がいる」


 俺は真弓さんに視線を向ける。


「今朝、二階廊下の電球がちらついていました。でも、さっき見たら新しいものに替わっていた。あの高さの電球を替えるには、脚立が必要です」


「……なんで、私が替えたと?」


 その声は今にも消えそうだった。反論というより、自分で自分を追い詰める響きがあった。


「晴が、昼食のあとに金属の脚が壁に当たるような音を聞いています。それに、電球を替えるなら、寮の備品を使うはずです」


 俺は真弓さんに正面の扉の錠を指し示す。


「開けてもらえますか」


 真弓さんはしばらく扉を見つめたまま動かなかった。やがて、ポケットから鍵を取り出し、錠を開ける。


 扉が開くと、停滞していた空気が廊下へ流れ出した。埃と黴の匂いが鼻を刺す。

 中には掃除道具、古い扇風機、使わなくなった備品が押し込まれている。そして壁際に、折り畳まれたアルミの脚立が立てかけられていた。


 床にはうっすら埃が積もっている。

 けれど、脚立の足元だけ、その埃の位置が少しずれていた。最近、誰かが動かした跡だ。


「この脚立を使ったんですよね」


 真弓さんは何も言わない。


「電球を替えるために脚立に乗った。その高さなら、ちょうど僕の部屋のトランサム窓に目線が届く。そこで、部屋の中が見えた」


 浮いている段ボール。

 水槽みたいに揺れる部屋。

 ただし、その位置から部屋全体が見えたわけではないはずだ。


「その時点で、僕が部屋にいるとは思わなかったんじゃないですか」


 真弓さんは何も言わない。


「そして、部屋が普通じゃないことに気づき、扉の上の小窓からそっと入れた」


 普通の部屋なら、そんなことをすれば落ちて割れる。

 だが、あの部屋なら――。

 水の中みたいに変わったあの部屋であれば、重力に逆らって、ゆっくり漂うはずだ。


「僕の考えはここまでです。間違っていたら、教えてください」


 物置の薄暗がりの中で、真弓さんは小さく息を吐いた。

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